幕間 退屈という病②【赤染アンリ視点】
「…………」
彼らを見ているだけで、私の中にある何かが少しずつ崩れていくのを感じる。その何かはきっと倫理観だとか、道徳だとか、そういうものなのだろうけど、それが崩れていくことが“怖い”と初めて思った。
不思議だ……。人を殺すことは何とも思わないのに、そんな怖さだけは私の中にある。
「そっちもごはん食べてる」
上空から男の声。
紫色の翼を生やした白衣の男が、ゆっくりとプールの中に降りてくる。男は誰かの右腕を持っていた。断面から骨が覗き、血があふれ出し、白衣を赤く濡らしていく。
「ヒキガエル、ここには生首しかないわよ」
花子がヒキガエルと呼んだ男は、ぼんやりと生首の数々を見下ろす。
「大丈夫、体育館で大分食べてきたから。生きながらもアリだけど、死にたてもいいね。肉が新鮮で、血が瑞々しい」
血まみれの白衣の男は、パープルジェネシスを身に纏っていた。
「そういえば、透さんは?」
「“視”てるよ。透さんの欲求の本質はなんだかんだ言って観測だからね。“見てみたい”っていう観測的欲求。ま、どこにいるかは知らないけど」
リリーがにこやかに答える。
「ふーん。今回は随分大規模なことやってるけど、なんか意味あるの?」
「アンタ、ここに来る前のミーティングで、透の話聞いてた?」
花子が睨みつけると、ヒキガエルは花子からそっと目を逸らした。
「あんまし。ま、いーや、美味い肉が食えればそれで」
腕の肉をかみ砕き、ヒキガエルは無邪気に微笑む。
「筋肉は独特の弾力があっていい。足のもも肉もいいけど、こっちも癖になる」
「……」
この男……変だ。食人鬼という意味で思ったのではない。
隙だらけなのに、まるで殺せる気がしない。
リリーはニコニコ笑っているが、常に私へ注意を払っている。私が少しでも殺気を放てば殺される。それが分かる。こいつの異能は《発狂密室》以外見たことがないけど、他の異能は使われた瞬間に全てが終わる。そんな嫌な予感がする。
花子にもまるで隙が無い。これは理屈ではなく本能で思ったけど、花子には“間合い”がある。花子の“間合い”に入れば即死。死んだことすら気付かずに死んでいる……そんな強い予感がある。本能で、花子に近づきたくないと思う。それはこの女に、間合いがあるからだろう……。
だが、ヒキガエルには“何も”ない。
警戒心も無いし、間合いもない。
隙だらけだ。なのに、殺せる気がしない。……何故? 分からない。
なんて……不可解……。短い観察ではあるけど、《赤い羊》の中でも、この男は異物だと直感的に思う。
「赤染ちゃん、そんな熱烈な視線で私達を見たらメッ、だぞ?」
リリーが意味深な微笑を浮かべ、私を指さしてくる。
「……え?」
「殺せるか殺せないかっていう目でこっち見てたでしょ?」
「いえ、そんなことは」
言われて、初めて気付く。
無意識に、私は殺せるか殺せないかという基準で彼らを見ていた。
「誤魔化しても同類にはバレバレだよ? ま、別にいいけどね。今の君に私達は殺せないから」
リリーの全てを見抜くような嫌な目から、そっと視線を外す。
「……」
「……」
すると、今度はヒキガエルと目が合う。無邪気で純粋な瞳の中で蠢く、枯渇の狂気。
目が合ったのはほんの2秒程度。だが、充分だった。
充分……自分が弱者であることを自覚できた。
殺意も殺気も無いのに、目が合っただけで自分の存在が消し飛ぶような精神的圧力。
ヒキガエルが私を殺そうと決めれば、なすすべなく私は食われて死ぬだろう。
「……っ」
言葉にしがたい、鮮烈な感情が体の中を突き抜ける。耐え難い屈辱だった。
死にたくないという生存本能と、殺したいという殺人欲求と、殺されるかもしれないという恐怖と、負けるしかない屈辱感の全てが入り混じり、震える。
こんな、形容しがたい感情の渦、意味の分からないカオスと激情が、私の中に眠っていたなんて……ね。
「フフ、君、やっぱり”こっち側”の才能あるよ。SS候補だねぇ。透さんに牙をむいたのは今でも許してないけど、同類のよしみとして一つ愉しみを君に与えてあげる」
リリーは食べ終わった弁当箱を蹴っ飛ばし、死んだ生徒のものと思われる水筒でゴクゴクと喉を潤して、唇を歪めて微笑う。
「愉しみ……とは?」
「それは後で、ね。まずはこの質問で、君に“資格”があるかどうかは先輩として試させてもらうよ」
リリーは意味深に微笑する。
「――――ねえ、赤染ちゃん。君は、悪の本質とは何だと思う?」