第9話 禁断のタナトス⑤【西園寺要視点】
――――いつかの記憶。
「おかーさん、何の曲を弾いてるの?」
ここはお母さんの部屋だ。
私はピアノを弾いている母に曲名を聞いていた。
どこか舌足らずな声。まだ本当に幼い頃の記憶なのだろう。
「ショパンのノクターンという曲よ」
「それ、なんか眠くなるよ」
「そう? じゃあ子守歌の代わりにしようか」
「それもいいけど、いつかそれの弾き方を教えてね」
「いいわよ。要がもう少し大きくなったら……いつかきっと、ね?」
そう言ってお母さんはやさしく微笑んだ。
――――いつかの記憶。
「な、ん、で……」
お母さんは死んでいた。
首を吊って。
ベランダで、死んでいた。
一瞬、洗濯物と見間違えてしまったけれど、それは確かに変わり果てたお母さんの姿だった。
約束したのに、ショパンのノクターンを教えてくれるって……。
「どうして……」
「要、見てはいけないよ」
お父さんは私の手を強く引っ張って、書斎に連れて行った。
「ここで大人しくしていなさい。いいね?」
「ねえ、なん……で……なん、で……お母さんは……」
「お父さんは忙しいから、また後でな」
そう言ってお父さんはドアを閉めてどこかへ行ってしまった。
――――いつかの記憶。
「要、会わせたい人がいるんだ」
「こんにちは、要ちゃん」
お母さんが死んで三か月後、お父さんが突然知らない女の人を連れてきた。
「色々つらいだろうけど、私を新しいお母さんだと思ってね?」
「…………」
そう言って“新しいお母さん”は私を抱きしめた。
温かくない、こわごわとした、嫌な温度を感じた。
ねえ、お父さん?
お母さん……死んじゃったのに、どうしてすぐに新しいお母さんを連れてきたの? そんな、すぐに、代わっちゃうなんて、それじゃあ、お母さんは一体“何”だったの?
――――いつかの、記憶。
「要、お前に妹か弟ができたぞ」
「要ちゃん、お姉ちゃんになっちゃうわね」
ニコニコと二人は笑顔で私に話しかける。
その笑顔が、どうしようもなく気持ち悪くて、吐きそうで、死にたくなる。
私のお母さんは一人だけだ。
二人目なんて知らない。
私がお姉ちゃん? そんなの知らない。
知らない人が生んだ子が、私の妹か弟になるなんて……分からない。
――――い、つかの、記、憶。
「お姉ちゃん、ニンジン嫌い。食べて?」
「こらアヤメ、ダメでしょ? 好き嫌いしちゃ」
「そうだぞ、アヤメ。お前はこの前も……」
どうでもいい会話。
一家の団欒なのに、どこまでも無機質で、不協和音のような気持ち悪さ。
私をそこに、いれないでほしい。
私はここに、いたくない。
――――い、つ、か、の、き、お、く。
「要ちゃん、ちょっと聞いてほしいの。私、沢山練習したのよ?」
そう言って二人目の母は私の手を引いて、お母さんの部屋へ連れていく。
……嫌な、予感がした。
「この曲、とっても難しくて。でも要ちゃん好きなんでしょう? だから私も頑張って弾けるようになったのよ?」
そう言って女はお母さんのピアノに勝手に触り、勝手に弾き始めた。
「やめ……て、ください」
「え? どうしたの?」
きょとんとした表情で女は首を傾げるが、私は反射的に駆け出して女を突き飛ばしていた。
「それに、触るな! お前が勝手に触っていいものじゃないんだ!」
「な、なによ……人がせっかく気を使って……」
「だ、ま、れ……。お前なん、て……お前なんて……」
お前なんて死ねばいい。
お母さんじゃなくて、お前が死ねばよかったのに。
お前さえいなければ、きっとお母さんは死ななかった。
お前さえ、お前さえいなければ……っ。
ああ、あああ、ああああ、もう、駄目……だ。
疲れ……た……私はもう……駄目だ。
眠ろう……。
そして永遠に目覚めなければいい……。
そうだ、そうしよう……。
(……それじゃあ、コロしましょう)
どこかから聞こえる声。
私と同じ声なのに、私と似ているのに、何故か私を感じない。
(自殺に見せかけてコロしましょう。今は駄目です。時期をずらしてまずは準備をします。筆跡の模倣を習得してこの女の遺書を書きましょう。一年計画ですね)
(いや、いいよ。コロさなくて。どうせ二人目をコロしてもあの男はすぐに“三人目”を連れてくる。無駄なことはしなくていいよ。意味が無いから)
声に声で答えると、僅かな沈黙の後その声は言った。
(分かりました。……まるで、私達みたいですね)
(……ごめんね)
(謝らないでください。あなたはどうするのですか?)
(私は、眠るよ)
(……私に全てを委ねるつもりですか?)
(そういうことに……なるね)
(私は……どうすればいいのでしょうか)
(さっきはああ言ったけど、どうしても殺したくなったら殺してもいいよ。あなたの好きにすればいい。私の意志は酌まなくていいから)
(私は……どうすれば)
もう一人の私は困っている様子だった。
その姿はかつてお母さんを失った私に似ていた。
人には常に帰る場所、生きていく場所がある。
名付けられた名前があり、与えられた役割がある。
けれど、それが“常に無い”人間もいる。
私は全てが常に、あやふやだった。
私という存在そのものも、私が存在する場所も、何もかもが、現実味が無い。
ぼやけている……。
(自由に生きていいよ。それが無理なら、私の真似をして別の人格を複製して、それに引き継いでもいい)
(……分かりました。いつかは、目覚めてくれるのでしょうか?)
(…………さあ、ね)
永遠に目覚めるつもりは無かった。
けれど、何故か私は誤魔化してしまった。
と言っても、思考を共有しているから私の考えは筒抜けだけれども。
(私に、名前をください)
(名前?)
(副人格に名付けられるのは、主人格のあなただけですから……)
(……名づけの権利も委譲するよ。あなたはあなたの名前を自分でつければいい)
(あなたは、自分の名前を自分でつけたわけではないでしょう?)
……何故かもう一人の私は引き下がらず、なおも食い下がってくる。
(デルタ)
(……デルタ、ですか。何故その名前を?)
(ただ単純に、あなたが四番目に生まれたからだよ。二番と三番目は死んじゃったから。今は一番最初の人格と、あなたしかいないし)
(では必然的に、一番目はアルファ、ということですね?)
(そうだね。これから先、新しく生まれた人格の命名は任せるよ。アルファがやってもいいし、デルタがやってもいい)
(そう……ですね)
(あ、あのっ)
私とデルタの間に、もう一人の声が割り込んできた。
(も、もうこれで、お別れなのでしょうか?)
(……うん)
(私は、とってもとっても、死にたいです。死んじゃってもいいでしょうか?)
(全ては二人に任せるよ)
(投げやり、ですね……)
シュンとしたような声。
この子は一番最初の人格、アルファだ。
(この脳のキャパシティでは13番目まで作るのが限界です。13番目まで人格が造られると、脳が壊れ、精神が壊れ、私達も壊れてしまいます。だ、だからっ、12人までしか、作りません……っ。あなたが目覚めるのを、私、ずっと待ってます)
(……)
目覚める気はないのに。そしてそれは思考を共有している二人なら分かっているはずなのに……。
私は、カーテンを閉めるように、あるいは瞼を閉じるように、意識そのものを完全に遮断した。
(眠りに、入っちゃいました……。この身体も、もう間もなく、眠りに入りますね)
(……そうですね)
(デルタさんは、これからどうしますか?)
(まずは“私”のダミー人格を作りますよ。二人ほどね)
(……それは、“共用”の、ということです? それとも……)
(私“専用”です。まあ、“共用”も作ることになりますけど)
(なるほど……。私もまずは三人作ります。専用共用ダミーではなく、上位人格として。1,2,3,4、5……足りそうですね。暫くは、これでいきますか)
(アルファはどんな人格を作るのですか?)
(墓守と、母と、主人格のコピーを)
(……墓守と母、主人格のコピー……ですか?)
(主人格を守る騎士のような存在と、私達が求めている母としての象徴の人格を作ります。性格まではこの時点では分かりませんから、ある程度成長したら私が名付けます。主人格のコピーは、限りなく主人格に近い性格の人格を模倣して作ります。名前はメアリーにします)
(……なるほど)
(デルタさんは?)
(私は、どうしてもあの女を殺したいんです。でも主人格はそうではないようでした。だから私は直接あの女を殺せない。だから“私の代わり”に殺せる人格を作ります。それでも心もとないから、予備としてもう一つ用意します)
(……怒っているんですね、デルタさんは)
(たとえ三人目の母親が現れようがそんなことはどうでもいいんです。あのピアノであの曲を弾いたあの女だけは絶対に許さない)
(分かりました。刑務所は嫌なので、完全犯罪でお願いします……)
(……分かってますよ)
(でも、二人のダミー人格の名づけはどうするのでしょうか。もう決まっていますか?)
(名付けません。一人は自分がデルタだと思い込ませ、もう一人は常に半分眠ってもらいます。私の殺意だけを引き継いでもらってね……。万が一ダミーデルタが崩壊したら、予備として起きてもらいます。まぁ、そんなことは起こりえないでしょうけれど)
(なるほど……。了解です、表は私の方で、裏はあなたの方で管理しましょう。……でも、どうせいつか死んじゃうから、私たちの管理に意味なんてないですけどねっ)
軽やかに、それでいてどこか自虐的にアルファはそう締めくくった。