after Day. 7
部活動が終わっても、数学の時間は終わりません。
道路に薄く張った雨水を跳ね飛ばしながら、一台の車が進んでいる。さっきまでの暴風雨はどうやらゲリラ豪雨の一種だったみたいだが、それでもかなりの量の雨が降ったようで、排水がまだ追いついていない。
わたしを助手席に乗せている車を、運転しているのはわたしの姉、八重子である。自宅と学校はそれなりに離れているものの、普段は徒歩で登下校しているわたしだが、雨風の強い中を歩くのは危ない上に、折り畳み傘以外の雨具を持っていないので、運転免許を持っている姉に迎えを頼んだのだ。まあ、さっきまでの暴風雨は、車で移動するにも覚悟が必要なレベルだったが……。
さて、無事に姉の車に乗り込んで帰路についたわたしは、姉に今日のマス部での出来事を話している。
「……という感じで、複素数のことを教わったわけ」
「はあー……元から存在しない数を作って、常識の通じない世界を作るとか、数学好きはイカれてるなぁ」
「イカれてるとか言わないで。蘭子先輩も杏里先輩も真剣に考えているんだから」
「へいへい」
「それと、数というのがそもそも抽象的なものだし、元から存在するかしないかでいったら、普通の数だって存在しているかどうか怪しいよ……?」
「もんちゃんもだいぶイカれてきたわね……」
なぜかドン引きしている姉。自覚がなかったけど、マス部に入ってからわたしも、だいぶ考え方が変わってきたみたいだ。でもそれをイカれていると言われるのは癪に障る。
ちなみに“もんちゃん”というのは姉だけが使うわたしのあだ名だ。
「いやぁ、教科書の内容を先取りできるっていいね。この先の勉強がかなり楽になりそう」
「数学しか先取りできてないけどね」
「っ……その分、他の科目に時間使えるもん」
我が姉ながら嫌なところを突いてくる。数学に限らず他の科目も平均的なわたしだけど、少しでも成績を上げたいという望みがないわけじゃない。全科目に秀でた先輩たちと一緒にいられるマス部の環境は、わたしにとって幸運と言えるだろう。……数学以外を教えてはくれそうにないが。
すると、姉がわたしに質問してきた。
「ねぇ、さっきの複素数の話……ひとつ気になったことがあるんだけど」
「えっ? お姉ちゃんがわたしに、数学の質問……?」
「いやまあ、あんたやマス部の人たちには、たいした話じゃないかもだけど」
それでも珍しいことだ。大学生の姉は経済学部に在籍していて、数学は実用的なものしか触れておらず、大学の講義で必要になる内容以外は特に興味がないという人だ。そんな姉が、経済学で必要になるとは思えない複素数の話に、首を突っ込んでくるなんて。
「嵐でも来るのかな……」
「とっくに来てるでしょ。あともう治まってるし。あのさ、-1をかけたら数直線が180°回転するから、虚数iをかけたときは90°回転して、虚数の軸は垂直になるって言ったじゃん?」
「うん」
「あれって、反時計回りじゃないとダメなの?」
「…………え?」
「だって、-1をかけて180°回転するっていっても、どっち方向に回転するかまでは分からないじゃん。時計回りだったら、虚数の軸は上下逆になってもおかしくないよね。なんで時計回りでは考えないんだろ」
確かに……杏里の話に誘導されて気づかなかったが、考えてみれば、どちらの方向に回転するかまでは、与えられた情報から決められない。ということは、虚数の軸が上下どちらを向くのか、虚数iは0から見て上にあるのか下にあるのか、決めることもできない。
では、なぜ回転方向は反時計回りなのか?
「…………」
「あー、もしかしてあれかな? 第一象限ってやつが関係しているのかな」
「第一象限って……座標の?」
わたしがずっと無言で考えていて、居たたまれなくなったのか、姉が思いつくままに言った。
座標平面は、二つの座標軸によって四つのエリアに分割される。右上のエリア、つまりx座標とy座標の両方が正の値となる範囲を“第一象限”と呼び、そこから反時計回りに、第二、第三、第四象限と呼ばれる。
「ほら、四つのエリアに分けられるといっても、やっぱりメインになるのは、両方の座標がプラスの値になる第一象限じゃない?」
「まあ真っ先に考える範囲だし、だからスタートの意味で“第一”ってつけたんだろうし」
「つまり、座標の世界で回転を考えるときも、第一象限を起点にした方が、都合よかったんじゃないかな」
なるほど、我が姉にしてはいい線をいっている。
横向きの実数軸を回転するときも、後から座標を使って複素数を定義するつもりだから、第一象限にあたる範囲で実部と虚部の両方が正の値になるように、回転方向を反時計回りと決めたわけだ。
確かにこれなら、従来の座標の考え方と符合するわけだし、蘭子のいう自然な拡張だといえる。とはいうものの……。
「結局人間の都合で勝手に決めただけかぁ」
「ま、どちらかに決めないと話が進まないから、何かと都合のいい方を選んだってことじゃない? そんなの数学に限らずどこにでもあるでしょ」
「それはそうだろうけど、なんかモヤモヤする……」
「あれよ、マイナスとマイナスをかけたらプラスになるってやつ。あれだって結局、何かと都合がいいからプラスに決めただけでしょ。前にもんちゃん、そんな話してたじゃん」
よく覚えているな……姉の知らなかったことを、妹のわたしから教わったから、強烈に記憶しているのかもしれない。
マイナスとマイナスをかけたらプラスになる。色々と証明の方法はあるが、いずれも、分配法則がマイナスの世界でも成り立つ、という前提での話だ。つまり分配法則を犠牲にして、マイナス同士をかけたらマイナスになると決めて、数学の理論を構築することもできなくはない。ただし、今よりもっと面倒くさく複雑な理論になるので、誰も採用したくない、というだけのことだ。
「でも、複素平面のことを知った今だと、マイナスかけるマイナスがプラスになるのは、とても自然なことだと思えるんだよね」
「そうなん?」
「-1をかけて180°回転するってことは、2回かけたら一周して元に戻る、ってことだし」
「なるほどー……回れ右を二回やったら元の向きに戻るのと同じだね」
「そうそう、まさにそんな感じ。要するに、マイナスをかけると符号が逆になる、ってことだね。プラスはマイナスになって、マイナスはプラスになる」
「これはこれで統一感があるよね。しかし、マイナスを習いたての頃は、マイナス同士をかけたらプラスになることに違和感ばかりあったのに、今じゃそんなこと、疑問にすら思わなくなったなぁ」
「それだけマイナスの計算が上手く定義できているってことだね」
「まあ、そのおかげでどんな実数も2乗したらプラスになってしまい、結果的に虚数なんて変なものが生まれることになったわけだが」
「変なものって……ん?」
あれ、なんか引っかかったような。
どんな実数も……つまりプラスでもマイナスでも、2乗すれば必ずプラスになる。そして虚数は、2乗したら必ずマイナスになる。だから、iも-iも、2乗すれば-1になるわけで……。
ああ、分かった。違和感の正体が。
虚数の軸が実数の軸と直交するのは、-1をかけて180°回転するから、iをかけたときは90°回転すると見なせるため、だったはずだ。-1はiの2乗だから、-1をかけることは、iを2回かけることと同じ。
でもこれは、-iでも同じことが言えるのでは?
そう……-iだって、2乗すれば-1になるのだから、今のiの位置に-iがあって、虚数軸の数の並びが逆順になっても、整合性は崩れない。
確かに、iが0の上にある方式だと、-iをかけることは、実数軸から時計回りに90°回転することだから、2回かければ時計回りに180°回って、同じように-1に辿り着く。でも、同じように-1に辿り着くなら、iを2回かけることと、-iを2回かけることは、どうやって区別したらいいのだろう?
座標平面の第一象限にあたる範囲で、実部と虚部の両方をプラスにしたいから、iをかけるときは反時計回りと決めた、というだけだろうか。しかしそれなら、二つある-1の平方根のうち、どちらをプラスのiとすればいいのか。
実数の範囲なら簡単だ。0より大きい方をプラスの平方根とすればいい。同じように、虚数でも0より大きいかどうかで判別すればいいだろうか。
いや……ついさっき、虚数の並びが逆順になっても、整合性が崩れないと分かったばかりだ。虚数の大小関係を決めるには、iをかける回転と-iをかける回転を、明確に区別しないといけない。これでは、いわゆる循環論法になってしまう。
ああでも、マイナスをかけたら符号が逆になるわけだから、プラスのiをかけた場合には、符号が逆転せず、実数の大小関係がそのまま適用できるのでは……。
いや、だめだ。プラスをかけて符号が変わらず、マイナスをかけて符号が逆になる……それは実数の世界だから言えることだ。実数は、自然数という大小関係のはっきりした数から、一本の直線の上だけで拡張されたものだから、大小関係が変わることはない。でも、平面に拡張された複素数で、大小関係が変わらないという保証はどこにもない。
そもそも、マイナスをかけて符号が変わるのは、-1をかけたときに180°回転するからだ。90°回転で符号が変わるかどうかを判断するなんてできない。
だとすると……。
iと-iって、どうやって区別したらいいのだろう。
違う数なのは間違いない。複素平面の形がなんであれ、iと-iは、0を挟んで正反対の位置にある、この事実は恐らく揺らがない。だけど、これならi、これなら-i、という具合に、どちらか片方に決定するための条件が、まるで見当たらない。
これは……思ったより難解な問題かもしれない。
「おーい、もんちゃん。さっきからどうした?」
ずっと黙って考え事をしているわたしに、心配そうに声をかける姉。たぶんわたし、悩みすぎてかなり険しい表情になっていただろうな。
「ねえ、お姉ちゃん……」
「ん?」
「虚数ってやっぱり……変なものかもしれない」
「お姉ちゃんはさっきからずっとそう言ってるぞー」
だって、明らかに違う数なのに、区別する方法が分からないなんて、実数ではまず考えられない。これを変な数と言わずして何という。
「まあ、だからこそ、変な人たちに好まれるんだろうなぁ、虚数って」
「結局あんたもそう言うんかい。数学好きの先輩たちがイカれてるって言ったら怒るくせに」
「あの人たちにとって、“変な人”は褒め言葉だから」
「……やっぱイカれてるわ、あんたの先輩たち」
どこまでも常人とは感覚が噛み合わない、それが数学好きである。常識から常にはみ出している数学徒が、数直線からはみ出した虚数を考えつくのは、ある意味必然なのかもしれない……。
虚数iと-iはどうやって区別したらいいのか。茉莉は疑問に辿り着いただけでしたが、皆さんはどうでしょう。ぜひ調べてみてください。




