第8話 THE FOOL ⑤【ヒコ助視点】
「げほっ、かはっ……」
息が、できねえ……。意識がもうろうとなりそうな中、強い既視感とともに僅かな過去が頭を駆け巡っていく。
「……色々、試したいことがあるんだ」
四つん這いに這いつくばる俺を穏やかな笑顔で見守りながら、透さんはそう言った。
数年放置され心霊スポット化している廃ホテルのボーリングセンターで毎週木曜日の夜に落ち合うのが、俺と透さんの約束だった。
「げほっ、かはっ……」
透さんの《無限臨死》の溺死体験を食らい、俺は死を体験しながらも現実へと意識が戻り、必死に息を吸い込んだ。
「……試したいこと、というのは?」
俺から溢れ出すのは、グリーンジェネシス。Dランク。《愚者の領域》のゴミみたいな価値のジェネシスらしい。
「君という存在に対して試したい。本来、Dランクのグリーンジェネシスなんてものを纏う人間なんてものは、一度目の《無限臨死》で死ぬんだ。だが君は1000回目を耐えた。その強靭なメンタルの正体を見極めたいというのが、今の僕の欲求だが……」
紙パックのアイスココアをストローで吸いながら透さんは黙考している。
「生存本能……とでも言えばいいのか。だがその言葉だけで完結させるにはあまりにも安っぽい。ねえ、ヒコ助。初めて僕と出会ったとき。君はどうして僕についてきたいと思った?」
「強くなれると……言われたからっすね。俺に価値を見出した人は、この世でアンタだけだった。俺は頭が悪いし、仕事も長く続かない無能だ。唯一才能があったボクシングも、相手選手を勢い余って殺したせいでジムから追放された。ホームレスみたいに行く当てもなかった俺を、アンタが拾ってくれた」
「君を認めてくれる人は、人生で一人もいなかったのかい?」
「親も、教師も、クラスメートも、同僚も、誰も俺を認めてなどくれなかった。俺のことを皆馬鹿だと、蔑んでいた」
だから、全員この拳で黙らせた。
暴力はシンプルでいい。どんな正しさも、暴力の前にはただのガラクタになる。
勉強ができる、仕事ができる、顔がいい、コミュニケーション力が高い、そういう偉そうに生きてるヤツらも、一発ぶん殴ればすぐに土下座して懇願してくる。
「僕も君から見れば“偉そうに生きてる”人間だと思うんだが、どうして僕には敵意を向けてこない?」
俺の考えを《主観盗撮》とやらで見透かしている透さんは、首を傾げる。
「“俺より強い”からだ。強いヤツの方が正しい。だから従っている」
「……クク、アハッ、ハハハハハハハハハハハッッ!」
透さんは一瞬目を丸くした後、噴き出すように楽しそうに笑う。
「何かおかしかったっすか?」
「いや、ごめん。気を悪くしたなら謝る。ただ、あまりにもおかしくて」
「……?」
「僕は思い違いをしていた。そのことに君に気付かされた。自分の愚かさに気付いたんだ。SSS、《真理の破壊を齎す者》に到達する為の条件は今まで“賢さ”や“聡さ”だと僕は思っていた。だが、“真逆”だったんだね……。この事実は僕の認識としてのジェネシスの根幹を揺るがしかねない事実だ。だが、納得した。だから僕はオメガに惹かれたんだね……。誰かたった一人を愛するという愚かさに」
「愚かさ? アンタでも間違えることがあんのか?」
「僕も生物というカテゴリーで言えば“人間”だからね。確証バイアスからは逃れられない。だからこうして、《赤い羊》を作ることによって、君たちの考え方をトレースしたいと思っているんだよ。自己の愚かさは他者を見ることでしか気付けないからね。だが、ただの他者ではダメだ。牛や猿を見ても自分の思考を修正しようとは思わないからね。多少僕に近づいてもらわないと駄目なんだ」
「確証バイアス? トレース?」
「簡単に言うと、確証バイアスは思い込み。トレースは書きなぞるとかそんな意味だよ」
「はぁ……」
よく分かんねえが、透さんの言うことなんて十分の一も理解できないのはいつものことだ。
「ヒコ助、僕は君にとても期待しているよ」
「期待……っすか?」
そんな言葉、生まれてはじめて言われた。
なんだ、この、高揚……。
胸の内側から湧き出すこの感じ……。
これが、この感情が、喜び、なのか?
他者に、認められ、期待される、喜び……?
「透さんは、何故俺を……俺に期待するんですか?」
「それは君が“悪”だからだよ」
「俺が……悪?」
「僕はSSS、もしくはSSになる才能がありそうな人間を毎日探していてね。《主観盗撮》は一人に対してにも有効だが、対象範囲、規模を広げられるんだ。複数の人間に対して有効ということだね。その日はたまたま君のボクシングの試合の日で、君の主観も僕の意識に入ってきたよ。数万人の意識を同時に観測していた僕は、その中でたった一人、君に興味を持った」
「俺に……」
「君が初めて人を殺す瞬間の主観を見た。素晴らしかったね、あの時の君は」
「……っ」
思い出して、ゾクゾクしてくる。
全身の身体が、血が、肉が、震えそうになる。
拳で相手の命を貫通したあの感触。
女の身体にすら欲情を覚えたことが無かったのに、俺はあの時、初めて、絶頂と言うものを知った。
「フフ、ククク……」
透さんは微笑っている。それは天使のように無邪気で、それは悪魔のように妖艶。
「あ、れ……?」
俺のジェネシスはグリーンから、パープルへと変色していた。
「なん、だ、この……無限に湧いてくる……この力は」
ジェネシスを“熱く”感じる。さっきまで温度なんて感じなかったのにな。
「おめでとう。DランクでもSSになれたパターンは君が初めてだ。そして、今日から君も仲間入りだ。正式に《赤い羊》として歓迎しよう」
パチパチと拍手をしながら、透さんは我が子の成長を見守るかのように、優しく微笑む。
「アチィ……な」
バリバリバリ、と異音を立てながら俺の身体から無限にパープルジェネシスがあふれ出してくる。
「ジェネシスは強く欲情すればするほど“熱く”なるんだよ。異能力で炎を出す場合もあるが、ジェネシスそのものすら武器になり得る。その辺の人間ならジェネシスだけで焼き殺せる。実際、実験したこともあるしね。まぁ僕は殺人行為に欲情は感じないから、あの実験はリリーにやってもらったんだけどね」
「……殺してぇな」
誰でもいいから殺してぇと思う。
肉を、骨を、血を、細胞を、命を、精神を、魂を、この拳でぶっ壊したい。
そうすれば、キモチヨクなれる! サイッコーに! ぶっ飛べる!
「俺を馬鹿にしてきたヤツらも……全員、皆殺しにして、やるっ!」
「フフ、それは後で好きなだけやらせてあげるよ。だが今は講義の時間だ」
透さんは掌を俺に翳す。
《聖者抹殺》――セイジャマッサツ――
「なっ、んだ、これは――――っ」
透さんから溢れ出すジェットブラックジェネシスが、黒い十字架となり、俺の全身を磔にする。両の掌に黒い杭。動けないっ!
「まぁ落ち着きなよ。SSになれたとは言え、街中で暴れられると公的機関が動いて面倒だ。ジェノサイダーは通常の人間には殺せないとはいえ、眠らされたりコンクリ詰めにされたりしたら無力化されてしまうからね。今のテンションの高い君を放置する訳にはいかないんだ。ごめんね」
申し訳なさそうに透さんは言うが、能力を解除する気配はない。
「ヒコ助、君の自分の学の無さ、頭の悪さへのコンプレックスはすさまじいものだね。君にコンプレックスを与える全ての存在を殺したいんだね。君の力の源は劣等感だ。だが、恥じることは無い。愚かさというのは全てバイアスだからだ」
「……俺にも分かるように言ってくれ」
早くこの力を試したいのに、不満だが透さんがそういうのなら仕方ない。今は潔く諦める。
「そうだな……たとえ話をしよう。小学校がいいかな。足が速い子、勉強ができる子、話が面白い子、この三つに分類するとする。クラスに何人かは必ずいただろう?」
「……まぁ、確かに。で、その話がなんなんすか?」
「そして逆に、足が遅い子、勉強ができない子、話がつまらない子、彼らもまた等しく存在した筈だ」
「……俺は勉強ができないヤツだな」
「そして、決まって“できない子”は差別され、軽蔑され、排除される傾向にある。勉強ができなくても足が速かったり、話がつまらなくても勉強ができたりすると、そうでもなかったりするけどね」
「……」
嫌なことを思い出させる。
「じゃあ、例えばだ。足が速い子、勉強ができる子、話が面白い子だけを一か所のクラスに集めたらどうなると思う?」
「……想像もつかないっすけど」
「同じ現象が起きる」
「同じ……現象?」
「簡単に言えば、勉強ができる子だけを集めてもその中で必ずビリはいるし、足が速い子、話が面白い子もそうだ。集団とは得意分野が異なっている人間が混じっているから分かりづらいが、得意分野が同じ人間だけを抽出するとその中で序列を決めたがるんだよ。人間とはそういう風にできている。劣っている人間を選定して決めるんだ。優劣とは常に絶対的ではなく相対的なのさ。その集団によって変化する」
「……結論として、何が言いたいんすか?」
「結論か。愚かさとは何も君のような人間に対してだけ言えることではなく、愚かさの定義をその場しのぎで決めてしまう人間という生き物そのものにあるということだね。だから恥じることは無い。愚かなのは人間なのであって、君ではない。そして君の愚かさは武器だ。僕が保証しよう」
「……」
透さんはマジで何言ってるか分からないが、俺を認めてくれたということだけは分かる。
「先ほどの質問に答えの続きだ。君に期待する理由はたった一つ。他の《赤い羊》と君が違う部分。“愚かさ”について。通常、愚かさにはデメリットしかない。だが、愚かさにはもう一つの“可能性”がある」
「可能性?」
「オメガは失敗したが、花子と君はSSSに到達する可能性があることに気付いた。真理に到達する為には、どうしても愚かさが必要なんだ。だが愚かな人間というものはどうしても利用されやすかったり、リスクに直面した時に回避できず死にやすい。だから、その保険として《無限臨死》を何度も体験することによって、君たち《赤い羊》は死の痛みと恐怖を克服できる。だから、君に死を感じさせる存在に出会ったとしてもその時は――――」
《異能粉砕》――イノウフンサイ――
意識は現在へと引き戻される。
俺は自分の顔と拳が埋まっている赤い塊に対して、異能を展開する。
触れた異能を破壊する異能力。
凝血していた血液は液体へと変わり、俺はバックステップでマゼンタ女から全力で距離を取る。
「ぺっ……」
口の中に入っていた血を吐き出し、鼻の中の血も吹き出す。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ついでに息も整える。
死ぬかと、マジで思ったぜ……。
透さんの講義を思い出していなければ、パニックになって死んでたかもしれねえ。
マゼンタ女は驚いたように俺を凝視した後、「キルキルキルルッッ!」右手で剣を構えながら間髪入れずに俺の間合いに飛び込んできた。だが、それは愚策だ。もう俺は油断しない。視界と呼吸を奪われても拳を振るってお前を殺す!
――――必ず君は勝つ。愚者は賢者と手を組んだ時のみ、無敗だからだ。
透さんの言葉の続きを思い出しながら、俺はマゼンタ女を殺すべく全てのジェネシスを右拳一点に集中させ、叫んだ。
「死ねぇぇぇえええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」