Day. 1 0か1か、それが問題
久々の新シリーズ、そして久々のコメディです。
これまでも自作品で数学を扱うことはたまにありましたが、今回は全編にわたって数学を取り扱っています。とはいえ、「数学はこんなに役に立つ」なんて戯れ言をのたまうつもりはありません。徹底的にぐだぐだなガールズトークコメディの題材として、利用させていただきます。
なお、今後の展開を踏まえて、ガールズラブ指定を入れておきましたが、注意が必要な描写はしばらく出ない予定です。ひとまず、女の子たちのアホなやり取りと、奥深い数学の世界を、お楽しみください。
ひとつしかない小さな窓から、薄日が差し込んでいる。まだ明るい時間帯だからと、天井灯も点けていないが、北向きの窓から入ってくる外光では心許なく、狭いこの部屋も微妙に暗い。本やスマホを見ようとしたら、あっという間に目が疲れそうだ。
そんな薄暗い部屋の真ん中で、錆びついたパイプ椅子に腰掛け、ボロい長テーブルに両肘を突いて、及川蘭子は神妙な顔つきでわたし達に語り始めた。
「二人にね、折り入って相談したいことがあるの……」
薄日を浴びて陰の差した顔で、そんなことを言い出すものだから、軽部杏里も、わたしも、ごくりと固唾を飲んで、次の言葉を待った。
果たして、蘭子がわたし達に、真剣な顔で相談したい事とは、何なのか……。
「……自然数の最初は、0か1か、どっちだと思う?」
身構えて損した、と思った。
またか、と言わんばかりに、杏里は呆れてため息をつく。
「蘭子ちゃん……その話好きだよねぇ。ことあるごとに持ち出しては、特にこれっていう結論も出ないまま、いつの間にか忘れて帰路につく」
「結論が出ないのは杏里たちが真面目に考えてくれないからでしょー!? こっちはいつだって真剣なのに!」
「真剣に考えるような話かな、これ……」
「あのー……」
二人の先輩たちの話に、わたしはなんだかついて行けない。さっきから何を言っているのだろう?
「よく分からないんですけど、自然数って1から始まるものじゃないんですか?」
「そこからかいっ!?」
蘭子はちょっと大げさにツッコミを入れた。杏里いわく、こういう人らしい。
* * *
ここは私立つばき学園高校。校名にはないけど女子校であり、約六百名の女子生徒が在籍している。以前は良家のお嬢様たちが多数通い、淑女となるための教養を学ぶ場だったが、時代を経るにつれて令嬢の割合も減っていき、実に多種多様な女子生徒が集まるようになった。
この高校の敷地内には、校舎と体育館とグラウンドの他に、式典に使われる大きな礼拝堂や、一部の生徒が生活している寮、そして敷地の片隅には文化部棟が存在する。
元はお嬢様学校ということもあって、部活動はさほど活発でない代わりに、制約も少ない。生徒たちが趣味を通じて交流を深めることを、部活動の第一の目的と考えて、自由に部を創ることが認められている。それゆえ、おかしな部があることも珍しくない。
文化部棟の二階、奥から二番目という半端な位置に拠点を持つ、数学研究クラブ、通称『マス部』もそのひとつだ。
そして何の因果か、わたし、鈴原茉莉は、唯一の一年生としてこのマス部に入部してしまっている。ちなみに中学時代の数学の成績は、三年間通して『3』だった。
大して数学に興味があるわけでもないわたしを、この狭い部室で待ち構えていたのが、二年生のこの二人である。
「マス部の部員ならこのぐらいは知っていてほしかったけどねぇ……」
さらさらとした長い黒髪を手で靡かせながら、ズブの素人に向かって酷なことを言ってくる、部長の及川蘭子。二年生の学年首席で、普段は物静かで淑やかな美人だけど、実は大の数学好きで、数学が絡むと興奮して饒舌になる。クラスでは一人でいることが多いらしいが、孤高というより、その人格の豹変ぶりに周囲がドン引きしているのが理由だ。
「高校に入ったばかりの茉莉ちゃんに、それは厳しいんじゃないかなぁ」
蘭子を冷静にやんわりと窘める、副部長の軽部杏里。今のつばき学園高校では少なくなった、良家のお嬢様らしいおっとりした風貌で、実際に誰にでも分け隔てなく優しく接するので、学校全体の人気者だ。蘭子とは幼馴染みらしく、二人で一緒にいることが多い。
一見すると蘭子と違って常識人に見えるが……。
「ごめんねぇ、茉莉ちゃん。蘭子ちゃんも悪い子じゃないのよ。好きなものが絡むと周りが見えなくなるだけなのよ」
「それは、分かってますけど……むぎゅ」
「茉莉ちゃんが入ってくれて本当に嬉しいから、やめるなんて言い出さないでねぇ」
と、横からわたしに抱きついて、頭にすりすりと頬を寄せてくる杏里。セミロングで内巻きの髪が揺れて、ちょんちょんとわたしの鼻先に触れる。ちょうど首の辺りに、彼女のふくよかな胸部が押しつけられている。
蘭子以外に知る人は少ないが、杏里は可愛い女の子が大好きだという。どうやらわたしは、彼女のお眼鏡に適ったらしく、たびたびこうしてスキンシップを受けている。初めはあの巨乳が当たるだけで、ドキドキして落ち着かなくなっていたけど、すっかり慣れてしまった。
「ふむ……」蘭子が口元に手を添えて何やら考える。「性格の穏やかさとおっぱいの大きさは、相関関係があるのだろうか」
「どうしたの急に」
「いや……わたしも穏やかな性格でいれば、自慢できるおっぱいが手に入るのか、と思って」
空想の巨乳を持ち上げるように、胸の前で両手をくいくいと上げ下げする蘭子。巨乳に憧れがあるとは知らなかったが……。
「それは諦めたほうがいいのでは」
「ちょいちょいちょーい。さらっと性格が終わってるみたいに言うな」
「手遅れだと思います!」
「キリッとした顔で言わんでよ! 入部一ヶ月でずいぶん遠慮がなくなったね!」
人付き合いの上手くないわたしがマス部に馴染めたのは、ひとえに先輩たちがフランクに接してくれたおかげだ。当初思ったより楽しい部活で、居心地のいい場所になっている。
「そもそも蘭子ちゃん、相関関係と因果関係は違うんだから、性格を変えても胸のサイズが変わるとは必ずしも言えないんじゃない?」
「それもそうね。論理的帰結とは言えなかったわ」
それ以前の問題だと思うけど……なんだかんだ言っても、同じマス部の部員だけに、二人は馬が合うみたいだ。
「それより先輩方……自然数の最初が0か1かって、どういうことなんですか? 整数は、自然数と負の整数と、どちらでもない0に分けられるって、習いましたけど」
自然数(正の整数)→ 1,2,3,4,…
負の整数 → -1,-2,-3,-4,…
それ以外 → 0
自然数は1から始まるもの、そんなの常識だと思っていた。まあ、この人たちに果たして常識が通じるか、極めて怪しいが。
「なんか失礼なこと考えてない?」
「いいえー」
「確かに、正の整数に0は含まない。でも、自然数には含まれることがあるのよ」
「はい?」
わたしは眉をひそめた。全く話の見えてこないわたしをよそに、蘭子はひとり語り始めた。ミュージカル女優みたいな身振り手振りで。
「レオポルト・クロネッカーいわく、自然数は神に与えられし数であり、他の数はすべて人間が作ったものである……古代の人間が物物交換という経済活動を覚えると、自然数はその名の通り、自然と人間の頭の中に生まれ、数えるという行為を覚えた。しかし! 人間の知恵はやがて“数えられない”ものにも及び、自然界の事象を説明する道具として次々と、新しい数を生み出していったのだ……」
「杏里先輩、あの話、まだ続きます?」
「こうなると最低でも十分はかかるわねぇ。興が乗るとどこまでも脱線するから、あの子」
困った子供の世話を焼くかのように、杏里は苦笑してみせた。幼馴染みで同い年のはずだけど、なんだか母と娘みたいな二人だなぁ。
踊るようにくるくると回りながらご高説を繰り広げる蘭子をよそに、杏里はわたしに優しく説明を始めた。
「要約すると、自然数は文字どおり、人間が自然と身につけた概念だけど、正の整数は、まず整数という、より広い概念があって、その中で0より大きいものにつけた名前なの。だから、正の整数に0が含まれないのは定義どおりだけど、自然数は感覚的につけた名前だから、その辺りがあやふやになりがちなのよ」
「そっか……教科書では同じものとして扱っているけど、名前が生まれた経緯は違うんですね」
「そうそう、だから自然数に0を含んでも、それが不自然でなければ別に構わないのよね」
「でもなあ……物を数えるために生まれたのが自然数なら、0はやっぱり含まないと思うけどなぁ。無い物は数えようがないし」
「君は0を侮辱するつもりかッ! インド人の発明した偉大な数を!」
ひとりミュージカルを中断して、カッと目を開いてわたしを指弾する蘭子。めんどくさいなぁ、この数学先輩。
「まあ長年、教科書で植え付けられているから、すぐには飲み込めないかもね。わたしも初めはなかなか受け付けなかったわ」
「今はどうなんですか?」
「時と場合によるし、どっちでもいいかなって」
「聞き捨てならないわよ、杏里」
蘭子は両手を腰に当てて、鋭い視線をじっと杏里に向けてくる。
「数学の定義の基本はwell-defined……すなわち、現存する体系と矛盾を生じず、シンプルかつ的確に問題をモデル化できる、そういうものでないといけないわ。0を含むか含まないか、この違いは些細なようで大きな影響を及ぼす。生半可な決め方で蔑ろにしていい話じゃないのよ!」
「なんて言ってるけど、蔑ろにされずに終わったためしがないのよね」
「私はいつもきちんと決めようと真剣に考えとるんじゃーッ!!」
と、両手を広げて天を仰ぎ、雄たけびを上げる蘭子。普段のお淑やかな美人は一体どこへ……。
「そもそも、自然数に0を含んで自然になることって、あるんですか?」
「集合論の世界では、0を含むことが多いわね。茉莉ちゃんは、『ペアノの公理』は知ってる?」
「聞いたことないですね……ペアの、氷?」
頭の中に2個の氷の塊が浮かんだ。
「そうそう、氷を2個組み合わせてペアの氷、ってなんでやねん」
「杏里、慣れないノリツッコミはやめておきな」
ほんわかと笑顔で裏拳ツッコミを入れてきた杏里に、蘭子は厳しい一言。自分でも下手くそだという自覚はあったのか、杏里はみるみるうちに真っ赤になって、両手でその顔を覆いながら引っ込んだ。なんか、かわいいな。
蘭子はホワイトボードに大きく『ペアノの公理』と書いて見せた。
「ペアノの公理、だ。高校では習わないが、集合としての自然数を定義するためのルールのことだ」
「自然数を、定義する……?」
「君たちは、自然数とは何か説明するとき、1、2、3……のようなもの、といえばなんとなく察することができるが、数学でそんな曖昧な説明は許されない。ペアノの公理は、基本的な集合のルールに則って、自然数の集合とはこういうものだ、とルールを決めておき、そのルールを満たしている集合に属しているものを、自然数と呼ぶことにしているのよ」
「えっと、つまり……先に集合から決めておいて、その中身を自然数と呼ぶ、ってことですか」
「まあ、そんな感じの理解で構わない。で、そのルールというのが、この五つよ」
蘭子はホワイトボードに、目にも留まらぬ速さで書き込み始めた。
1.0がNに属する
2.aがNに属していれば、S(a)もNに属する
3.S(a)=0となるaはNに属していない
4.a≠bならば、S(a)≠S(b)
5.Nの部分集合Mについて、0がMに属し、かつ、Mの任意の要素aに関して、S(a)もMに属しているなら、N=Mである
「これが、数学者ジュゼッペ・ペアノが提唱した、自然数の集合のルール、ペアノの公理よ」
案の定だけど、さっぱり内容が飲み込めない。でも真っ先に気づくことがあった。
「……0が入ってるみたいですが」
「これも流儀があるからね。本によっては、1と3と5にある0の部分を、1と書いているものもある」
「つまり、ここにあるルールだけだと、0を含むか含まないかは決められないんですね……」
「残念ながらね。ちなみに、このS()という記号は、後者関数のこと。大雑把にいえば、“次の数”という意味になる」
「次の数……1の次は2、2の次は3、という感じですか?」
「結果的にはそうだけど、ちょっと先走っているかな。0以外の要素については、集合Nがこの五つの公理全てを満たしていると確認してから初めて、1,2,3…という名前をつけられる。つまり……」
N=【0, S(0), S(S(0)), S(S(S(0))), …】
↓ペアノの公理を満たしていれば
N=【0, 1, 2, 3, …】※自然数の名前をつけた
「手順としてはこうなる」
「そっか、公理1にある0から始まって、公理2を繰り返し使うことで、全ての自然数を生み出しているんですね」
「公理1と2で自然数の核となる部分を作り、残りの公理によって自然数のあるべき構造を指定しているわけだ」
「面倒なことを考えますねぇ……」
「でもこれってすごい事なんだよ」杏里が言う。「自然数は無数にあるのに、その全てをたった五つの公理で、構造も含めて説明できるんだから。自然数に関するあらゆる性質は、全てこの五つから始まると言ってもいいわね」
なるほど、そう言われるとすごい事に思えてくる。自然数という無数の数からなるでっかい存在を、五つの公理だけで完璧に説明するなんて、常人に思いつける事じゃない。
「でも、“次の数”というのは、なんかふわっとした表現ですよね。数学っぽくないというか」
「集合Nの各要素に対して、これと違うNの要素を対応付けていれば、実際は何でもいいからな。ペアノの公理の本質は、自然数の集合に特有の構造を、いかに少ない公理で説明するか、ということにある。誤解を恐れずに言えば、構造さえ一致していれば、数の集合でなくたって構わない」
「え!? でもこれって、自然数の定義ですよね?」
「だから、この公理をすべて満たしている集合だったら、何であろうと、自然数の集合と同一視できるってことよ」
うおお……なかなかのカルチャーショックだ。数の集合でなくても、一定のルールを満たしていれば、数の集合と同じものだと見なすなんて、今までわたしが学んできた数学と、全然世界が違っている。
先輩たちは、というか数学のガチの研究者って、いつもこんなことを考えているのか? 住む世界が違いすぎる……。
「茉莉ちゃん、最初は戸惑うと思うけど、こういう、見た目は違うけど性質が同じなら、同じ構造と見なす、という考え方は、数学の世界だとたくさんあるの。これから茉莉ちゃんも、そういう事例を何度も見ることになるんじゃないかな」
いつの間にか復活していた杏里が、優しい眼差しと口調で、ぐるぐる混乱していたわたしに語りかけてくる。ああ、聞いているだけで落ち着く……。
「杏里先輩の声、iPodに入れて何度も聞きたいです……」
「急にどうしたの、茉莉ちゃん!?」
「私はウォークマン派だから、とりあえずMP3で記録しておこうかと」
「蘭子ちゃんまで!? もう、どうでもいいから! お話の続きをしようよ! ほら、フォン・ノイマンの構成法のこと、早く話した方がいいんじゃない!」
真っ赤になって照れてる……やっぱかわいいな、この先輩。
「で、何ですか、フォン・ノイマンの構成法って」
「さっきも言ったけど、ペアノの公理を満たす集合は数の集合だけじゃない。ジョン・フォン・ノイマンが考案した、空集合∅だけを使って構成した集合も、そのひとつ。空集合は知ってるよね」
「空襲用の防空壕ですか」
しーん……。
「冗談です。空っぽの集合ってことですよね」
「君の冗談は心臓に悪いな」
普段あまり冗談を言わないのが災いしたらしい。今後はもっと慎重にやろう。
「それで、空集合だけでどうやって、自然数と同じ集合を作るんですか」
「ふむ……本来なら数式できっちり説明したいところだが、今はざっくりとしたイメージで済ませておこう。というわけで」
蘭子は、部室の隅で山積みになっている段ボール箱のひとつを引っ張り出し、その中から大小さまざまな皿を取り出して、長テーブルの上に並べ始めた。
「あの、このお皿って……」
「蘭子ちゃんが、『何かに使えるかもしれない』って言って、近所のフリーマーケットで買い漁ったものなの。案の定、使う場面がほとんどないから、段ボールごと埃をかぶってたのね」
「安物買いの銭失い……」
「こらこら、フォン・ノイマンの構成法をビジュアル的に説明するには重宝するんだから、無駄な買い物だなんて言わせないわよ」
蘭子は力説するが、その説明をする機会が滅多になかったら無意味では……まあ、言わないであげよう。ただでさえ部員が少ないことを気にしているし。
「さて、茉莉。この皿の上には、何が載っている?」
蘭子が指で示したのは、子どものままごとで使うような、指先に載りそうなサイズの小皿だった。それ以外は、何もない。
「……小さな子どもの想像力?」
「大喜利じゃねぇ。見たまんま素直に答えなさいよ」
「何も載ってないように見えます」
「よろしい。これが空集合の状態だ。ではこれを、もう一回り大きい皿の上に……」
さっきの小皿と同じサイズの別の皿を、醤油皿っぽいお皿の上に載せて、隣に置いた。
「はい、一番下の皿の上には、何が載っているか」
「さっきの小皿です」
「よろしい。要素1つの集合の状態だ。では、また別の皿に載せまして……」
またしても別の小皿と醤油皿を用意して、今度は細長いお皿の上に、小皿一枚と、別の小皿一枚を載せた醤油皿を、並べて載せた。
「はい、一番下の皿の上には、何組の皿が載っているか」
「何組の……」質問が少し変わった。「えっと……二組、でいいですか」
「よろしい。つまり要素は2つということだ。さらにさらに……」
「皿だけに?」
「変な茶化し方すんな。目を皿にしてよく見てろ」
くふっ、と噴き出す声が聞こえた。よく見たら、杏里が口元を押さえてうずくまり、プルプルと震えている。わたしと蘭子の皿ダジャレが、なぜかツボにハマったらしい。言った本人は真顔だけど。
すでに用意された皿たちと、同じ組み合わせのお皿をまた用意して、また一回り大きいお皿の上に並べた。小皿、小皿を載せた醤油皿、その二つを載せた細長い皿、それらすべてを載せた大きな皿……。
「今度は三組載せている……これって、同じことがいつまでも続けられますね」
「まあ、皿の数には限りがあるから、現実的に無限に続けることはできないけど、理論上は、永遠に同じ作業を繰り返すことができる。今までに作った組み合わせのお皿と同じものを、もっと大きな皿の上に載せて、今までに作ったものに加える……空っぽの皿を空集合に見立てれば、こんな感じの集合が作られていることになる」
蘭子はホワイトボードに、多種多様なカッコの羅列を書き始めた。
{ }
( {} )
[ {} , ({}) ]
< {} , ({}) , [{},({})] >
【 {} , ({}) , [{},({})] , <{},({}),[{},({})]> 】
「こうすれば、空集合だけを利用した集合を、順番に、無数に作る事ができる。新しく集合を作る作業は、そのまま後者関数として使えるし、最初の空集合の前には、別の集合が入る余地がない。そして、異なる集合から、同じ作業をして、全く同じ集合が作られることはない。だから、これらの集合をまとめたものは、ペアノの公理を満たしていると言えるわけ」
おー……複雑な話ではあったが、同じ作業を続けることで、空集合から無数に集合を生み出すことができて、それがペアノの公理というルールを満たしている、というのは素直に驚きだ。
……あれれー、おっかしーぞー。
「最後の条件は確かめてなくないですか」
「ああ、すまん。5番目の条件は内容こそ複雑だが、言いたいことは要するに、『条件1と2を使って作られた要素以外、Nに属する要素はない』ということだ。フォン・ノイマンの構成法では、ここに書いた要領で作られる集合以外は最初から使わないと決めているので、条件5を確かめる必要はナッシング」
「数学なのに適当すぎませんか!」
「数学の世界で“適当”は“適切”と同じ意味に取られるから、気をつけた方がいいぞ」
「ああ、はい」めんどくせぇな。
「ちなみに、5番目の条件があることで、君にとってもおなじみの『数学的帰納法』が、ちゃんと使えるということが保証される。要するに、条件1にある0で確かめて、条件2に従って0に後続関数を有限回適用した全ての要素で確かめたら、結局全ての自然数で確かめたことになるんだ」
数学的帰納法、か……そうか、これがあの時の答えだったのか。
初めてこの二人に出会ったとき、わたしは数学的帰納法のある疑問をぶつけた。その時は結局、二人の口から答えは聞けなかった。だが、このペアノの公理の5番目の条件こそ、わたしが知りたがっていた答えそのものだった。
なるほど、自然数の条件にあらかじめ含ませておくことで、数学的帰納法が問題なく使えるようにしたわけか。なんだか力業っぽい気もするけど。
「まあとにかく、この集合たちがペアノの公理を満たしていると分かったので、これらは自然数と同一視できる。その上で、途中の質問を思い出して……一番下の皿の上に、何組の皿があるか。これは、各集合の要素の個数を聞いている」
「確か、最初は何もなくて、一組、二組、三組……と順に増えていましたね」
「そう。つまり各集合の要素の個数が、そのまま対応する自然数になっている、てこと。そうすると、最初の自然数は……」
「0、ってことになりますね」
おぉー、と言いそうになった。最初は信じがたかったけど、確かにフォン・ノイマンの構成法だと、0から始まっていると見る方が自然だ。自然数だけに。
「すごい、面白いですね、これ!」
「楽しんでくれてるようで何よりね」と、嬉しそうな杏里。
「こんな基本的なところで、0から始まるのが自然だっていうなら、もうそういう事でよくないですか」
自然数の定義の段階で、0を含めた方が自然なら、蘭子の懸案は解決したのも同然だと、わたしは素直に思った。だけど、なぜか二人は、複雑そうに苦笑いを浮かべている。
「う~ん……」
「あれ、どうしたんですか?」
「確かに、集合として自然数を定義したら、0を含めた方がいいのだけど……」
「実は、0を含めると都合の悪いパターンもあるのよね」
そうなのか。ずっと自然数に0を含まない世界で生きてきたから、0を含めると都合の悪い場面が、かえって想像できない。
「茉莉ちゃん、素因数分解は知ってる?」
「えっと確か……素数のかけ算に分解するやつ、ですよね」
「厳密には、自然数を素数の積で表すこと、と言うべきだな」
蘭子からダメ出しが入った。同じことじゃないか……とは思ったが、前にも似たようなことでネチネチ言われたことがあるので、黙っておいた。杏里いわく、数学好きは言葉の曖昧さにかなり厳しいらしいが、蘭子ももちろんその例に漏れない。
ちなみに素数とは、1と自分自身でしか割り切れない自然数のことで、2、3、5、7、11……などがある。
「あらゆる自然数は、有限個の素数の積で表せるが、ある方法によって、無限個ある素数全てを使った積で表すことができる」
「ある方法、ですか」
「茉莉も知っていると思うが、0を除くどんな数でも、0乗すれば1になる。1をいくらかけても数は変わらないから、“素数の0乗”はいくらでもかける事ができるわけだ」
なぜ0乗すると何でも1になるのか、なぜ0だけ例外なのか、その話はまた別の機会に。
「たとえば45は、素因数分解するとこうなる」
蘭子はホワイトボードに式を書く。
45 = 3^2 × 5
「しかし、0乗も認めれば、こんな書き方もできる」
45 = 2^0 × 3^2 × 5^1 × 7^0 × 11^0 × 13^0 ×…
「ふうん……見た目は複雑ですけど、0乗されている素数は計算しなくていいんですよね」
「そう。この場合、3と5にかかる指数はそれぞれ2と1、他の素数にかかる指数はすべて0、となる。同じような書き方を、他の自然数の素因数分解でやれば、すべての自然数はこのように分解される」
2^a1 × 3^a2 × 5^a3 × 7^a4 × 11^a5 × 13^a6 ×…
ここで、ai≧0
「なるほど……」
「さて茉莉、ここにある指数がすべて0だったら、この式はどんな自然数になる?」
「えっと……全部0乗だから、1だけかけ合わせていて、つまり1ですね?」
「正解。では、0はこの形に分解すると、どうなると思う?」
0の素因数分解……考えたことなかったけど、そもそも分解なんてできるのだろうか。
……あ、そうか。
「0は素因数分解できません。かけ算の中に0がないと答えは0にならないけど、この式は、指数をどんなに小さくしても、1より小さくできませんから」
「そういうこと。つまり0を自然数に含めてしまうと、自然数がすべてこの式の形に分解できる、とは言えなくなってしまう。でも、例外は0だけだから、0を自然数から外せば式は成り立つ。だから、特に数論の世界では、自然数に0を入れないことが多いのよ」
なるほど、確かにこれは面倒な問題だ。集合の世界では0を自然数に含めた方がよくて、数論の世界では含めない方がいい……同じ数学でも、分野によってこんなに大きな違いがあるなんて。
最初に杏里が言っていたことの意味が、ようやく分かった。そしてわたし自身、ここまでの話を聞いて、自分なりの結論を出せた気がする。
「数学の基礎をなす集合論に則って、自然数の始まりを0とするか、はたまた数学の女王と称される整数論に則って、1とするか……果たして、どちらをとるべきなのか。茉莉、君はどう思う?」
いちいち芝居がかった口調で言わないと気が済まないのか、この数学先輩は。
整数論が数学の女王と称されるなんて初耳だけど、まあそれは置いといて。蘭子に訊かれたので、自分なりに出した結論を答えることにした。
「蘭子先輩……先ほど、“適当”という言葉は、数学の世界だと“適切”という意味にとられる、と言っていましたよね」
「……うん?」
「わたし、このマス部に入部してから、日常会話と数学の世界とで、言葉の意味のギャップを何度も目の当たりにしました。そう、言葉の意味や使い方は、使う世界によって変わることがしばしばあります」
「あの、茉莉さん……?」
「素人のわたしが言えることじゃないかもしれませんが、集合論も整数論も、きっとどちらも重要で大事な分野で、片方を優先するわけにはいきません。ならば、答えは1つです」
そしてわたしは、用意していた答えを言い放つ。
「時と場合によるから、どっちでもいい」
「おおおおおおおいっ!!!」
わたしが出した唯一にして無欠の解答に、蘭子はショックを受けたように叫んだ。
そんな中、杏里はにこにこ笑って、「だよねー」と呟いている。奇しくも彼女と同じ結論に達したわけだ。まあ、奇しくもというか、これ以外の結論なんてぶっちゃけないと思うけど。
「今まで苦労して話した時間は何だったんだ!」
「でも蘭子ちゃん、茉莉ちゃんの言うとおり、言葉の意味が使う世界によって違うことは、蘭子ちゃんが実例を見せたはずだよ」
「くっそぉ! 己の言葉に首を絞められるとは!」
「こらこら、女の子がくそとか言わない」
「あの……もう帰っていいですか」
いつの間にかとっぷりと日が暮れて、烏の鳴き声も聞こえてきた。くだらない数学の雑談で時間を浪費したわたし達を嘲るように、アホーアホー、と。
数学研究クラブ、通称『マス部』は、今日も平和です。
※0や自然数の解釈については、作者の個人的な見解です。
書いていて思ったけど、やっぱり絵がないと数学の描写はきついです。あくまで会話劇中心だから、今はそれほど困っていませんが……指数も本来の表記ができないし、たぶん今後、特殊記号を使うことになれば、みてみんのお世話になるかもしれません。
まあそんな先の話はともかく、次回以降もこんな感じで、数学トーク中心でコメディ多めの作風になると思います。コメディはやっぱり書いていて楽しい。幸い、使えそうな数学のネタはたっぷりあるので、ゆったりペースで書き続けるつもりです。
ところで、登場人物の名前は例によって、有名な数学者の名前をもじっています。あえて誰なのかは言いません。どんな数学者をもじったか、わかるかな?