海のパレード
海のパレード
ざざぁっと潮風が、吹きあがった。
海からくる風は、立ち並ぶ森へとぶつかるとそのまま、木々をゆさゆさと揺らしては消える。
海水で濡れた身体は、みるみる体温を失っていき、ひやりとした寒さに、少しだけ肩を震わせた。
そしてまた、私が立つこの小さな孤島に、海からの強い風が吹きつける。
少しの間、この島の森と浜辺との境界に立ち、海と空の曖昧な青の境界を見つめていた。
風。ぐしゃっと大雑把にかき混ぜられる、私のセミロングな髪。
果たして、その風は次には森にぶつからず、竜巻のようにうねりながら青空へと向かってのぼっていくと、瞬くまにそこで消えてしまった。
ああ、なるほど。
こうして、霊魂っていうのは、天国へとのぼっていくのかもしれないな。
腑に落ちて、私はさらに空を仰ぎ見た。
細めた目に、夏の強い日射しがさす。
その目からあふれてあふれて零れ落ちる涙を、一生懸命に手の甲で拭った。
海水の塩分が手の甲で結晶となっていたのだろうか、頬でざりっと粒子が擦れた。
少しの痛みを頬に感じたその後、ようやく言葉が形となって口からぽろっと落っこちた。
「……ありがとう、」
言ってから振り返ってみると、やっぱり同じように涙を流して泣いている、幼なじみの男鹿の姿。
男鹿は私に近づいてきて隣に並ぶと、横から手を伸ばし、奪うように私の冷え切った手をぐいっと握った。
その力強さに、私はもう一度、言った。
「……ありがとう、一緒に来てくれて」
横でこくこくっと何度か頷く男鹿の横顔が、視線を戻して海を真っ直ぐに見据える、私の視界の片隅に入る。
男鹿は嗚咽を我慢していた。でもね、大そうな理由があるのなら、いやいや、まあそんなのなくてもいいんだけども、男だって人間の一部なんだから、泣いたっていいと思うんだ。
温かみに包まれている手を、握り返しながら、私は。
「ありがとう……もういい、……もう満足した」
それでも、嗚咽を抑えて男泣きする、男鹿の逞しい肩は揺れたまま。
「満足だよ」
その肩にこてんと頭を預けると、潮に混じって、男鹿のいつもの日焼けの匂いがした。
✳︎✳︎✳︎
あの日。
快晴の、夏の日のことだった。
当時、11歳の私はその時、迷路のような道を必死になって駆けていた。
なぜ、そうも急いでいたのかは正直、覚えていない。なにか目的があって走っていたのだろうけど、それも思い出せない。
じっとりとした汗で背中にTシャツが張りつくのを不快に思っていた。まあ、そんなどうでもいいことは覚えているんだなあ。
必死になって、足を前へ前へと出しながら、無我夢中で走っていた。
はあはあと、あがる息。自分の吐いた二酸化炭素に、全身がまみれてしまうような、そんな感覚。なにかにまみれるということは、海で溺れる感覚に近いような気がする。
私は走りながら、そんなことを考えていたんじゃないかなと思う。
さ迷い出た防潮堤を必死になって登る。
コンクリートからの照り返しが容赦なく熱い。カラカラに乾く喉。続く階段をつまづきそうになりながらも、必死で駆け上がった。
そして、防潮堤の上へと立つ。
眼前には、どこまでもどこまでも広がる海。漁船。少し歪んだ水平線。
叫びたかったのかもしれない。それであの防潮堤に行ったのかもしれない。
母を、なんだかよくわからない病気で失った悲しみを、吐き出したかったのかもしれない。
「お母さん」と、叫びたかったのかもしれない。
私は息を整えると、海を見据えた。
目に入ったのは、小さな島がひとつ。
水平線を遮るようにぽかりと浮かぶ、小さな小さな孤島。あの島には、誰も住んでいないし動物などの生き物もいないしカブトムシもクワガタもいないのだと、誰かに聞いたことがある。
前髪の生え際に沿って流れる汗。こめかみをかすめて、頬へ、あごへと伝い、落ちていく。
その雫の動きをスローモーションのように感覚で追っていた、その時。
私は見た。
流れ落ちていく汗は一瞬で冷え、そして時間を巻き戻すかのように、すうっと引いていった。
見たのだ。その、ぞっとするような光景を。
海の上を渡っていく、人々の姿を。
実体のない、ふわふわとした人たちが、それこそ一列にきっちりと並んで、海面をぞろぞろと歩いていく。
人間ではないと、直感でわかった。
その透け感は、まさに想像のまま。
幽霊だ。
その幽霊たちは、さらにゆらゆらと身体を動かしながら、浮遊させながら、何十人と連なりながら、その小島に向かって、ぞろぞろと歩いていく。
海の上を、島に向かって、ひたすらに。
「幽霊の……パレードだ」
とっさに、そう思った。そして、そのパレードの中に視線を這わせて見つけたのは。
「……お母さん」
だったような、気がした。
✳︎✳︎✳︎
「なあ、本当にやるのか?」
小心者の幼なじみが、覗き込むようにして、顔を近づけてきた。
肌に焼きついた潮の香り。
サーファーと言えば聞こえは良いが、ただ女の子にモテたいだけでサーファーやってる男鹿が、弁当箱をずいっと出してくる。
幽霊のパレードを見た11の年から丸4年。 私が中3になったばかりの、初夏のある日。
学校の校舎の屋上。
ここからは、海と学校との間に立ちはだかる防風林が、全てを遮ってしまっていて、まるで海が見えない。耳をすませばなんとか、潮騒が微かに聞こえる程度だ。
「ほい」
差し出された弁当箱を覗き込む。
綺麗に巻かれた玉子焼きを指でつまんで取り上げると、いつものように私はそれを口に入れて噛みしめた。
うん。今日の玉子焼きは明太子味。美味い。これ好き。
「ありがと」
男鹿のお母さんは、いつも私が手作りの弁当じゃないのを知っていて、おかずを私の分まで余分に詰めてくれているという、優しい人だ。
そして、それはいつも男鹿のお母さんに頼んでくれる、男鹿の優しさでもあった。
「なあ本当にやるのか? あんな島なんもねーと思うけどな」
男鹿が思い出したように言う。
「私、そのために水泳部に入ったんだからね。だから止めんな」
「止めたいわけじゃねーけど」
「誰にも言わないでよ。あんた口軽いんだから」
「言わねえよ。兄貴にもな」
「んー、でも康貴くんなら、賛成してくれるかも」
「おい、すずめ。言っとくけど兄貴なんか、全然あてになんねえから。あいつ、意外とビビりだしな。いざってなった時に、大人に告げ口するかもしれねえし」
「……康貴くん、真面目だもんね」
私が持っていた袋から、スティックパンを一本取り出すと、男鹿はそれを受け取って、豪快にかじりついた。
「あー、お前はなんで兄貴は名前呼びなのに、俺のことは苗字呼びなんだよ?」
男鹿が不服そうに頰をスティックパンで丸けながら、チッチッと何度も舌打ちしたりして、独り言のように言う。
だけどもまあ、ここはスルー。
「ったく、ツイテねえ。今日もダンパーかあ。これで三日連続ぅー。最悪だし、まじくたびれ損だああぁ」
「そんなの早めに諦めりゃいいのに」
「三日もこんな波、続くなんて思わねえっつーの。それに天気によっては、浮いてる途中で波の具合が変わるかもしれんだろ?」
「そんな直ぐに低気圧くるぅ? ずっと待ってなくたっていいじゃんって言ってんの。別に明日でも明後日でもいいじゃん。結局あんた、四季関係なく一年中、波乗ってるんだから」
男鹿はそのままスティックパンの最後を口にねじ込むと、さらに弁当の白米を口にかき込んでいった。
うわっ。菓子パンと白米が混ざるだろーが。
「今日の波には、二度と出会えねえんだよ」
はい、スティックパンと白米は、出会ってるー。あんたの口の中でだけど。
「……え。てか、なにそれ? 誰の名言なの?」
「佐渡パイセン」
「ぶっ、サドさん⁉︎」
吹く。
「どんなだ。チャラサーファーめ」
「うん、まあサーフィンの技術は置いといてだな。俺のサーフィンスタイルの師匠だからなあ、俺の」
あははは確かに。男鹿の長い前髪を無駄に遊ばせる、その髪型も似せてるし、足首のミサンガだってねえ。……あ。だから制服ズボンのすそを折り曲げてるんかい‼︎
私は笑って、オレンジ100%にぶっさしたストローを大いに啜った。
そして、喉を潤し、歯にくっついたスティックパンの欠片を舌で落としながら、もう一度飲む。
空を見上げた。
もうすでに固まっている意思が喉の奥からせり上がってきて、口から生まれ出ようとしている。
「私、」
意思を言葉として、吐き出した。
「絶対にやるから」
声はぶれない。心もぶれない。
「……そうか」
男鹿が弁当を空にして箸を転がした音が、カランカランと学校の屋上に響いていった。
✳︎✳︎✳︎
それは私が、11歳の時。
その頃、私の母は重い病気により、入院を余儀なくされていた。
週末がくると必ず、私は父と一緒に病院にお見舞いにいった。母が入院している病院は、海岸沿いから少し奥へ入った、閑静な場所に建っていた。
家から車で10分くらいだろうか。海岸線を舐めるように北上し、ある場所で右へと曲がる。その目印となる店は、竹川商店。
「今日はプリンでも買っていくか」
父がハンドルを切り、竹川商店の駐車場へと勢いよく車を突っ込んでいく。縁石を無理矢理ならしたような歩道との段差で、毎回、車が激しく左右に振れた。
普段優しいはずの父が、こうして車のハンドルを握ると、途端に乱暴になる。それが幼心にとても嫌だった。
けれど、その乱暴さを我慢しなければ、母には会えないし、それにプリンも食べられない。
今思えばそんなちんけなことが、その頃の私には母の不在と同等の、乗り越えるべきひとつの試練のように思えて、私は歯を食いしばって耐えなければいけない、という気になっていた。
駐車場に突っ込んで停めた車から、逃げるようにして降りる。
「ここのプリン好き」
「そうか。すずめは甘いもの大好きだもんな」
「うん」
ガラガラと横に滑るドアを開けて店内に入り、ショーケースから勝手にプリンをみっつ、取り出す。ケースのドアをパタンと閉める頃、ようやく奥から店番のおばあちゃんがのろのろと出てきた。
「こんにちは、これください」
父がお金を払い、私がプリンの袋を持つ。レジを打つおばあちゃんの顔をチラ見しながら、私は毎回、袋の中を覗き込んだ。
(スプーン、ちゃんと入ってる)
以前、スプーンが入っていなくて、母がすするようにして食べていたのを思い出す。
私は満足して店のドアへと向かいながら、振り返って父を見た。父はおばあちゃんとひとことふたこと言葉を交わすと、財布を胸のポケットに入れながら、こちらへと歩いてくる。
父が横に並ぶ。頭を押さえつけられる。
髪がぺちゃんこになるような気がして、私は頭を振ってイヤイヤをした。
母に会うために、髪を綺麗にといたのにと内心、父を恨んだ。
それから程なくして母は亡くなった。
病気だとは知っていたけれど、みなが口を揃えて原因不明の病気だと言う。まだ11歳だった私には、難病という言葉の意味は分からなかったが、母がもういないということは、がらんどうになった病室の雰囲気と、母の眠る顔を見ながらお坊さんがむにゃむにゃ言っているのを見ていたので、よくわかっていた。
母の死に目には会えたのだけれど、その時の記憶はあまりない。
「お母さんはどこにいったんだと思う?」
母の死から少し経ったある日の夜、眠れずに父を起こしたことがある。隣で目を瞑っていた父が、薄っすらと目をあけながら、小さな声で言う。
「天国だよ」
いま聞いたら吹き出してしまいそうになる父との会話。
カーテンの隙間から月明かりが漏れていた。父の、その月明かりに照らされた虚ろな目だけが、印象に残っている。
✳︎✳︎✳︎
私が住むこの海辺の町は、漁業とサーファー相手の観光業で生計を立てている。それ以外は特に特筆することのない、よくある港町だ。
町の中央部にある漁港には、そう大きくはない漁船が数隻、係留してある。
サーフボードを抱えピッチピチのウェットスーツを着た男女が、早朝と夕方、海辺の道をうろうろと歩いている光景。
それがこの町の日常でもあった。
余談でどーーーでもいい話だが、幼なじみの男鹿もご多分にもれずのサーファーで、オリンピックまではいかないにしても、地元の大会ではちょっと名の知れた人物だった。まあ、男鹿はサーフィンに青春をかけているし、だからこそ真面目に一途に頑張っている、と言ってもいいのかもしれない。
ざざああ。ざざああ。
波の音と潮の香りが、やむことなく充満する町。
海を横目に見ながら、その海岸線をぶらぶらと歩く。私は、家から歩いて5分で着いてしまう、この海岸沿いを歩くのが好きだった。
このまま歩き続ければ、母のお見舞いでよくプリンやゼリーを買った竹川商店が見えてくる。
そしてその少し手前には、1時間に一本しかこないバスが停まる、バス停がある。
潮風にその看板を晒しているのだが、錆で変色したバス停の侘びやら寂びやらを感じる看板は、この町のどこにも行けない古さの象徴なのかもしれない。
この古ぼけた町から、サーファーが去れば、なにもない空虚な町となってしまうだろう。
バス停の前を何気に通り過ぎる。
けれど今、中三の私たちもあと半年ちょっとで、このバス停からこの町を去っていくのだ。なぜなら、町には町立の中学までしかない。このバス停に停まるバスは、初々しい高校生を乗せ、隣接している他県の県境をまたいで、寮のある高校へと運んでいく。
「すずめももうすぐ高校生か」
感慨深げに父が言った。
二人きりで挟む食卓は、父が買ってくる惣菜と私が作った料理とが混在している。パックと皿と鉢。そのカオス。母が亡くなってからは、こんな風に家中の至るところがカオスなのだ。
「ユミもカナも一緒だから大丈夫だよ」
まあまあ仲の良い友達の名前を出してみる。
「……うん、そうだな」
沈黙が流れる。
進学という旅立ちの時が、刻一刻と近づいてきているというのに、母という存在はこの家にはない。母親がいないから旅立ちの準備もままならないし、家族総出で子どもの進学を見送るという、節目っぽいこともできない。
父が、寂しそうな表情を浮かべた。
けれど、私は寂しくなんてない。
なぜなら母は……
ちらと仏壇を見る。
いや、ここにはいない。
なぜなら、母は、あそこにいるのだと、知っているからだ。
私は視線を食卓の上に戻した。
父が買ってくる惣菜の中にはいつも、母が好きだったポテトサラダがある。
ガガガッと大きなエンジン音がして、私ははっとして、我に返った。
バス停の前のベンチで、どうやら物思いに耽っていたようだ。この暑さでぼーっとしていたのかもしれない。
キキーッとブレーキの音を立てて、バスが目の前に横づけされる。ガシャとバスのドアが開いた。大きく開き切ったドアの中、異次元にでも吸い込まれそうになりながらも、ベンチに座ったまま耐える。
すると、諦めたようにドアを閉めると、バスはガガガッと音を立てて走り去った。
私は立ち上がり、歩き出した。
ざざあ、ざざあ。
竹川商店の前を通りすぎる。店舗の向こう側にある、少し細くて狭い路地に入る。
慣れた足取りでそのまま店の裏へと回り、ちょっとした防潮堤へと続く階段を、足取り軽く駆け上る。
防潮堤の上に立つ。幽霊のパレードを見た、あの日のように。
眼前には視界いっぱいに広がる青。こっちだよと手招きでもしているような波。潮風を鼻の奥で感じる。
太陽の照り返しで小さな波がきらきらと輝くのを見、その眩しさに目を細めた。
波間を漂う漁船が数隻。
その漁船をあいだに望むのは、緑の森が覆う、島だ。
私はその島をじっと見た。この海岸から、1キロほど先にある。
その名を『初島』という。
私は今日も。
母にもう一度、会えやしないかと、目を凝らして、その島を眺めている。
✳︎✳︎✳︎
「すずめ、本当にやるのか」
男鹿が神妙な面持ちで顔を寄せてくる。男鹿の斜めに伸ばした前髪が、いつもより強めの風に翻弄され、さっきから男鹿の額に打ちつけている。
「やるって言ってんでしょ。あんたもしつこいね」
中学最後の夏休み。入って直ぐの、晴れた日だった。
男鹿が、沖を見る。その視線の先には、緑に覆われた初島。
「あんなところ、なんもねえと思うけど」
「でも私、この目で見たんだから」
私は近づいてきた男鹿の身体を避けるようにしながら、手にしていたクリアポーチの密封できるジッパーを閉めた。
中には小さなペットボトルのお茶と、キャラメルコーンの小袋が二袋。クリアポーチには、肩から斜めに下げられるように長い紐がついている。
「おまえが見たのは夢だと思う」
「……別にそれでもいい。それを確かめに行くんだから」
紐に首をくぐらせると、肩から斜めがけに下げて、クリアポーチを腰骨のところに落ち着かせる。
深く深呼吸をした。
「そんなバカみてえなこと」
「私の勝手でしょっっ‼︎」
その時、男鹿が手で支えていたサーフボードが、海辺を走る風に煽られて、ぐらっと揺れた。
うお、やべえと抱え直す。幼なじみだったはずの男鹿の、変化した太く男らしい声に、少しだけ怯んでしまう。
「とにかく、今日はやめた方がいい。風が強すぎる。ほら、そこら中に白波が立ってるぞ」
男鹿が指さす方向に仕方なく目を送る。小さな白い波が、立っては消え、立っては消えを繰り返しているのは、ここに到着した頃から知っていた。
「……わかった」
私は渋々、クリアポーチを肩から降ろした。
「俺は何度も言うけど、反対だぞ」
「耳タコ」
「たった1キロだって言うけどな、流されてみろ。命に関わるぞ。絶対に危ねえよ」
「部活ではもっとたくさん泳いでる」
「プールと海は違えんだよ。わかってねえなあ」
「ちょっとサーフィンできるからって、それがなによ」
男鹿が立てていたボードを右脇に抱えた。空いた左で、腕を掴まれ引っ張られる。
「おら、今日はもう帰るぞ」
「わかったってば」
後ろ髪を引かれながらも、砂浜をしぶしぶ戻る。
隣を歩く男鹿は、スウェットを上半身だけはだけている。腕はサーフィンのパドリングがために筋肉がついて、パンパンに膨れ上がっている。
私は、自分の足元を見た。ビーサン、短パンにTシャツだけれど、その下には水泳部で着用しているスイミングウェア。
そのスイミングウェアに気づき、私は本来の目的を思い出してから、慌てて強く言った。
「やるって言ったらやるんだから。泳いでいくんだから。5年生の時から決めてたんだから。絶対にやるんだから」
私がそんな感じで怒ったように言うと、男鹿が呆れたように言った。
「おまえはいつも諦めねえなあ」
「お母さんがいるかもしれない」
「そんな馬鹿な話、誰も信じねえよ」
私が不服を唱える前に、男鹿が遮るように言った。
「だけどな、すずめ。おまえは信じてるわけだからなあ……そんじゃまあ、俺も一緒にいくわ」
男鹿の言葉で一瞬。心臓や時間や空間が突然、止まったような気がした。
「もし、おまえの話が本当なら……俺だって、死んだばあちゃんに会えるかもしれんからな……まったく」
男鹿が、観念したように言った。
✳︎✳︎✳︎
「足を引っ張らないでよ」
私が腰に回したウェストポーチを、少しだけ上げた。
肩紐で斜めがけにするクリアポーチは、身体に密着しない。絡まって危ないからと、男鹿に止められた。
そのかわり、ウェストポーチにし、中身をジップロックに入れる。もちろん封を切ってないキャラメルコーンとお茶のペットボトルだ。
「おまえこそ、な」
「水泳部だっつーの」
「こっちこそサーファーだっつーの」
男鹿は、上半身をはだけて着ているスウェットに腕を通した。私はスイミングウェアになるために、短パンを脱いだ。海岸に流されてきて、浜辺に鎮座している流木のうろの中に隠す。
ゴーグルをつけると、海へ向かって歩き出した。
わくわくなどしないし、ドキドキなどもしない。
(お母さん、今からいくよ)
少しだけ、オフショア。風はそう強くないけれど。それは私たちをそっと助けてくれるのだ。
海は静かで凪いでいる。
波とはそうたわむれることなく、私はひたすらゆっくりなクロールで泳いでいく。
時折、鼻に入った塩分濃度の高い水を、ふんっと吹き出す時に痛みを感じるだけで、特になにもなく順調に島へと、泳ぎ進んでいく。
もちろん、後ろに続く男鹿の姿も見える。
髪を後ろひとつに結んで前髪を女もののピンで留めるだなんて、チャラさを突き破ってもう男鹿のオリジナルチャラにしか見えない。
呆れながら振り返るのをやめ、私は島を真っ直ぐに見た。
海岸で見ていたよりは、もちろん距離的に言っても、ずいぶんと近づいているはずだ。だから海岸で見た時よりも、島全体に大きな存在感を感じるのは、当たり前なんだと思う。
けれど。
その大きさと存在感を目の当たりにして、突然、現実味が湧いてきた。『現実』という波にのまれてしまったのだ。
私たちは初島へと確実に近づいていて、ゴールは目の前にある。そう思った途端に、身体が鉛のように重くなった。
怯んだし、躊躇した。
視界の中でその存在感と大きさを増していく、『島』を認識しては、私は。
本当に来て良かったのだろうか、と逡巡したのだ。してしまったのだ。
もし、あの島に。
なにもなかったとしたら?
今まで信じてきたこと。それを一瞬で奪われてしまうかもしれない、という可能性。
母はここにいる。たとえそれが幽霊だったとしても。
確信を持って信じていたものに、戸惑うことすら許されない、白か黒かの残酷な答えが出てしまう。
島に上陸し、この目で確認するという行為は、果たしてそういうことなのだ。
突然、恐ろしくなった。
「どうした、すずめ」
立ち泳ぎをしながら、近づいてくる男鹿を見る。
「足でもつったか?」
足などつるはずがない。私は水泳部なんだから。けれど、筋肉が力んでしまって、少しだけ海中へと沈みかける。
盛り上がった波で、海水が口へと入ってくる。それを繰り返し吐き出しながら、男鹿を見た。
情けない顔をしていたのだろう。
男鹿が心配そうな視線をこちらに向けては、私を深く探ってくる。
「すずめ、どうした? ……なんで泣いてる、んだ?」
私は水の中でひらひらと、エイのヒレのように動かしていた手の動きを止めた。
「泣いてなんかないっ」
強がってみせた途端に。
身体は浮力を失った。
海は。
こうして、体力をするすると奪っていき、そして引きずりこむのかもしれないと、私は頭の中、漠然と考えた。
「すずめっっ」
男鹿の叫び声を耳に入れたのを最後に、どぶんと水中へと沈んでいく。頭皮に冷たく、ぴりりとした刺激ある塩分と水圧を感じた。
ぶおん、と耳の鼓膜が震え。
ああ。
このまま海の底へと沈んでいけば、島にいるはずの母にはもう二度と会えないだろう。
いや、もしかして、この方が会えるのかもしれない。
ゴーグルを顔からむしり取る。そして、そのまま目を閉じてゆく。
水面からの光が、まぶたの裏で、ゆらゆらと揺れた。
『すずめ、来てくれたのね?』
揺れる光。まるでステンドグラスを通した、太陽の光のように。
その柔らかな色彩の中に、生前の母の、嬉しそうな顔が浮かぶ。
『すずめ、ほら早くこっちにおいで、』
病室に響く、優しい声。差し出した袋を手に取ると、母は。
『まあ、これプリン? ちゃんとスプーン入っているかしら?』
ふふふと笑いながら袋の中を覗き込む。
あったあったと嬉しそうに、スプーンを取り出す母を、ずっと見ていたかった。
いつまでもいつまでも、ずっと。
『すずめ、ありがとうね』
ああ、私は。
こんなにも、お母さんに会いたかったんだなあ。
お母さんあのねって、話したいことがいっぱいあるの。
お父さんがね、車を家の門柱にぶつけて破壊しちゃったんだよ。呆れて物も言えないよね。
あと男鹿くんがね、この前のサーフィンの大会でね、やっとこさ優勝できたんだよ。
お母さん、あのね。
私、もうすぐ高校生になるよ。
じわと涙が滲み出た。海水と涙は、きっと混じり合い、そしてなにかの化合物になるのだろうか。
(……おかあさん)
口からコポコポと出ていく泡が、ゆらり、またゆらりと登っていくのだろうな。そして、きらきら揺れる光の中で、打ち上げ花火のように、ぱちんと割れては水面へと消えていくのだろうな。
(……わたし、おかあさんにあえる、かな)
海はあの世界へと繋がっている。島はその入り口に決まっている。
私がいつか見た、幽霊のパレード。
一列に並んで海を渡り切り、あの島へと連なって歩いていくのを、この目ではっきりと見たのだから。
お母さん。
会いにいく。
病院でもお墓でも仏壇でもない。
水泳で鍛えた、この腕で。階段ダッシュを繰り返した、この脚で。
海水を。
力強く蹴った。
✳︎✳︎✳︎
ざざぁっと潮風が、吹きあがった。
海からくる風は、立ち並ぶ森へとぶつかるとそのまま、木々をゆさゆさと揺らしては消える。
海水で濡れた身体は、みるみる体温を失っていき、ひやりとした寒さに、少しだけ肩を震わせた。
そしてまた、私が立つこの小さな孤島に、海からの強い風が吹きつける。
少しの間、この島の森と浜辺との境界に立ち、海と空の曖昧な青の境界を見つめていた。
風。ぐしゃっと大雑把にかき混ぜられる、私のセミロングな髪。
果たして、その風は次には森にぶつからず、竜巻のようにうねりながら青空へと向かってのぼっていくと、瞬くまにそこで消えてしまった。
ああ、なるほど。
こうして、霊魂っていうのは、天国へとのぼっていくのかもしれないな。
腑に落ちて、私はさらに空を仰ぎ見た。
細めた目に、夏の強い日射しがさす。
その目からあふれてあふれて零れ落ちる涙を、一生懸命に手の甲で拭った。
海水の塩分が手の甲で結晶となっていたのだろうか、頬でざりっと粒子が擦れた。
少しの痛みを頬に感じたその後、ようやく言葉が形となって口からぽろっと落っこちた。
「……ありがとう、」
言ってから振り返ってみると、やっぱり同じように涙を流して泣いている、幼なじみの男鹿の姿。
男鹿は私に近づいてきて隣に並ぶと、横から手を伸ばし、奪うように私の冷え切った手をぐいっと握った。
その力強さに、私はもう一度、言った。
「……ありがとう、一緒に来てくれて」
横でこくこくっと何度か頷く男鹿の横顔が、視線を戻して海を真っ直ぐに見据える、私の視界の片隅に入る。
男鹿は嗚咽を我慢していた。でもね、大そうな理由があるのなら、いやいや、まあそんなのなくてもいいんだけども、男だって人間の一部なんだから、泣いたっていいと思うんだ。
──お互いに、大切な人を失ったのだから。
温かみに包まれている手を、握り返しながら、私は。
「ありがとう……もういい、……もう満足した」
それでも、嗚咽を抑えて男泣きする、男鹿の逞しい肩は揺れたまま。
「満足だよ」
その肩にこてんと頭を預ける。
「満足だよ、だってお母さんに……」
潮に混じって。
「……会えた、気がしたから」
男鹿の、いつもの日焼けの匂いが、した。