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だって彼が望むから

作者: 上田 成

 フローラ・ウォッカ侯爵令嬢は王太子であるシリウス・ジンの婚約者である。

 月の光のような煌めく銀色の長い髪と、透き通る清水のようなアクアマリンの瞳を持つフローラは、清廉な容姿そのままのように潔癖な淑女の鑑として有名であった。

 対して婚約者であるシリウスは、燃えるような赤い髪と意志の強そうな真紅の瞳を持ちながらも、端正な顔にいつも朗らかな微笑を浮かべている物腰柔らかな王太子だった。


 二人が婚約したのは明らかに政略的なものである。

 相反するような容姿や振舞いから当初は婚約を危惧する声も聞かれたが、同じ年齢の二人の仲は決して悪くはなかった。


 そんな二人に暗雲が立ち込めてきたのは半年前だった。


 共に貴族学園に通う二人がもうすぐ卒業という年に編入してきたソーニャ・カミュ男爵令嬢が、何かとシリウスに絡んでくるようになったのである。

 カミュ男爵の庶子だったソーニャは、稀少な光属性持ちであることが判明して急遽学園への編入が為された令嬢だ。


 貴族学園は学費が高いため、下位貴族の子弟は嫡子以外基本的に通わせることはしない。但し光属性の令嬢(何故か光属性は女性だけしか発現しない)の場合は学費が免除された。

 そのため途中編入することが出来たソーニャだったが、それまで男爵家の庶子としてあまり貴族らしい生活をさせてもらえなかったこともあり、かなり周囲から浮いてしまっていた。

 そこで生徒会長であるシリウスが卒業まで面倒を見ることになったのである。


 面倒を見るとは言っても、シリウスとしてはソーニャが浮いた言動をしそうになったら、さりげなく自重させるといった程度のことだったが、頻繁に話しかけてくれるようになった王太子に彼女は舞い上がった。

 シリウスがソーニャに話しかけるのは彼女の失言が多いせいなのだが、憧れ美形の王太子が庶子の自分に話しかけてくれることに喜びを覚え、いつしかソーニャはシリウスといつでも行動を共にするのが当たり前というような態度になっていた。


 一方で温和なシリウスもソーニャを邪険に扱うような真似をしなかったため、学園内では二人が連れ立って歩く姿が散見されるようになり、フローラとの関係を訝しむ声が出始めたのである。


「はあ……」


 思わず出てしまった小さな溜息にフローラは慌てて周囲を確認した。

 幸い近くの席で仕事をしていた生徒会の役員は、隣の席の役員と話をしていた最中だったようで、フローラの溜息には気が付かなかったことに胸を撫でおろす。

 淑女の鑑として生徒や他の貴族の模範となるべく教育されたフローラは、その厳しい王太子妃教育の賜物として何時いかなる時でも感情を表に出さないようにしていた。

 そのため氷のようだと揶揄されることも少なくないが、フローラだって血の通った人間で、嫌なことがあれば溜息の一つも吐きたくなる。


 フローラは憂いの原因が立ち去っていった扉に視線を向けた。

 今日もまた、放課後生徒会室へ突撃してきたソーニャにシリウスはどこかへ連れていかれてしまったのだ。

 シリウスの婚約者であるフローラは、甘えた声で彼を連れ出すソーニャを、淑女として微笑を浮かべたまま黙って見送ることしか出来なかった。


 政略婚約ではあるが、フローラはシリウスのことが大好きである。

 厳しいことで有名な教師陣が揃う辛い王太子妃教育も、茶会と銘打った茶葉の産地や毒を見分ける王妃のお茶会も、淑女訓練と称した感情を出さないようにする嫌がらせのような特訓も、全てシリウスが好きだから耐えてきた。

 それが、もうすぐ卒業してあと少しで結婚できるというこの時に、突然現れたソーニャの存在にフローラの心が乱される。


(私だって本当は殿下に甘えたいのに……)


 ソーニャの甘い声に微笑で返したシリウスの顔が浮かんで、内心にモヤモヤと沸き立った黒い影を必死で掻き消しながら、溜息を飲み込んでフローラは目の前の書類を片付けていった。


 ◇◇◇


 シリウスが優秀だったため、あらかた彼の作業が終わっていたことと、他の役員の協力もあり早めに生徒会の仕事が片付いたフローラは図書室へ向かっていた。

 ウォッカ侯爵家にも私設図書室はあったが、学園の方が多種多様な本が多い。

 本が好きなフローラは少しでも空いた時間ができると、図書室へ行くことを楽しみにしていた。

 それに読書に耽っている間はシリウスとソーニャのことを考えずに済む。

 下校の時刻まで何の本を読もうかと書棚を眺めながら歩いていたフローラだったが、視界の端に入った赤い髪色の人物に歩みを止めた。


(どうしてこんな所に? ソーニャ様は?)


 恋敵と一緒にいる姿なんて見たくないとは思いつつも書棚の影からそっと顔を出せば、そこにはシリウスが一人で一冊の本を立ち読みしている。

 辺りを見回してもソーニャはいないようで、フローラはホッと安堵の溜息を吐いた。

 そうして改めて周囲を見渡して首を傾げる。

 シリウスが立っているのが大衆文学の棚の前だったからだ。


 いつもは経済や地理といった本を読むシリウスが、大衆文学を読むのは珍しい。

 それに立ったまま読むなど無作法をするのを見るのも初めてなので、フローラは目を丸くする。そうしている間にもシリウスが読んでいる本が気になってしまい、声を掛けようとしたところで、彼がふと口を開いた。


「フローラもこんな風になってくれたらいいのにな」


 手にした本を半ば位まで読み終えた辺りで顔を上げたシリウスは、夢見るように微笑んでおり、その顔にフローラの心臓が跳ねる。

 婚約者の蕩けるような笑顔に頬に熱が集まるのを感じて、フローラが書棚の影で立ち尽くしている間に、シリウスは辺りをさっと警戒するように見回すと、半ばまで読んだ本を棚に戻し足早に立ち去って行ってしまった。


 その背を呆然と見送ったフローラは、頬の熱がまだ冷めやらぬまま彼がいた書棚の前へ徐に歩を進める。

 ドキドキする心臓に呼応するように震える手を伸ばし、彼が読んでいた本を開いてみた。


 本の内容は王子と婚約した令嬢が主人公の恋愛小説だった。

 内容は婚約者の令嬢視点で書かれており、王子に言い寄る男爵令嬢にキレた婚約者が嫉妬を隠しもしないで嫌がらせや暴言を吐き、その一方で王子にはしつこい程の愛を囁くといった内容だ。高位貴族であるのに淑女としての仮面を脱ぎ棄て、恋しい王子に愛を伝える婚約者の姿はいっそ清々しいまでに豪胆で、婚約者がどれだけ王子を好きで狂おしい程の恋情を持っているのかが赤裸々に綴られていることにフローラは衝撃を受けた。


 感情のままに行動するなど淑女としては失格である。

 嫌がらせや暴言も行き過ぎだと思う。

 けれど、そうせざるを得ないほど王子を想う婚約者の気持ちを読んでいると、多少の嫉妬や好意を伝えることは必要なのではないかと思えてくる。

 何より、この本を読んでシリウスが微笑んでいたのだ。

 温厚な王太子と言われるシリウスはいつも微笑を浮かべてはいるが、あんなに蕩け切った微笑を今までフローラは見たことがなかった。


「もしかして殿下は、私にこんな風になってくれたらって思っていたの?」


 信じられないとばかりに口を吐いて出た言葉に、フローラの頬に益々熱が籠る。


 もう少し素直になってもいいのだろうか?

 好きという感情をぶつけてもいいのだろうか?

 ソーニャ様と一緒にいないでと嫉妬の気持ちを顕わにしてもいいのだろうか?

 それはつまり……シリウスも自分のことを好いてくれているということだろうか?


 じわじわと高まる期待が競り上がってきて、フローラの胸の鼓動が激しくなる。

 嬉しさと、もしかしたらという願望とでドキドキメーターが振り切れる寸前、フローラの淑女としての性能の高さが、入口の方から聞こえてきた物音を聞きつけた。

 ハッと我に返ったフローラは本を閉じると足早にその場を離れる。

 高位貴族の令嬢はあまり大衆小説を読むことを良しとされていないため、変な噂が立つことを怖れたのである。


 結果として本を最後まで読むことは出来なかったが、シリウスが自分に好意を持ってくれているかもしれないということが解ったフローラの足取りは軽かった。しかし図書室の入口まで歩を進めると、聞こえてきた声に眉を顰めた。


「シリウス様~、どこですかぁ~?」


 パタパタと足音を立てながら辺りをキョロキョロと見回し、王太子の名前を呼ぶソーニャは、周囲の迷惑など一切考えてはいないのだろう。

 カウンターに座った司書が迷惑そうな表情になっていることにも気が付かず、シリウスの名前を連呼するソーニャに、フローラの心が黒く染まっていく。

 シリウスと彼女が呼ぶだけで自分の好きな人が汚されていくような感覚に襲われ、ソーニャの顔が嘲笑を浮かべた時のように歪んで見える。

 現に困ったように眉尻を下げながらもソーニャはどこか勝ち誇った表情で、シリウスの名前を呼び続けていた。それはまるで自分だけが王太子の特別だと暗に示すように。

 その表情にフローラは見覚えがあった。


 それはシリウスへ贈った刺繍入りのハンカチを見られた時や、手作りの菓子を作ったことがないと知った時のことである。

 確かにフローラは見た目に反して刺繍だけは壊滅的に下手くそであるし、高位貴族の令嬢は菓子作りどころか厨房にさえ入ったことがないので、手作りなどしたことがない。生徒会に乱入し強引に世間話をし出したソーニャに、仕事の合間で適当に話を合わせるうちにそういう話になってしまったのは、フローラにとって屈辱的な出来事だった。


「え? 何コレ、綺麗な雑巾かと思った! フローラ様って意外に不器用なんですね」

「ええ~、お菓子作ったことないんですかぁ? 婚約者なのに信じられない! やっぱり政略だと愛がないんですね」


 大仰に驚きつつもバカにしたように鼻で笑ったソーニャの顔を、フローラは確かに見た。

 だがシリウスには巧妙に隠しており、困ったように微笑みを深める彼を横目で見つつ、フローラも黙っていることしか出来なかった。

 しかもその後、これ見よがしに凝った刺繍がデザインされたハンカチや、手作りお菓子を持参してきたソーニャが嘲笑うように自分を見てきたことに、腸が煮えくり返るかと思ったものだ。


 それでも今までは我慢してきた。シリウスの隣に立つ淑女として完璧でいたかったから。

 今だって図書室にいる他の生徒に腹の内を悟られないように笑みを浮かべている。けれどシリウスが望んでいるのなら、少しくらい反撃してもいいのではと考え始めた。

 それに婚約者である自分だってシリウスのことを敬称で呼んでいるのに、出会って一年にも満たないソーニャが名前呼びをすることに、本当はずっと嫉妬していたのだ。


「王太子殿下はここにはおりません。他の方の迷惑になりますから図書室では静かになさってください。それと殿下を名前で呼ぶのは不敬です」


 颯爽と現れ冷たく言い放ったフローラに、周囲の生徒や司書が息を飲む。

 一方、背後から注意をされたソーニャは不機嫌も顕に振り返ったが、注意をしてきたのがフローラだと知ると、またも嘲るような笑顔を見せた。


「なあんだ、フローラ様でしたか。先生かと思ってびびって損しました。それより、ちゃんとまともに話せるんですね。普段何も言ってこないから人間ではなくお人形なのかと思ってましたよ。……これなら上手くいきそう」


 一人ごちるように囁かれた最後の言葉が聞き取れず首を傾げたフローラに、ソーニャは突然怯えたように両手で顔を覆うと喚きだす。


「ひ、酷いです! 学園の生徒は皆平等だってシリウス様は言ってくれたのに!」


 いきなり喚きだしたソーニャに、フローラは面食らうも毅然とした態度は崩さなかった。


「学園は平等ですけれど、身分は尊重しなければなりませんわ」

「酷い! フローラ様は酷いです! こんな酷い方見たことがないわ!」


 そう言うなり泣きながら図書室を立ち去ってゆくソーニャに、フローラは開いた口が塞がらない。

 初めてまともに会話をしたが、まさかこうも話が通じないとは思ってもみなかったのだ。


(嫉妬もあるけど、当たり前のことを注意しただけなのに、私、酷いの?)


 思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んで、周囲に向かって頭を下げる。


「余計に煩くしてしまったようで申し訳ありません。私も退出いたしますので、皆様はどうか読書をお続けくだ……」

『キーンコーンカーンコーン』


 フローラがそこまで口にした所で、下校を告げる鐘が鳴り響く。

 何とも締まらない恰好となってしまったフローラは困ったように眉尻を下げると、照れ笑いのような、いつもとは違う可愛らしい笑顔を浮かべながらも完璧なカーテシーを決めると足早に図書室を後にする。


(やってしまった……。カーテシーは何とかできたけど、動揺して表情が作れなかった……!)


 フローラが退出する際に、図書室にいた生徒と司書があんぐりと口を開いていたことに頭を抱えたくなったフローラだったが、先程ソーニャにも嫉妬をぶつけてしまったことだし、これから少しずつ感情を出していこうと考え直す。

 あの本の婚約者のようにとまではいかないまでも、シリウスが望んでくれるのならば、フローラにとってはそれが全てであった。


 翌日からフローラは、王太子妃教育の教師陣が知ったら卒倒するか激高するかのような言動をし始める。

 初めはおっかなびっくりであったが、相変わらずシリウスへ突撃してきたソーニャへピシリと言い放った。


「殿下はお忙しいのです。私の、た、大切な婚約者を無理に連れて行かないでください」

「酷い! 私が下位貴族だからってバカにしてるんですね! なんて酷い方なの!」


 言い慣れないのと羞恥で多少吃ってしまったが、フローラの言葉にソーニャは相変わらず酷いを連発して大袈裟に泣き喚くと、図書室同様すぐに走り去ってしまう。

 去り際にチラリとシリウスを見たソーニャにフローラの嫉妬が燃え上がるが、当のシリウスは「行っちゃったね」と上機嫌で、彼女の後を追うこともしなかったので、少しだけ自信が得られた。


(やっぱり殿下は、あの本の婚約者のように私に振舞ってほしいのだわ)


 そう確信めいたものを感じたフローラは、更に翌日、生徒会の仕事が一段落するとシリウスの元へ行っておずおずと口を開く。


「殿下の好きな紅茶をお持ちしました。どうしても一緒に飲みたくて……」


 まだまだあの本の婚約者のように直接的な言葉は言えそうにないが、恥じらいながらも精一杯の好意を見せれば、シリウスは目に見えて喜んでくれた。

 そのことがフローラの自信に繋がってゆく。


 ソーニャには嫉妬をシリウスには愛を告げるため、フローラは頑張った。

 王太子妃教育の教師陣に隠し通すため、感情を顕にするのは学園にいる間だけ、それもシリウスの前でだけだったが、フローラが変わったという噂で学園内が持ち切りになったある日のこと、昼食の後シリウスと中庭で読書をしていたフローラの元へソーニャが泣きはらした顔で現れたのだった。


「フローラ様、いくら私がシリウス様と親しくしているからってこれは酷いです!」


 そう言ってソーニャが差し出したのは破れた教科書の残骸だった。

 だが身に覚えのないフローラは瞳を瞬かせる。

 そんなフローラの隣にいたシリウスは、気遣わしげに教科書の残骸に手をやった。


「確かに、これは酷いね」


 シリウスの言葉にソーニャがフローラへ向かって敵意の眼差しを向けた。


「フローラ様がやったんです! 私が気に入らないからって!」

「私、そんなことしていませんわ」


 毅然と言い返すも、ソーニャは泣いて喚いて聞く耳を持たない。


「フローラ様、酷い! いつもそうやって私を虐めるんですね! 酷い! 酷い!」

「ですから私は身に覚えがありません」

「嘘つき! こんな酷いことするのはフローラ様以外いません! 私に嫉妬してるから、いつも酷いことを言ってシリウス様から遠ざけようとしていましたよね!」

「そこまで仰るのでしたら、証拠か証人を提示してください」

「証拠や証人なんてすぐに隠蔽してしまうくせに! 私が身分の低い男爵令嬢だからって酷い! 私は稀少な光属性持ちなのに!」


 一向にフローラを糾弾するのを止めないソーニャは、ついに自分の唯一の長所である光属性の話を持ち出す。

 ソーニャは今までも自分が稀少な光属性持ちであることを下位貴族の令嬢達へ自慢し、彼女達のマウントをとっていた。

 今回もそれを公表することで自分に有利な状況を作るに違いない。

 何とも浅はかな考えに溜息が出そうになるフローラだったが、ソーニャの手にした教科書を見て息を飲んだ。


「こう見えて私の属性は木なんだ。教科書は紙製、紙は木から出来ているから修復するのは容易いことだよ」


 そう言って赤い髪を掻き上げながら微笑んだシリウスの前には、すっかり元通りに修繕された教科書を持つソーニャが、信じられないと言いたげに自身の手を見つめている。

 ソーニャが驚くのも無理はなかった。


 高位貴族は大抵何かしらの属性を持ってはいるが、壊れた物を修復したり、無から何かを燃やしたりできるほど強い魔力を持ち合わせている者は少ない。

 自分の持つ属性由来のものが傍にあれば少しだけ恩恵を受けられる程度のもの、例えば水属性のフローラなら自室の花瓶の水が少しだけ長持ちしたり、光属性のソーニャなら少ない電力でも電灯を長時間稼働できたりといった程度のことである。

 それが常識のこの国で、シリウスはいとも簡単に破れた教科書を修復してみせたのだ。

 別に隠していたわけではないが、周囲の生徒達は初めて目にする魔法の力に感嘆の声を挙げている。

 ソーニャでさえ自分の手の中で起こった奇跡が信じられず、喚くのを止めたほどだった。


 だがフローラはそれどころではなかった。

 あまりに異質な強い力は、時に妬みや嫉みの対象となるものだ。

 シリウスの魔力の強さは婚約時に知らされていたので知っていたが、問題は自分の不甲斐なさで、そのことが意図せず公となってしまったということである。

 淑女の鑑として感情を表に出さなかった頃には起こらなかった失態に、フローラの脳裏に後悔が押し寄せる。


 そのうちに騒ぎを聞きつけたソーニャの友人達が彼女を宥めて連れてゆき、シリウスがその場をうまく収めたことで事態は収拾したが、フローラの心はいつまでも晴れることはなかった。


 ◇◇◇


 中庭事件が終わってから午後の授業になっても、フローラはまだ後悔に苛まれていた。

 その内に、シリウスが望んだこととはいえ、王太子妃になる自分が本当にこんなことをしていていいのかという葛藤も生まれてくる。


(私さえ感情を押し殺して何も言い返さなければ、あんな騒ぎになることも、殿下が人前で魔法を披露することもなかったのでは? そもそも殿下は、本当に私にあの本の婚約者のようになってほしかったのかしら?)


 疑念が疑念を呼び、授業が終わるとフローラは図書室へと赴いていた。

 もう一度あの本を読もうと、急かす心を落ち着かせるように、ゆっくりと大衆文学の棚へ近づくと話し声が聞こえてくる。


「ねえ、本当にこのままソーニャが王太子妃になれそうじゃない?」

「男爵令嬢から王太子妃なんて夢みたい。まるでこの本そのものだわ」


 聞こえてきた不穏な会話にフローラは足を止め、書棚の隙間から目を凝らせば、一人の令嬢が、フローラがもう一度読もうと思っていたあの本を胸に抱いて甘い溜息を吐いていた。

 その周りにはソーニャと数人の令嬢達がたむろして、図書室だというのに相変わらず普段のような声量で会話を続けている。


「それもこれもフローラ様が悪役令嬢になってくれたお陰ね」

「そうなの! 最初は全然反応なかったから、どうしようかと思ったわ~。淑女教育の賜物ってやつ? でも今は素で悪役令嬢してるみたいで笑える~」


 聞き慣れない悪役令嬢という言葉にフローラは首を傾げつつも、何だか嫌な予感がして耳を澄ませる。視線は令嬢が手にしているあの本から目を逸らすことが出来ずにいた。


「稀少な光属性持ちで王太子妃だなんて羨ましい~。王太子殿下の魔法も凄かったし、やっぱり、この本みたいにソーニャと結ばれる運命なんだね」

「王太子妃になったらうちの家業への援助よろしくね?」

「私へは素敵な婚約者を紹介してよね?」

「任せて! 教科書破いたり、フローラ様の醜い嫉妬の噂を流したりって、協力してもらったんだもん。その位お安い御用よ」

「ヒロインに協力するのは当たり前だよ~」

「卒業パーティ楽しみだね。いつも偉そうにしている高位貴族のご令嬢方に、真実の愛を見せつけてやって!」

「本に書かれた通りに、婚約破棄と断罪を生で見られるなんて眼福~。でも悪役令嬢であるフローラ様は断罪されて国外追放か~。ちょっと可哀想かも」

「愛し合う私とシリウス様を引き裂く悪役令嬢だもん、仕方ないでしょ」


 ソーニャが冷たく言い放てば周囲の令嬢達が窺うように顔を見合わせて頷き合う。


「そうだよね。想い合う二人の真実の愛を邪魔する悪役令嬢だもんね」

「この本の序盤でも悪役令嬢は思い込みが激しくて、自分が王子に愛されてるって勘違いしてたしね」

「高位貴族って自分が元々高慢なことに気付いてないんだよね~。同情の余地なし! だね」

「そうでしょ? さてと、それじゃ私はシリウス様の所へ行ってくるね。たぶんまた悪役令嬢に邪魔されるけど、負けないんだ」


 健気な科白を吐いて颯爽と駆け去るソーニャに令嬢達が称賛の拍手を送る。

 今までも十分騒がしかったが、さすがに拍手は拙いと思ったのか令嬢達が辺りを見渡し肩を竦め、手に取った本を戻しトタトタと退出してゆく音が遠くに消えても、フローラはその場から動けずにいた。


(悪役令嬢? 婚約破棄? 勘違い?)


 彼女達の会話に出てきた不吉な単語が脳内を巡り、フラフラとソーニャ達がいた書棚の前に移動すると、震える手で先程令嬢が棚へ戻した先日読んだ本を読み進める。

 一心不乱に読み進め読了したフローラは、真っ青な顔をして書棚に手をつくと崩れそうになる身体を支えた。


 王子の婚約者が主人公だと思っていたその本は、実は三部構成から成る物だった。

 フローラが読んだのは序盤の婚約者視点だけで、途中から男爵令嬢視点に切り変わる。

 そこには婚約者が嫉妬から行っていた言動への理不尽さが書かれており、視点が違うとこうも変わるのかと驚かされた。

 そして最後に王子視点になる。そこで明かされた真実にフローラの心は抉られた。


 彼は婚約者のことなど好きではなかったのだ。それどころか向けられる嫉妬も愛情も迷惑だと感じていた。

 夜会でそのことを衆人環視の中伝えられ婚約破棄された婚約者は、初めて自分の愚かさを痛感する。しかし時すでに遅し、男爵令嬢を虐めた罪で国外追放が決まり、己の罪と勘違いを悔いながら行方不明となってしまうのである。そして婚約者に虐げられても真実の愛を貫いた王子と男爵令嬢は結婚し幸せになる結末だった。


 フローラが読んだ婚約者視点では解らなかったが、嫉妬に狂って嫌がらせを繰り返し、愛されてもいないくせに、王子の気持ちを無視して一方的に愛を押し付ける婚約者は、まさに悪役令嬢と言えた。

 そしてこの本を見たシリウスが放った言葉が、フローラの抉れた心を更に打ちのめす。


(こんな風になってくれたらいいなって……殿下は私を婚約破棄して断罪することを望んでいたの? ソーニャ様と一緒にいたいから、好きでもない婚約者の私が煩わしかったの?)


 明らかになった真実の残酷さにハラハラと涙が零れて、フローラは悲嘆にくれた。


(だから私が嫉妬してソーニャ様に注意したり、恥ずかし気もなく殿下に好意を見せるようになってから機嫌が良かったの? 私を悪役令嬢として断罪するために……!)


 知ってしまった、知りたくなかったシリウスの本音に、フローラは泣きながら頭を振る。


(耐えられない、耐えられない! 私はもう何も頑張ることなんて出来ない! もう自分のことさえ取り繕うこともできない!)


 本来、フローラは臆病な令嬢だった。

 潔癖だと言われたのも、他人にどう思われるのかが怖くてなるべく関わり合いにならないようにしてきただけのことである。

 それでも大好きなシリウスの役に立ちたくて、王太子妃教育を受け必死に強い淑女になると決めたから虚勢を張ってこられただけだ。


 嫉妬だって愛を伝えるのだって、シリウスが望んだことだから、彼が自分を少しでも好きでいてくれるからと羞恥を乗り越えて行ってきたことだというのに、それが全て自分を貶めるために望まれたことだなんて、勘違いをしていたなんて、フローラには耐えられるものではなかった。


(卒業式なんて出たくない。もう学園にだって来たくない。もう何もかもが嫌。もう疲れた。全て終わりにしたい)


 溢れる涙を拭いもせずに幽鬼のように歩き出したフローラは、図書室から自宅までどう帰ったのか覚えていない。

 帰宅するなり夕食もとらずに自室へ引き籠ってしまった娘に両親は心配したが、フローラはそれさえも無為に感じて、ベッドへ横になると疲れたように瞼を下ろした。


 ◇◇◇


 翌日、学園を休んだフローラの元へシリウスが見舞いにやってくる。

 婚約破棄される予定を知らない両親は、学園を早退して見舞いにやってきた王太子に要らぬ気を利かせ、フローラの自室で二人きりで面会させた。

 そのことにフローラは頭を抱えたくなったが、家族はフローラがシリウスを大好きだということを知っており、且つ、婚約破棄されることは知らせていないので、仕方がないと腹を括るしかなかった。


 入室してきたシリウスは、ベッドから起き上がってはいるものの顔色の悪いフローラを見ると心配そうに駆け寄ってくる。


「フローラ、辛いなら横になっていていいから。昨日君が泣きながら帰ったと学園の教師から報告を受けた時は本当に心配したんだ」


 ベッドに腰掛けるフローラの容態を心底案じているように真紅の瞳が揺れる。

 昨日あれだけ絶望したのに、フローラの中にはまだシリウスの愛を信じたい気持ちがあって、探るように彼の瞳を見つめてしまう。

 しかし次に告げられた言葉でその想いも霧散した。


「今はゆっくり休んで、卒業式までには治さないとね。どうしてもフローラには出席してもらわないと困るんだ」


 はにかむように言われた言葉にフローラが渇いた笑みを漏らす。


(殿下は何が何でも衆人環視の前で婚約破棄して、私を断罪したいのね。それもそうね。悪役令嬢として私を断罪して婚約破棄しないと、男爵令嬢であるソーニャ様との結婚は身分的に認められないもの)


 フローラのいつもとは違う笑みに、心配そうに顔を覗きこんでいたシリウスが不安げに手を伸ばしてくる。

 その手が髪に触れる前に、フローラは反射的に避けると冷たい声で呟いた。


「触らないでください」

「え?」


 フローラの拒絶の言葉に、避けられて行き場を無くした手が空を掴みシリウスの表情が固まる。


 彼に髪を撫でられるのが好きだった。

 最近は好意を正直に告げるフローラを労わるようにして撫でてくれる優しい手に、幸せを感じていた。想いを伝えてもいいのだと、仮面を被らなくてもいいのだと、愛してもいいのだと、そう受け取っていた。

 全てはフローラの勘違い。彼の発言を都合のいいように解釈した間抜けな結果だ。


 考えてみればシリウスから好きだと告げられたことはなかった。

 今思えば、甘えるフローラの髪を彼は決まって撫でつけていた。まるで愛情がないことを誤魔化すように。


「私……バカですよね。こんなことにも気づかなかったなんて」

「フローラ? どうしたんだい? まだ本調子じゃないのに無理させてごめんね。さぁ、もう今日はゆっくり休んで……」


 自嘲するフローラに戸惑うような瞳を向けたシリウスだったが、出てきた言葉はフローラを気遣うそれだった。

 でも彼はこれから自分を捨てるつもりなのだ。それも自分は好きな人と結ばれるためにフローラを衆人環視の前で嬲り者にするのである。

 そう考えたらスーッと心が冷えてゆき、気が付けばフローラは口を開いていた。


「私、殿下のことが嫌いになりました。ですから婚約破棄してくださって結構です。但し私は明日にでも領地に帰りますので卒業式には絶対に出ません。そのことだけはご承知おきください」


 感情を出さないように淡々と告げたフローラは、もうこれでシリウスとの関係は完全に終わってしまったのだとベッドの寝具を固く握りしめる。

 一方、シリウスの方はフローラの言葉にヒュっと息を飲むと、微笑を消した。


「……そう……フローラは私から離れたくなったんだ……」


 ユラリと立ち上がったシリウスがフローラのベッドへ片膝を乗せる。


「ここまできて婚約破棄だなんてフローラは本当にバカだね。今まで君を壊さないように必死で耐えてきたのに……」


 シリウスから告げられた言葉に、フローラは自分を壊したいと思うほど嫌っていたのかと唇を噛みしめる。

 ふと音もなく首元へ伸びてきたシリウスの手に恐怖を感じて仰け反った。


「いや! やめて!」

「やめないよ? 君は私を裏切ったのだから。壊して殺して隠さなければ……!」


 両手で押しのけて抵抗するフローラに、さも当然のことのようにシリウスは言い切る。裏切ったから殺すのだと簡単に言ってくるシリウスにフローラは驚愕するが、同時に好きな人に殺されて生を終えるのも悪くないという考えが浮かんできた。


(だってもう疲れたんだもの。どうせ、ここまで好きになれる人なんてこの先一生現れない。このまま虚しい人生を送るより愛する人に殺してもらった方がきっと幸せだし、殿下が私ではなく違う女性と添い遂げる姿も見なくて済むわ)


 そう考えてフローラは抵抗していた身体の力を抜く。

 そのことにシリウスは少しだけ躊躇う素振りを見せたが、すぐにフローラの華奢な首を片手で掴むと、反対側の手で両手を拘束した。


「ねえ、フローラ。ここ最近私に甘えてきたり、嫉妬してくれたりしたのは、私を油断させるための演技だったんだね。浮かれてすっかり騙されてしまったよ。でもね、卒業式には一緒に出てもらうよ? そうでなければ君を隠す大義名分がなくなってしまうから……」


 ガチャンと音がしてフローラが視線を落とすと、彼女の両手には手錠がかけられている。

 脅しのつもりだったのか片手は首にかかったままだが、断罪するまで捕えておくつもりなのだろうと推察し、どうやらシリウスはフローラを逃がすどころか殺してもくれないらしいと落胆した。


「殺してもくれないのですね……」


 ソーニャとの結婚のために、どこまでも自分を利用しようとするシリウスに恨み言を囁けば、シリウスはコテンっと首を傾げる。


「死んで逃げるのだって許せないからね。でもフローラが悪いんだよ? 私を捨てたりするから」


 微笑みを浮かべながらも真っ黒なオーラを漂わせ言い放ったあまりに身勝手なシリウスの言葉に、フローラの中で何かが弾けた。


「捨てたのは殿下ではないですか……! そんなに私を悪役令嬢として断罪したいのですか!? ご自分がソーニャ様と幸せになるためなら婚約者を利用することに罪悪感はないんですね!?  こんな非道なことをされても私は殿下が好きすぎて恨むことさえできないのに……!」


 溢れる涙を拭おうともせず言い募るフローラにシリウスは目を丸くする。

 その真紅の瞳を見据えながらフローラは猛る胸の想いを吐露し続けた。


「私が殿下に甘えたり、嫉妬したりするのが演技? そんなわけないじゃないですか! ずっとずっと大好きで、殿下に認めてもらいたくて王太子妃教育だって頑張ってきたんです! 図書室で見かけた殿下が大衆文学の本を眺めてこんな風になってほしいって言うのを聞いたから、恥ずかしくても教師達にいつ叱責を受けるかとハラハラしながらも、きちんと想いを伝えただけなのに……! 私には殿下が全てだったのに……!」


 手錠をかけられた両手を布団へ打ち付けながら想いをぶちまけるフローラに、シリウスは焦ったようにベッドへ乗せた片膝を浮かせる。


「ま、待って! フローラ? 図書室って……あの時見ていたのか……?」

「時間がなくて最後まで読めずに勘違いした私が悪いのかもしれないですけど、意図せず思い通りに悪役令嬢になった私を見てさぞかし嬉しかったでしょうね? 私があの本の婚約者のように感情のままに振舞うと、いつもご機嫌でしたものね! まさか悪役令嬢を望まれていたなんて知らずに、私はなんて愚かなの……! もう生きていきたくないのに、殿下は断罪が済むまで殺してさえもくれない!」

「悪役令嬢? フローラが? あの本を見て何でそう思ったのかわからないんだけど?」

「白々しい……。あの本の結末は悪役令嬢である王子の婚約者が断罪され、婚約破棄した王子はめでたく男爵令嬢と結ばれるではありませんか。ご自分もそうなりたかったから殿下は私に悪役令嬢役になってほしいと呟いたのでしょう」


 アクアマリンの瞳から大粒の涙を溢れさせながら睨みつけるフローラに、シリウスは目を見開くと、首元を掴んでいた片手を外して大きな溜息を吐き出した。


「あ~、ううん、何というか……。そうなのか……あの本の結末はそういう話だったのか」


 そう言って赤い髪を掻き上げたシリウスからは、黒いオーラが消えている。

 フローラは言いたいことを言い切ったお陰か、不貞腐れるようにギュッと布団を握りしめた。

 シリウスはその手に自分の両手を重ねて、避けられないことに安堵しながらじっとフローラの瞳を見つめると徐に口を開いた。


「結論からいえば私はあの本を最後まで読んでいない。ソーニャ嬢から逃げるために立ち寄った図書室で手慰みにとった本だったから、序盤の婚約者視点だけしか読んでいないんだ。まさか本の主人公である婚約者が悪役令嬢だったなんて思わなかった。だから素直に好意をぶつけてくれる婚約者が羨ましいと思ったのは事実だし、フローラがそうなってくれればいいなとも思ったのも事実だよ」


 優しく諭すように囁かれた言葉に、フローラが瞳を瞬かせる。


「殿下も最後まで読んでいなかった? 悪役令嬢だと知らなかった?」

「そう。結末を今初めて知って驚いている。ついでに独り言を君に聴かれたことも……」


 呆然と呟くフローラに頷きながら、頬を染めたシリウスが、尚も恥ずかしそうに苦笑する。


「願望がまさか声に出ていたとは……。でもそれも仕方ないか……だって王太子妃教育が始まってからフローラは全然好きだと言ってくれなくなったから。ソーニャ嬢が私に絡んできても全然嫉妬してくれなかったし。私ばかりが君を好きなんじゃないかって不安だったんだ」


 拗ねたようなシリウスに、フローラは戸惑うように瞳を彷徨わせる。

 シリウスを信じたいが、また勘違いするのは怖い。だから心に蟠る不安をぶつけずにはいられなかった。


「でも殿下だって、私に好きだなんて一言も言ってくれませんでした」

「フローラに好きだなんて言ったら理性が砕けてしまうから、自重していただけなんだけどな……好きだよ、フローラ。君を愛している」


 あっさりと返ってきた愛の告白にフローラは目に見えて狼狽するも、まだ気掛かりなことが消えたわけではない。

 絆されてしまいそうになる心を叱咤して、ずっと不満だった彼女との関係を問い質す。


「で、ですがソーニャ様をずっと気にかけていらっしゃいましたし」

「一応、光属性持ちの希少種だから王家として行動を監視していただけだよ。それに彼女が自由に過ごせるのは今のうちだけだから、精々学生生活を楽しんでもらおうと思って好きにさせていたんだ。最近は、ちょっとしつこ過ぎて適当に撒いて逃げてたけど……まさかフローラが、私がソーニャ嬢と結婚するために君に悪役令嬢になってほしいと考えているなんて思ってもみなかった」

「……そう……なのですか?」


 誤解が解けて嬉しい気持ちと、まだ少し信じられない気持ちが相まって、曖昧な返答になってしまったフローラにシリウスは少しだけ眉を寄せると、片手で彼女の頬を撫でつけた。


「何で疑問形? 私の愛が疑われたなんて……それは非常に心外だ。だから、これからはちゃんと教えてあげないとダメだよね?」 

「え?」

「私の愛は重いよ? 全部受けとめてもらうけれど。先程好きだと言ってしまったから、そろそろ理性が吹き飛びそうだし……」


 キョトンとするフローラの頬を撫でていた手を唇へ移して、ポツリと囁いたシリウスが距離を詰める。


「ところでフローラ、さっき私のこと嫌いになりましたって言ったのは、私のことを誤解していたために吐いた嘘なんだよね?」


 顔は笑っているがフニフニと親指で唇を押しながら昏く低く問われた声音に、フローラの背筋に冷たいものが伝う。

 シリウスを嫌いだなんて真っ赤な嘘だし、何故か逆らってはいけないような気がしてコクコクと頷けば、彼は真紅の瞳を嬉しそうに細めた。


「じゃあ、フローラの本当の気持ちを聞かせて? ついでに私の名前もちゃんと言ってほしいな。きちんと言えたら、とりあえず今日の所はコレ外してあげる」


 フローラのアクアマリンの両目をじっと見据え片手で唇を弄んだまま、彼女の両手を拘束している手錠の金属をもう片方の手でコツコツと指で鳴らして、シリウスはにっこりと微笑む。

 否やを言わせぬその笑顔に、フローラは恥ずかしさで悶えそうになるのを懸命に堪えて口を開いた。


「シリウス殿下、……好きです」

「やっと名前を呼んでくれて嬉しいけど、どのくらい?」

「どのくらい? えっと……シリウス殿下になら殺されてもいいと思える位……?」


 名前を言って告白するのさえいっぱいいっぱいだったのに、まさか好きの度合いまで聞かれるとは思っておらずフローラは面食らったが、先程そう考えたのは事実なので、ありのままを告げてみる。

 フローラの言葉にシリウスは息を飲むと、蕩けるような笑顔を浮かべて身を乗り出した。


「……フローラ。そんなことを言われたら益々抑えが利かなくなる……」


 フローラに近づくシリウスの瞳の奥が鈍く光る。

 どこか狂気を秘めたその怪しい光りに搦めとられてゆくような錯覚を覚えたフローラだったが、シリウスを愛してやまない彼女はその不穏な愛でさえ満たされてゆく幸福を感じ、近づいてくる真紅の瞳に促されるように瞼を閉じたのだった。



 その後の卒業式で、フローラとの結婚を電撃発表したシリウスに学園中が湧いた。

 婚約はしていたがシリウスはどうしてもフローラと結婚したかったらしく、卒業式で結婚宣言して逃げられないようにするつもりだったらしい。

 シリウスが卒業式に拘っていた理由を聞いたフローラは「そんなことをしなくても逃げないですよ?」と笑ったが、シリウスは微笑むだけで発表を取りやめたりはしなかった。

 そのため卒業式は二人の祝賀行事に変わってしまい、フローラは同級生である卒業生に終始申し訳ないと謝りまくっていたが、生徒達はにこやかに二人を祝福していた。


 実は、潔癖な淑女の鑑で氷のようだと言われたフローラが、嫉妬したり恥ずかしそうに好意を伝えたりする様子をほとんどの生徒達は驚きつつも微笑ましく見守っており、ソーニャは二人の仲を深めるための当て馬としか見られていなかった。

 高位貴族の生徒の中には不敬な言動を繰り返すソーニャに敵意の眼差しを向ける者もいたが、彼女の学園後の処遇を知っている者に諭され黙認していたらしい。


 物語と現実の境を見失った一部の夢見る下位貴族の令嬢はソーニャを応援していたようだが、卒業式で見せた仲睦まじいシリウスとフローラの様子に、自分達の認識不足とお花畑脳を思い知って後悔した。そしてその悔いは社交界に出てから自分達に向けられた白い目でもって倍増する。

 婚約者がいる王太子に言い寄る恥知らずなソーニャと一緒にいた令嬢というレッテルは、彼女たちの品位を地の底まで落としてしまい、まともな縁談は来ず、家も傾き皆ひっそりと屍のように生涯を終えることになった。


 ソーニャは卒業式の最中、般若のような顔でフローラを睨んでいたが、結婚を発表する頃にはその姿を消しており、以後二度と彼女を見た者はいなかった。

 王太子に懸想していたことが恥ずかしくなって雲隠れしたのだとか、フローラに冤罪を掛けようとしたので処罰されたのだとか、一時は様々な噂が飛び交ったがやがて人々の脳裏から忘れ去られていった。



 そんな過去を思い出しながらシリウスは自室の扉を開ける。

 本来ならば今夜は外泊で視察予定だったのを急遽日帰りに変更したため、いつも迎えてくれる愛しい妻の姿がないことを少し残念に思いながらベッドへ赴く。

 そこにはシリウスの愛しい婚約者であり今は妻となった最愛のフローラが、すうすうと心地よさそうな眠りについていて、その寝顔を撫でながらシリウスは口角を上げた。


「アレはいい当て馬にはなったな。だがまさかフローラから婚約破棄なんて言葉が飛び出すとは思わなかったけれど」


 あの時の絶望を思い出すと今でも怒りと狂気で我を忘れそうになる。

 アレと呼んだ数年ぶりに思い返す男爵令嬢の顔も名前もシリウスの記憶から消えている。物腰が柔らかく優しい王太子だと称されているが、彼は無駄なことは一切覚えない主義なので、実はフローラ以外の女性の区別がほとんどついていない。


「しかしアレらはどうして毎回王族や高位貴族に言い寄ってくるのか謎だ。さっさと解明できれば……いや、解明できたとしても害になるならば必要な措置だな」


 光属性持ちの稀少種は、その存在が稀少故に成人すれば国の実験棟に送られ二度と外には出られない。

 王家と魔法学を生業とする一部の高位貴族だけしか知らないこの措置は、何故か毎回婚約者がいる令息を篭絡しようする彼女たちに対しての防御策なのである。

 縦社会という貴族制度を根本から揺るがしかねない異物は学園でデータをとられ、卒業後は速やかに実験棟に送られ、魔力を奪う手錠で両手を拘束され数日が経つと、死ぬまで魔力を供給するだけの人形になり果てる。

 そうして人形になった令嬢は手錠を嵌めた人間の言いなりになり、正気に戻ることは二度とない。


「愛しい私のフローラ。君を壊してしまわなくて良かった。でも、覚えていて? 次に私から離れて行こうとしたら、今度こそ君の心を殺して閉じ込めてしまうからね」


 健やかな寝息を立てて眠っている、愛してやまない妻の額へキスを落とし、シリウスは甘く囁く。

 その声に薄っすらと瞳を開けたフローラがシリウスに気が付いて嬉しそうに微笑んだのを見て、ぎゅっとその身体を抱き締めた。


これメリバでしょ? というツッコミが聞こえてきそうですが、ハッピーエンドです。ヤンデレのハッピーエンドなんです。

ご高覧くださり、ありがとうございました。

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[良い点] ヤンデレにはぞわっとしました笑 途中まではフローラに感情移入してしまい、うるうるしてしまったが、 ラストはハッピーエンドでよかったです! テンプレあるあるの、聖女が婚約者のいる高位貴族を侍…
[一言] 両想いのハッピーエンド!! 王太子はこのヤンデレに腹黒を追加しても好き!
[良い点] ヤンデレのハッピーエンド、大好物です!ごちそうさまでした!
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