Side: B
俺はある中小企業で働いている。幸い会社の業績は伸びる一方で、今のところリストラには遭わずに済みそうだ。給料は一流企業ほどではないが、社内の空気が良いので仕事がしやすい。
「ゴルフクラブセットを買い替えたんだ」
仕事終わり、俺はそんな話を後輩にした。
「ええ、ほんとッスか⁉」
「やりますね」
「まあなー」
二人は俺を慕っている。たったこれだけのことで盛り上がってくれるんだ。
「接待も増えてきたからな。もう少し良いものを揃えてもいいかと思って」
全く、勘弁してほしいもんだ。休日返上になるんだから。
ゴルフ以外にも、取引先に女性の役員がいようものなら必ず俺が駆り出される。要は、顔接待だ。顔で接待させるなんて、女子社員に同じことをやらせれば、セクハラで訴えられそうなものだけどな。
そんな俺の苦悩を、今、目の前ではしゃぐ後輩たちは知らない。
「じゃ、今日はどっか寄っていくか?」
俺の提案に、後輩たちの顔が輝いた。
「いいんスか?」
「だから誘ってんだよ」
顔はもう行く気満々じゃないか。
「ごちそうさまでーす!」
「はは、調子がいいな」
そうは零すが、気分がいい。後輩に気前よく奢る。これも大事なコミュニケーションの一つだからな。
そうだ、あいつも――。
顔が曇る。
あいつ今日も残業か。なら誘えないな。
「じゃ、お疲れ」
俺は一言、『あいつ』こと同期に声をかけた。
「お疲れ」
彼はパソコンのモニターを睨んだまま、声だけを俺に返した。
彼は最近、疲れた顔をしている。噂では数ヶ月前、二人目が生まれたって聞いたけど、やっぱり子供の世話とかで疲れているのかな。なのに、ここんとこ残業ばっかやってどうしたんだ。ちょっと要領の悪い奴だなとは思っていたけど、他人の仕事まで引き受けて残業するなんて。
何でそんなに自分を追い込んでいるんだろう。何がそんなに彼を追い込ませるのだろう。子供が可愛い盛りだろうに。早く帰って遊んであげればいいのに。
ただ、子供のいない俺には子供のいる彼の苦労を完全には理解できない。彼には彼なりの苦労や苦悩があるんだろう。
「どこ行きます?」
「そうだなぁ」
「あ、最近、駅前のビルに新しい店ができたんスよ。そこどうですか?」
「あそこ高そうだぞ」
一人がもう一人を制するが、俺はそれを止める。
「気にするな。行ってみよう」
「さすが先輩」
俺は後輩たちを連れ、堂々とした足取りで駅前のビルへと向かった。
俺は基本、定時で帰る。残業はできるだけしない。後々詰まってくるからだ。
今日は帰宅途中、高級スーパーに寄った。そこで一番高いワインを一本購入する。それを持って帰りの電車に乗り込んだ。
自宅の最寄り駅で下車し、途中にあるスーパーに寄った。そこで今晩の夕食の材料を揃える。
献立は決めてある。けど、それが必ずしも叶うとは限らない。う、今日はブロッコリーが高いな。なら、チンゲン菜にしようか。
今日はニンジンが安い。オレンジも安いな。明日の朝はスムージーでも作ってみるか。
そうして俺は右手にワインとビジネスバッグ、左手にスーパーの袋を下げ、家路に就いた。
玄関のドアノブに手をかけると、真っ暗闇が口を開ける。すぐに脇のスイッチに手を伸ばし、電気を点けた。
毎度のこと、妻はまだ帰っていない。俺はリビングのテーブルにワインを置くと、早速夕飯の支度に取りかかった。
妻の帰宅は大体、午後九時ごろになる。最近太ってきたと体型を気にしているので、今日は最近覚えたローカロリーのメニューに挑戦してみよう。栄養もきちんと考えたうえでの料理だ。俺は手際よく料理を作り上げ、ダイニングテーブルに置いた。
妻が帰ってくるまで、もう少し時間がある。俺はその間に、風呂掃除とアイロンがけをすることにした。
あ、洗剤の残りが少ないな。それにボディソープも。特に妻が使っているボディソープは、デパートかネットでしか買えない。余裕を持って買っておかないと。
妻が帰ってきた。
「ただいまぁ」
気怠げな挨拶。今日も一日お疲れさま。
「ご飯できてるよ。それとも先、風呂入る?」
「お風呂が先かなぁ」
「沸いてるよ」
「ありがとう」
妻は着ていたスーツのジャケットとスラックスをソファに脱ぎ捨て、風呂場に向かった。俺はそれをハンガーにかける。これはもうそろそろクリーニングに出すかな。でもやっぱり雑には放っておけない。俺にはちょっと手が出ないくらいの、高級スーツだから。それから妻の下着と部屋着を洗面所に用意し、リビングに戻った。
風呂上がりの妻にワインを買っておいたことを告げると、妻はワインを手に取り喜んだ。
「ごめんね、お使い頼んで」
「全然」
「これで取引先へのいい土産ができたわ」
これぐらいで喜んでもらえるんだから、お安い御用だよ。俺は食事にしようと妻を席に着かせた。
「お疲れ」
ビールを飲もうと誘ってみたけど、断られてしまった。
「それは大変だったね」
「そうなのよ。土壇場になってクライアントがゴネてさぁ」
妻の愚痴を聞きながら、食事をする。俺はただ、彼女の話に頷くだけだ。
「ごちそうさま」
食事が終わるや否や、妻はすぐにリビングでノートパソコンを開いた。それを見届け、俺は洗い物を始めた。
風呂から上がると、妻の怒号が飛んだ。
「ちょっと! このスーツ、クリーニングに出しておいてって言ったじゃない!」
今、妻が手に持つスーツは今日着ていたものとは別のものだ。しまった、忘れてた。
「ごめん、明日必ず出すから」
「頼んだわよ。明日出しておかないと間に合わないんだから。絶対忘れないでね」
何でも、次のコンペだかレセプションだかで着るらしい。
「うん、ごめん」
俺は平謝りだ。そうすると、妻は時間が勿体ないと言わんばかりに、またノートパソコンの前に座った。
「この仕事を今日中に終わらせておきたいから、先休んでね」
「うん。……」
今日は、テレビを観られそうにないな。仕事をしている人がいるリビングで、テレビなんて観られないからさ。
おやすみなさい。そう呟き、俺は寝室に向かった。
寝つくまでの間、俺はスマホを眺めた。特に見たいものはない。ただ、SNSを放浪していた。
プロポーズした時、彼女はこう告げた。
『私、奥さんになんてなれないわよ』
仕事が一番、家庭になんて入れないと言ったのだ。
俺はそれを承諾した。なぜって、働く彼女が好きだったから。仕事に打ち込む彼女は輝いていて、俺に心地のいい刺激を与えてくれたから。
『それでいい』
俺はそう答えた。それは、俺が家事の一切を担うことを覚悟しての返事だった。その覚悟を伝えることで、彼女は俺との結婚を承諾してくれた。
そうして結婚生活が始まったわけだが、俺は生活費の一切を出していない。『あなたは家でも働いているんだから』と、妻は俺に生活費を求めなかった。つまり、俺が稼いだ金は全て俺の都合で使えるということだ。同僚より少し高価なスーツを着たり、新しいゴルフクラブセットを余裕ぶって買ったり、高い店で後輩に気前よく奢ったり。あんなカッコつけができるのは、生活費が一切かからない俺だからこそできる振舞いだ。
妻は、俺の金の使い方に一言も口出しをしない。『あなた(俺)の稼ぐ範囲で』ということを条件に、何も言わないのだ。
同じく、休日の過ごし方にも、口を出さない。俺が接待ゴルフに明け暮れていても、不満を零さない。多分、浮気でもしない限り、出さないだろう。家のことが疎かにならなければ、俺がどう過ごそうが構わないのだ。
彼女は稼ぐ夫など求めていない。家に帰れば魔法のように全てが揃っている空間を作り上げてくれる人間こそが、彼女の理想とするパートナーなのだ。
彼女は次から次へと仕事をこなす。大きな企画が終われば、また新たな企画に尽力する。仕事が終わることなどない。
高校時代の友人のアカウントが目に留まる。また子供が生まれたのか。高校時代は奥手で全然冴えた感じの奴じゃなかったのに、今は三人の子供に囲まれて幸せそうだな。それに比べて俺のところは――。
子供のことは考えていると言われたが、本当だろうか。そう言われて、もう四年が経ってしまった。俺はできたら、すぐにでも欲しいんだけどな。一人横たわるダブルベッドで、少し体を捩った。
でも、そんなことを言い出したら、怒られそうだ。『人のキャリアを潰す気か』って、責められそうだ。下手な時に休むとなれば、彼女のキャリアに傷がついてしまう。
……でも、『上手い時』なんて来るんだろうか。出産が女性にしかできないことでなければ、こんな悩みもなかっただろうに。
彼女は一人で生きていける。俺なんかいなくても、ハウスキーパーを雇えば済む話だ。なのに俺は今日、スーツをクリーニングに出すのを忘れてしまった。いつか妻が俺を、『貧乏くじだった』なんて思う日が来てしまわないか心配だ。
少しだけ、羨ましくなる。家に帰ると、妻が夕飯を用意しながら『おかえりなさい』って微笑んでくれる。子供が満面の笑みで、『ぱぱ』って駆け寄ってくれる。そんな家庭が。
そんな家庭を手に入れてしまえば、今の様な生活が送れなくなることくらい分かっている。今の生活を犠牲にしたいとは思わない。子供は欲しいけど、今の生活に何の魅力も感じられないわけじゃない。
俺たち夫婦は今、己の都合だけで繋がっている。似た者同士の夫婦だ。だからこそ上手くいっているとも考えられるし、愛情がないわけじゃない。それでもこんな日は、そんな家族の待つ家に帰る男たちが少しだけ羨ましくなる。