第9話 禁断のタナトス④【百鬼結視点】
――――いつかの記憶。
綺麗な、満月の夜。
「かh、あっ……」
首筋にえぐりこむロープの感触と、酸欠で脳が一瞬で枯渇するような死の感覚。
まだ小さな頃、兄さんと遊んだ公園の木にロープを吊るし私は死のうとしていた。
ああ、そうだ。
思い出した。
そうだ、私は死のうとしたのだ。
いや、現在進行形で死んでいる。
死んで、あの人の記憶の中で永遠になるために。
どうせ生きていても、セリカに奪われて私は一人老いて死ぬだけの人生だ。
そんなくだらない生を歩むぐらいなら、ここで死んだ方がいい。
美しくなくていい。
できるだけ、醜い死に方がいい。
苦悶の表情で糞尿とよだれを垂れ流して舌をよじれさせて死ぬのだ。
セリカを苦しませるために。あの人に思い出してもらう為に。
それがいい。
その方が、きっと美しい。
ああ、あああ、ああああ、苦しい。
苦しい苦しい苦し――――死ねる。
ああ、あああ、ああああ、愛し、て――――る。
「キルキルキルル」
「っあ、あああ、はっ、ああああッッッ……」
突然の自由と解放される呼吸。
両ひざから勢いよく地面に叩きつけられたのに、痛みを感じる暇もない。
私は狂ったように息をしながら、ロープが切れたことを初めて知った。
「はっ、はぁっ、はぁぁ――――っ」
「やあ。良い月だね。狂おしいほどの満月だ」
貴公子のような、あどけない少年のような、それでいて高潔さすら感じさせる青年は、フッと優し気に微笑んで私を見つめた。
「――――っ、――――っ、――――っ」
呼吸が戻らない。私は肩で息をしながら、男を見た。
男の頭上には、確かに美しい満月が夜空に浮かび世界を照らしていた。
痛みで涙が溢れ、ぼんやりとしかその景色は分からないけれど。
「まだ中学生くらいかな? 無限の可能性を持つその若さで、一体何をそんなに絶望しているんだい?」
「――――っ、――――っ」
く、首が、動かない。どうやら折れているらしい。
首つり自殺には失敗したが、首が折れていればこのまま死ねるだろうか。
「あー、このまま放置すれば君は死んでしまうのか。それは少し残念だな」
男の手には黒い剣が握られていた。
いや、よく見ると、身体中が黒いオーラのようなものに包まれていた。
人の形をしているのに人ではない……妖の類なのかとすら思うほど、その男は人間を感じさせない不思議な雰囲気を纏っていた。
「一番最初にSSSとして育てようと思う人間を捜して散歩をしていたが、もしかしたら君なのかもしれないね。なんとなくイメージとは少し違うが、それでも君には何かを感じる……。それが何なのかは分からないけれど、それは君を育てることができれば、分かるのだろう……。うん、好きな言葉ではないけど、これは運命かもしれない」
男は微笑みながら私の頭の上に手を乗せた。
《狂人育成》――キョウジンイクセイ――
「あ、あああ、あああああッッ!」
身体中の中を何かが駆け巡り、私は震えた。
そして、みるみるうちに首の痛みと酸欠の苦しみが消え、私の身体から藍色のオーラが溢れ出しているのを感じた。身体が、再生している……。
「君に力を与えよう。その力で何を為すのかは君次第だ。僕は可能性しか与えない。自らの可能性を実現できる人間は、残念ながら自己しかいないからだ。僕は昔の僕を覚えていないけれど、君の苦しみを見て懐かしさのようなものを感じたんだ」
「……力、ですか」
「そう。力だね」
私が初めて言葉を発すると、男は嬉しそうに笑った。
力……。
その言葉を聞いて、私は自らの胸の中に眠る何かが蠢くのを悟った。
《自我崩壊》――ジガホウカイ――
《堕落遊戯》――ダラクユウギ――
私は自らの中に、二つの特別な力があるのを感じた。
そして、その力が持つ意味も瞬時に理解した。
私は……どんな人間も人格そのものを……精神のみをイドの領域まで完全に破壊することができる。催眠状態で言うことを聞かせて精神を支配することも……できる。
力を発動せずとも、分かる。
これが、この男の言っていた力……。
「これは……素晴らしい異能力の数々だ。見込み以上だ。モルモット達とは異能力の次元が違い過ぎるな。……期待できる。でも色はインディゴか……。育てがいがありそうだね」
男は意味深に微笑むが、私は不思議でたまらなかった。
「あなたは……何者なんですか。どうして、私を……助けたんですか? 私を利用して、何かをしたいんですか?」
自殺に失敗した絶望を瞬時に上書きするような、奇妙な高揚感に戸惑いながらも、私は男の言動、行動がどうしても不可解で仕方なかった。
「その問いに答えるのは簡単だけど、一言で説明しても、きっと君は納得しないだろうね」
男はつまらなそうに言った後、悪戯っぽく微笑んだ。
「君は、自分以外の全てが“間違っている”と感じたことはあるかい?」
「自分以外の……全て?」
「掛け間違ったボタン、欠けた茶碗、足りないジクソーパズル、音程の外れたオルゴール、欠損した死体、まぁなんでもいいんだが、間違っているものはとても気持ちが悪い。僕の目に映る世界は、そんなものばかりで溢れている。だから治したいと、つい、僕はそう思ってしまうんだ」
「治す……ですか?」
「僕はね、人間を治療したいんだよ。生きとし生ける全ての人間をね。間違っている状態から、正しい状態に。あるべき正しい姿に、形に。歪んでしまった人間という悲しい生き物を、この手で元に戻してあげたいんだ。可哀想だろう? チグハグのままだなんて、あんまりだからね」
「……それと、私を助けたことと何か関係あるんですか?」
「君は正しいよ。人間とは本質的に悪であり、その方が正しいんだ。でも君は、それが耐えられないから、自ら死のうとしたんだろう?」
「…………」
問われて、私は……否定も肯定もできない。
愛する人をただ見ていることしかできない苦しみ。
奪われていく苦しみ。
嫉妬し、自分がいつの間にかセリカの不幸を祈るようになっている醜さ。
闇。
私は、逃げたかった。
自分の……闇から。
死ねば……終われるから。
いろんな理由があるけれど、究極的に私が死にたい理由は一つしかない。
自分の闇から逃げたい。
ただ、それだけ。
「でも、それは、何故だい? その闇は本当に間違っていると言えるのかな?」
男は私の心を手のひらで掬うようにして、安心させるように微笑んだ。
「認めようよ、自分の悪を。そうすれば救われる。誰が君を救わなくとも、君自身が君を救うことができる」
「…………悪を、闇を、受け入れていいんですか?」
そんなことを言われたのは初めてのことで、私は困惑した。
「ま、そうは言ったところで、最終的にそれを決めるのは君自身だ。だがもし君がそれを望むのであれば、連れて行ってあげよう。僕の、僕だけの、間違っていない世界へと……ね」
そう言って、男は手を差し伸べてきた。
恐らくこの男を見た人間はきっと、この男を悪魔と呼ぶのだろう。
言っていることは全て間違っているのに、何故か正しいと思える。
「私は、百鬼結です。あなたは?」
だというのに。私は何かに導かれるようにして、自らその手を取っていた。
自分を救ってくれる存在が、たとえ悪魔のような人間だったのだとしても……それでも縋らずにはいられなかった。
自分の人生に希望を与えてくれる存在が、必ずしも善とは限らないのだということを、私はこの時初めて知ったのだ。
「僕は透。そして君は今日からオメガだ。終わらせようじゃないか。この間違った世界を……。共に、ね」
私が自殺に失敗した日。
私は透の手を取り、闇夜の中に消えていった。
話のテンポは少し悪くなりますが、ここを通過しないと次に進めないので、頑張ります(._.)