幕間④ どうでもいい記憶【透視点】
「×、おはよう。朝ごはん、できたわ。焼き鮭ときんぴらと、ジャガイモのお味噌汁ね」
「ん、ああ。おはよう、いつもありがとう」
「ぱー、ぱー」
「ぱーじゃなくてパパでしょ? でも、もう少しで言葉を話せるようになりそうね」
そう言って、×は幸せそうに笑う。
いつか永遠に続くと思っていた、優しくて暖かい朝の風景。
♦♦♦♦♦♦
「――――何人でも殺してもいい。構わない。だから、僕の、この記憶を……全て消してくれ、ジェネシス。意思と思念だけを残してくれ。それ以外の、僕のこの全ての記憶を消してくれるのであれば、僕は何でもしよう。あなたが望むままに、全ての人間を殺し尽くす。その為に僕の全てを捧げても構わない。人間は、悪でしか救済できないのだから」
♦♦♦♦♦♦
「…………ん」
酷く、眠い。頭がぼんやりとする。身体も怠い。
目をうっすらと開けると、見覚えがあるような、無いような、天井。
さっきまで何か、夢を見ていたような気がする。
温かい、優しい夢。
「ここ、は……」
何かを考えようとすると、頭痛が走る。
「……っ」
何故か、涙が流れる。意味不明の涙。何かを喪失した涙だと分析するが、何を失ったのかまでは分からない。
「あら……お目覚めかしら。ならさっそくだけど、施術が成功したか確認させてもらうわ」
冷たい微笑を浮かべる女性が、目に映る。
ネグリジェを来た寝ぼけ眼の女性は、医療用ペンライトで僕の眼球を照らし、覗き込んでくる。そしてその後、「失礼」と前置きし、聴診器で僕の心拍数を確認してくる。
いつの間にか嘘のように涙は止まっていた。こんなすぐに枯れるのであれば、きっとくだらない感情なのだろう。僕はすぐにこの涙の存在を忘れた。
「正常。問題なさそうね」
「君、は……摩耶辺燐、か……」
樹海で遭遇した逸材がどうしても生き返らせたかった死体の女。
逸材である彼は、ジェネシスを付与する前からSSとなることが確定していた。
この女性は、唯一僕が自分の意思とは関係なく傍に置いている存在。だが、今では誰よりも僕の役に立ち、僕の利益に貢献する無くてはならない存在にもなっているのだから、巡りあわせとは不思議なものだと思う。
「あら、あらあら、あら。その名前は今は間違いよ。もう一度、きちんと考えてね」
「……いばら姫か」
「そうよ。おめでとう、透。一度の施術で成功するとは、お互いに手間が省けたわね」
何故か、少し前の出来事を思い出せない。何故僕は……ここにいるのか。
記憶が混濁しているらしい。
いばら姫は僕から視線を外し、いつの間にか定位置のハンモックの上で寝ころびながら読書を始めていた。相変わらずマイペースな性格だ。
「…………ひとまず、状況把握がしたい。お願いしてもいいかい?」
「そう、ね。でもまずは目覚めのココアでも飲みたいんじゃない?」
そう言っていばら姫は形態化したジェネシスの腕で、視線も動かさずに本を読みながらマグカップにココアの粉、砂糖、シナモン、冷蔵庫からミルクを入れていく。スプーンも使わず、目を使わない目分量。
「相変わらず器用だね。僕も努力したがついに腕の形態化まではできなかったよ」
「そういう会話ができるってことは、殆ど大丈夫そうね」
いばら姫は感情を感じさせない観察者の視線で僕を眺め、薄く唇を歪める。
作業はいつの間にか終了しており、ココア入りマグカップは電子レンジの中へジェネシスの腕によって運ばれていく。
「あなたがいなくて退屈だったわ」
「フッ、君には骸骨がいれば十分だろう」
僕は軽く言葉を返し、洗面所へ行って洗顔と口をゆすぎ、ベッドへ戻る。
「骸骨はテンパってて駄目ね。あなたの蘇生後の脳移植が上手くいくか気が気ではないようで、落ち着いて話もできやしない。集中したいのに何度も話しかけてきてウザいからこの部屋から出て行って貰ったわ」
「……やはり、僕は“死んだ”のか。《絶対不死》を超えて僕を殺す者が……現れたんだね? 記憶が途切れる前の状態から察するに、恐らくは殺人カリキュラム、か……」
人体実験を何度も繰り返していれば、いずれは僕の思考を超越するような存在が現れる可能性について考えたことはある。モルモットの域を超えて進化を遂げ、僕に近づけた者には無限の可能性がある。
とうとう、その日が来た……というわけか。
「フフ……」
いばら姫からココアを受け取り、僕はほくそ笑む。
“真なる自由を世界に示す”ことも僕の大きな目的の一つではあるが、それに付随して二つ目の目的が、僕にはある。《赤い羊》もその為に作ったようなものだしね。
だが二つ目の目的が果たされる確率は非常に低い。
が、“現れた”のであれば話は別だ。
二つ目の計画も、次の段階にシフトさせる必要がありそうだね……。
「君の《全理演算》は奇しくも当たってしまった訳か。僕は外れると思っていたんけど」
ありとあらゆる森羅万象の確率を数値化することができる異能力、《全理演算》。確率を観測する為だけの異能力。僕の行動指針は、いばら姫の《全理演算》を参考に決めることが多い。無論、確率なので外れることもあるが、それでも確率を知っていれば行動を修正できることに変わりない。
「私が“視た”ジェノサイダーであなたを殺し得る確率の持ち主は、五人いるわ。一人は実際に殺した百鬼零、二人目は幻のFランク白雪セリカ、三人目は多重人格者西園寺要、四人目はあなたが切り捨てた百鬼結、五人目はいわずもがなヒキガエルよ」
「ヒキガエルはいいとして、他に四人も……いるのか? その情報は、僕が殺される前には共有してくれたのかな?」
「いいえ。“敢えて”黙殺したわ」
悪びれる様子もなく、平然といばら姫は情報を秘匿して僕を見殺したと告白する。僕の集めたメンバーはどうしてだろう、誰もかれも冷酷で無慈悲な者ばかりだ。なんとも喜ばしいことだね。
「……それは、どうしてだい?」
「理由は三つ。一つ目は、“いい薬”だと思って。あなたは良くも悪くも傲慢な性格。能力が伴っているから許されているけど、慢心は身を亡ぼす。敗北と失敗ほど貴重な経験は存在しないのだから。あなたは敗北からの生還という最高の経験を手に入れたの。私の知恵に感謝してね?」
「酷いな……」
「良薬は口に苦いものよ。誉め言葉として受け取っておくわ。二つ目は、あなたの価値を試したかった。確率は飽くまでも確率でしかない。黙殺した四人を圧倒するほどの実力をあなたが持っているのか、そうでないのかを計りたかった。結果、あなたは負けてしまったけれど、先ほどの一つ目の理由であなたは更に成長する筈よ」
僕の成長、か……。僕を成長させようなどという思考を持てる人間が傍にいることは、とても心強いことだね。その巡りあわせに、今は感謝しよう。
「勝っても負けても、どちらにせよ情報収集という利益には繋がった、という訳か」
「でもあなたが負ける確率は3%未満だったのよ。まさか本当に殺されちゃうなんてね」
そう言って、いばら姫はくすくす笑う。
「最後の理由は?」
「あなたの二つ目の目的を邪魔しない為の配慮よ」
「……二つ目の目的、君に話したことはあったかな?」
「無いわね。でも、薄々察してはいたわ。昔からね」
「それは、意外だね。君には《思考盗撮》が効かないから、掴みづらい部分が多いな」
「私の心の中もそうだけど、“知らない方が良い情報”も世の中にはある、ということよ。知っているからこそ行動できない、という行動抑止の要素が情報にはある。人間、なんでもかんでも知っていればいい、という訳じゃないの。無知が生み出す利益も、この世には存在する。確証バイアスも結局のところ、“知りたくないことを知らないままでいたい”という人間の無意識の欲望が反映されたものでしょう?」
「言われてみれば、そうだね」
いばら姫は情報収集、分析に特化している異能力者であり、僕の右腕と言って差し支えない存在だ。
普段の会話から、ふと学ばされることも多い。
だがそんな彼女にも、決定的に欠けているものがある。
それが、“決断力”だ。
いばら姫は自分で選択して決断する、ということが苦手な人材。
色々なことを知っていて、計算して、考えることができるが、“それだけ”だ。
思考の果てに答えに優劣をつけ、最善策を見つけ出し、実行することは可能だが、“優等生”の範囲を超えることができない。ある程度彼女の欠落した部分は僕が鍛えたが、僕の想定を超える程の人材まで成長することはなかった。
“優等生”は奇策や不意打ち、邪道、予想外の展開に異常なほど弱い側面がある。普段はその点も含めて思考しているから盤石の態勢ではあるが、それを覆す者はいつ現れても不思議ではない。
別に悪いことではないが、いばら姫はトップに立たせるべき人材ではない。知恵者はナンバーツーで最も実力を発揮する人材。だから僕がいない場合は花子をメインに、いばら姫をサブに置くことを決めておいた。優秀さが王の器にそのまま直結しないのは、今の現代社会や他の国を見れば納得できる筈だ。
決断力が低いのは、色々なものが“見え過ぎる”者によく見られる傾向でもある。オメガにもその傾向はあった。なまじ優秀で選択肢を多く見つけられる分、決めてそれ以外の道を切り捨てることに躊躇する。優秀な者だけが持つ“弱さ”。ジレンマとしか言いようがない。人間を設計した神の性格の悪さには感服を禁じ得ないね。
「知ってしまった情報を知らない状態に戻す。進化する為に退化する。もしかしたら、そういう異能力もあるかもしれないわね……」
いばら姫は不敵な笑みを浮かべ、世間話を続けている。
「そんな力も、もしかしたらあるのかもしれないね」
僕は自分の思考に耽っていて、あまり彼女の話を聞いていなかった。
無難に相槌をし、適当に返す。
だが、この時。
もう少し知恵者である彼女の言葉を真剣に聞いていれば、この先の展開はもう少し違ったものになったかもしれない。
そう僕が思うのは、もう少し後の話だ。