第11話 ⍜②【白雪セリカ視点】
「セリカ」
警戒を促すシスターの声。
「……うん、分かってる」
私はゴクリと喉を鳴らし、ゆっくりと音楽室の扉を開ける。
少し建付けが悪く、変な角度に横へ引っ張ってあげないと素直に扉が開いてくれない。そういえば音楽室の扉はすんなり開かなかったななんて、一瞬だけ思考が日常を生きていた過去の自分と重なり、何とも言えない気持ちになる。
ガラガラガラ、と、鈍い音を立てて扉が開く。
漆黒のジェネシスの渦が威圧するように私の方へ風のように勢いよく吹き抜けて、髪が揺れてうなじをくすぐる。
闇の向こうには、結の後ろ姿があった。
無言で佇むその後ろ姿は幽鬼のように不気味で、夜の静寂のような静かな雰囲気と、それとは対極に、ドス黒く燃え滾るようなジェネシスの黒がどこまでも狂おしい。
「結」
私は、結の名前を呼ぶ。
デルタの憑依能力のことは聞いているけれども、私にとって結は結だ。
「結……っ」
もう一度、名を呼ぶ。
「…………」
結はゆっくりと振り向いて、私を見た。
その目は黒真珠のように深く澄んでいて、魅入られそうになる。
「…………セリカ、か」
結は、応えた。
私の呼びかけに、ちゃんと応えてくれた。
「何をしに来たんだ? いや、聞くまでも無い、か」
私の動揺とは対極に、結は軽い口調で薄く微笑する。
結から溢れているジェネシスが、ジェットブラックに変色している時点で間違いなく異常なのに、その平坦な声が逆に私の平常心を逆撫でする。
「何って……無事を、確かめに……」
そう言って、私は自分の言葉に違和感があった。
結の無事を、確かめに?
いや。違う。
私は、結を……結のことを――――
「本当にそうか?」
私の動揺を見透かしたかのように、結の視線は私を射抜く。
結の微笑には私の浅ましさを嘲笑う小さな愉悦が紛れているような……そんな気さえしてしまうのは、私の被害妄想なのだろうか。
「てっきり黒になった私を、討ちに来たんだと思ったんだがな」
まるで先輩のような男口調で話しながら、結は目を細めて私を見やる。
「そ、それは――――」
「正義のFランクには致命的な弱点がある。相手が悪でなければ、裁けないというところだ。これは司法の世界でも変わらないが、相手が犯罪者であることを立証できなければ裁けない。正義は悪がいなければ成り立たない。悪という存在があって、初めて引き立つ。“依存”しているんだ、最も憎むべき悪という存在に。それが正義だ」
私にとって一番言われたくないことを、結はいつも言ってくる。
私の闇を暴く人は、生まれた時からずっと変わらずただ一人。百鬼結という女だ。快楽で人を壊す《赤い羊》とは異なる、真実で人を壊す女……。
「――――なぁ、セリカ。私はお前にとって“悪”か?」
そう、結は問いかける。
――――悪。
悪ではない。
けれど……憎い。
どうして?
そんなの、決まってる。
私から先輩を奪う可能性がある女がいるとしたら、それは百鬼結ただ一人だからだ。
そう自覚した瞬間、私の全身から力が抜けていく。
「……違う」
違う、違う違う違う。
そんなわけ……無い。
だってそんなこと認めてしまったら、結が悪人だろうとそうでなかろうとどうでもよくて、ただ私は先輩を奪われたくなくて結を殺そうとしていたことになる。
一瞬でもそんなことを考えてしまったことが、あり得ないと思う。
全身に寒気が走り、動揺で鼓動が早くなった自分の胸に手を当てて、結から視線を外さざるを得なかった。
「セリカ。かつての親友だったよしみとして、忠告をしてやる。私は透の部下として多くの人間を殺してきた。悪人かそうでないかでいえば、間違いなく悪にカテゴライズされると自覚している。だが、もし、お前が私を殺すのであれば。お前は正義の為ではなく、“自分の為”に私を殺すことになる。その矛盾に直面した時、お前の心は完全に崩壊する。通常の人間であれば認知的不協和と大義名分を以て自らの悪や自己矛盾を正当化するが、お前は良くも悪くも高潔なFランクだ。正当化も逃避もせず、自分の弱さと向き合うだろう。だから、もし、“自分の為”に他者を殺害した事実が一つでもあれば、お前の心はその事実に耐えられない。そうなればもはや、Fランクのジェネシスすら保てなくなり、自滅する」
「――――」
唇を開いて何か反論しようとするも、何も言葉が出てこない。
否定、しなくちゃ。
否定……しないと、いけないのに。
「私はお前を殺さない。ジェネシスもお前を害す為には、使わない。正当防衛という正当性を絶対に与えたりしない。デルタも私の制御下にある。もしお前が私を殺そうとするのなら、何の抵抗もせずそれを受け入れてやろう。だから、な? セリカ」
そう言って結は微笑む。
その微笑みはどこまでも冷たく、恐ろしく、苦しい。
「――――もしお前が私を殺すのなら、お前が私を殺したいから殺すんだ」