ミチカ・ボーレット
薄暗く、またそこかしこに飛散し乾いた血液で、黒々とした部屋だった。部屋はいくつもの音で満たされている。肉と肉をぶつけ合う音。部屋の中央に据え置かれたキングサイズをさらに大きくしたようなベッドの、太いスプリングが軋む音。
声もする。口やかましい女の狂乱。青年の、痛苦の悲鳴と悦楽の喘ぎ。そして中世の騎士が被っていそうな嘴のついたアーメットヘルムの奥から聞こえる、ディーロウの憎しみ籠もる唸り声。
「ディーロウ! 見てるかい!? 私たちのことを! ちゃんと見てるかい!?」
引き受けたばかりの青年の白肌に絡みつくマダム・バートリの、熱狂的な問に、ディーロウが低く唸った。嫉妬と、怒りと、憎しみに、興奮しきっていた。
左右非対称の化粧を施した汗だくの顔をこちらに向け、マダム・バートリが叫んだ。
「ボーレット! ボーレットは!? ちゃんと見てるかい!?」
「……ああ。『見させられてるよ』」
部屋の片隅で、両手を後ろに跪くミチカが、酷く疲れた顔で言った。手足の傷こそフロキの異能で癒やされていたが、〈おしゃぶり〉を与えられなかったがために苦痛が残っていた。朦朧とした意識が鮮明さを取り戻したときには、すでに両手足を含めた全身を亀の甲羅に似せた縛り方で拘束され、マダム・バートリの悍ましい雄遊びにつきあわされていた。
かれこれ、どれほどの時間が経ったのだろうか。
「ああ、あ、ああああ……」
青年が躰を震わせ、肩口から鮮血を飛沫かせた。マダム・バートリが歯を突き立てて肉を食いとったのだ。咀嚼し、音を立てて液を吸い、残った肉塊を吐き捨てた。銃剣を抜き、歯型に開いた肩の、肉と皮の隙間に押し込んでいく。青年は痛みと、死の恐怖と、薬がもたらす未知の快楽に身を震わせていた。すでに流れた血は救いようがない。マダムの裸体は真っ赤に濡れて、青年の肌色は土に近づく。よく体力がつづくものだ。見させられている方は、たまったものではない。
「……さっさと終われよ」
誰に言うでもなく、ミチカは囁く。ヘイズルの安否が気がかりだった。臆病なフロキには殺せやしないだろうが、玩具にしようとはするだろう。おそらく、彼は靡かないが、靡くどころか徹底的に反抗するだろうから、命やら貞操やらが危ない。
貞操といえば、とミチカは思う。
フロキ・キャッスルで思わずナールの話をしてしまったが、失敗だっただろうか。もう少しで肩に触れそうだった手が、遠慮がちに引き戻されたのを思い出す。
「……ちょっと攻めすぎたかな?」
ミチカは首を傾げた。意外と――いや、意外でも何でもなく、恋愛ごとにはシャイなのかもしれない。もしくは上官と部下という関係を優先したのか。どちらにしても迷ったのは事実であり、どちらにしても好ましい。年相応というか、可愛いとすら思う。
つい、顔が綻んだ。瞬間。
「ボーレット! どこを見てるのさ! こっちだよ! こっちを見な!」
興奮で発音すら崩れたマダムの声に、ミチカは「はいはい」と顔をあげた。次は青年の胸に刃を滑らせ、かぶりつき、びりびりと嫌な音を立てて皮を剥ぎだした。絶叫。青年はもう、助からない。いやむしろ、早く死なせてやってくれと思う。
ほぅと熱っぽい息を吐き、マダムは引き締まった腕を青年に絡めた。
「さあ、そろそろだ! ディーロウ! ボーレット! ちゃんと! 見てるんだよ!!」
低い唸り。青年の口に、新たに三錠ものフィアーキラーが押し込まれた。
大きく開く、マダムの、怪物の顎。
「ボーレット! 見な!!」
辟易としつつ、首肯する。無事が確認できたら、すぐ動こう。そう決意するミチカの紫の瞳は、浅ましく悍ましく冒涜的な媾合を捉えていたが、まったく異なる光景を映していた。
それは万雷の拍手でもって迎え入れられる、オーケストラの舞台。集まった観客は舞台に上がる演奏者の家族友人が大半を占める。目を凝らせば、中央すこし左の、ミチカの正面に位置する席に、両親と、兄と、兄の婚約者が並び、にこやかに手を振るのが見える。
ミチカの席のすぐ後ろには管楽器が控え、右手側では第二バイオリンが澄まし顔でいて、左手側にチェロやコントラバスが神妙な面持ちでいる。手にはバイオリンより大きく、チェロと言うにはあまりに小さい弦楽器。
ミチカはヴィオラ弾きだった。
バイオリニストになるには技術が足りず、チェリストになるには落ち着きが足りない。ガタイもデカい。気づけばヴィオラを握らされていたし、両親も兄も微苦笑で褒めてくれていた。
何者にもなれない自分。何をやるにしても中途半端だった。女にしては大きすぎるが、男と評されはしない。どんなことでもこなせるけれど、どれも極めるには至らない。
兄は殆ど完璧だった。婚約者も美人で優しく、家柄も悪くない。両親もそう。娘に気軽に楽器を買い与えられ、蝶よ花よと育てつつ、暴れてみても元気でいいと笑った。
私だけが、少し違った。
ヴィオラを肩に乗せ、顎で挟む。
さっさと結婚するという道もあった。望めば誰かが相手を連れてきただろう。
戦争が始まった。他の女と同じように、工場で働いてみるという手もあっただろう。
弦を押さえ、弓を当て、他の楽器に混じればいい。それが向いてる。
銃を手にすれば変われるかもしれないと思った。中途半端じゃない人たちのために、中途半端な私が戦うべきだと信じた。だから、銃を手にした。待っていたのは絶望だった。兵士である前に女とされ、女である前に兵士とされた。また中途半端だった。嫌気が差して死にたくなった。
轟、と舞台が燃え上がる。
その日、隊はミチカを残して全滅した。まったくの予想外。戦況がイェールに傾きつつあったがために、敵はこちらの手法を真似て補給部隊を急襲したのだ。
野戦病院で目覚めたとき、ミチカは特別な人間になっていた。誰しもに距離を置かれた。死神だとか、裏切り者だとか、そう思われているのだろうと、夜も眠れなかった。
だが、あるとき、中佐を名乗る女が現れ、こう言った。
『ミチカ・ボーレットくん。覚えていないのかね? 君が敵を全滅させたんだよ。――味方の命を引き換えにしてね』
素晴らしい働きだったと言った。戦力差を考慮すれば無為の全滅が約束されていたと。けれど、ミチカは残った味方を囮に補給物資の弾薬を吹き飛ばし、味方もろとも敵を壊滅した。記憶にはない。手にしていた銃と、倒れていた場所からみて、間違いないのだという。
ようやく特別な人間になれたのだ。
――自らが望んだように。
獣のような果てる声が、ミチカの瞳に現実を映させた。赤。吸血姫マダム・バートリの裸体が鮮血に濡れていた。青年を見る。そっくり返った首が皮一枚でぶら下がっていた。ぴゅーぴゅーと噴水のように吹き出す血。勢いが奇妙にリズミカルで、かつ弱々しい。マダムが若い背中に腕を回し、抱きしめるようにして、すでに止まっている心臓を圧迫して遊んでいるのだ。
特別な人間になってみると、普通になりたくなる。
こんな光景は、もう二度と見たくないと、心の底から思う。
マダム・バートリが青年の死体を押しのけ、桃色に光る血液を顔に塗ったくった。
「ボーレット、見ててくれたかい?」
もう見たかないよと慚愧の笑みを浮かべたとき、
銃声が聞こえた。
瞬時にミチカは集中する。やや遅れてマダム・バートリが躰を起こす。耳の壊れたディーロウは何が起きているのかわからない。
また鳴った。遠い――いや、深い。地下だ。もう一発、鳴った。
耳馴染みのあるリボルバーの音じゃない。あの奇妙な形の新式銃だ。
――ヘイズル!
心中で名を叫び、鋭さを増した紫の瞳がマダム・バートリを捕捉する。
「なんだってんだい?」
眉根を歪め、マダムが鮮血に塗れた足をベッドサイドに下ろしたとき、新たな銃声が聞こえた。今度はフロキのソウドオフ。
「おい」
ミチカが呼び止めた。ふい、とマダムの片側を丸刈りにした頭がこちらに向いた瞬間、
「くたばれ、獣」
言って、手の内に火球を生み出し、床を蹴った。汚れた野戦服の上から縄が肌に噛み込んできた。構わず身を投げ出して前転、お願いだからベッドに届いてと火球を投げた――。