第7話 狂女と聖女 ~revenge~ ⑫【白雪セリカ視点】
「…………おえっ、おええっ」
膝から崩れ落ちる。とてつもない吐き気に襲われ、そのまま吐く。
リリーを斬る瞬間の“手ごたえ”が、今でも頭から離れない。
「気持ち……わるい……」
眼下の死体を見下ろす。右手を必死に私へ伸ばし、縋るような表情のままのリリーの死に顔は、見ていられない。私はポケットからハンカチを取り出すと、リリーの死に顔の上に放り投げ、顔を見えないようにした。
――――それは、偽善?
「ハハッ」
思わず笑う。
“善”だの“正義”だの、死ぬほどどうでもいい。
馬鹿な言葉だ。こんな“くだらない言葉”を考えたり、臆面もなく語れる人間を今なら本気で呪えると思う。“当事者意識”が無い安全圏にいる人間からしか出てこない言葉だ。本当に本当に気持ち悪い。心底、軽蔑する……。
――――地獄で、あるいは死地で語ってみろ、その言葉を。
一方的に殺すことはできないけど、対等に殺し合うことはできる?
過去の自分はなんて愚かなことを言っていたんだろう。今のこの光景を見れば、目が覚めるだろう。
一方的に殺そうが対等に殺し合おうが、変わらない。そこに残るのは死体だけだ。
「……ジェネシス、あなたにとっての正義って何?」
答えは返ってこないと知りつつ、問わずにはいられない。リリーをこの手で、自分の意志で、悪を以て殺したというのに、ランクが変動する気配がない。
「……透、か」
リリーが事切れる寸前の、最期の言葉。かろうじて聞き取れたのは、透の名前。リリーは私に対してはいつでも本音を隠していた。でも、最期の死の際の切実な呼びかけは、本物だったと思う。
じっと、ハンカチで顔が隠れたリリーの亡骸を座ったまま、見据える。
「私とリリーの違いって、何なんだろう……」
両手を見る。返り血でべっとりと汚れている。
私は先輩が好きだ。でも悪だ。
リリーは透が好きだ。そして悪だ。
「愛って……善悪を超越してるんだね……」
善でも悪でもない感情。それが……愛、なんだね……。
「私には愛が無いなんて、最後まで嘘つきだね……あなたは」
快楽殺人鬼になってまで透のことが好きだったんだね、リリー……。
「どうしてかな。あなたのこと心底嫌いだったのに、殺した後だけは嫌いになれない……」
涙すら流れてくる。何の涙なのかすら分からない。悲しみなのか苦しみなのか虚しさなのか、この感情に名前を付けることができない。でも、感傷に浸っている時間は無い。二人を、助けに行かないと……。
リリーが死んだと同時に、虫の軍勢も消滅した。私はゆっくりと立ち上がり、ゆらゆらとリリーの亡骸を跨いで、結とアンリのもとへ向か――――
「あ、れ――――?」
グラリと、視界が揺れる。
意識を保てないほどの強烈な眠気に、歩けなくなり、そのまま倒れる。
視界が暗転し、漆黒の闇だけが視界にじんわりと広がる。
「――――限界だね、セリカ」
闇の中、私を見下ろすのは漆黒の翼を生やした小さな私だ。相変わらずクスクスと楽しそうに笑っている。
「ゆっくりと眠りなよ?」
「今眠ったら、二人が……」
「とはいっても、もう限界でしょ? 言い忘れていたけど、“ジェネシスが枯渇した時”も私の声は聞こえるようになるんだ。凄いね、セリカは。リリーを殺した直後なのに絶望してない。絶望せずに私と対話してる。普通の精神力じゃ頭と精神がぶっ壊れて発狂してるのにね。凄い凄い」
「《聖女抱擁》で回復すれば……」
「減ったジェネシスを元の量に回復させる機能は《聖女抱擁》にはないよ。減ったのではなく完全に無くなれば別だけどね。だから今のあなたは眠ることでしか回復しないんだよ?」
「……助けて、くれない? あの時みたいに」
「勘違いしないでほしいんだけど、私はあなたを助けるために生まれたわけじゃないんだよ? ヒントをあげたりすることはあっても、直接助けたりはしないよ?」
「あなたは……“何”なの?」
「それは前にも言った通り、あなたの絶望という感情だけに対して、メアリーによって命を吹き込まれ、あなたの二つ目の人格になった存在。それだけだよ?」
「あなたは……私のフリをして……嘘をついているけど本当は、“ジェネシスそのもの”なんじゃないの……?」
「なるほどね、確かにその可能性はあるかも。凄い発想。セリカってやっぱり私なんだね」
「……認めるの?」
「だって私自身、自分のことがよく分かってないんだもん。ならセリカに訊くけど、どうして自分がこの世に生まれてきたのか、何故自分は自分なのか、“証明”ってできるの?」
「そんなことできるわけ……ないよ」
「でしょう? 名前やら精神やら価値観なんて、全部が“後付け”だよ。後付けじゃないのは魂だけ。逆の立場になって考えてよ、もしセリカの方が私だったら、自分で自分のこと証明しようなんて思うこと“すら”無いでしょう?」
「…………」
「教育を受けたから言語が話せるし思考できる。私が言ってる教育っていうのは、義務教育のことじゃないよ? 言葉が話せる人間によって育てられたかどうかだから。人間なんて、教育さえ受けられなければ獣と本質は変わらないんだよ? 当たり前のことだけど」
クスクス、と私は笑う。
「言語も思考も操れない自分を想像すれば、生命の本質に近い部分を少しだけ感じることができるよ」
「……助けては、くれないんだね?」
「私は、あなたの絶望だもん」
「……でも、《起死回生》はあなたがヒントをくれなければ使えなかった。あなたは私に希望をくれた」
「ごめんね、セリカ。誤解させちゃったみたい。遅いか早いか、ただそれだけだよ」
「……遅いか、早いか?」
「希望の先にあるのは必ず絶望なの。この因果からは絶対に逃れられない。闇と光が実は繋がっていることにも、もう気付いてるんでしょう?」
「…………」
「生の先が必ず死であるように、希望の先は必ず絶望。だからヒントぐらいはあげる。どうせその先にあるのも、絶望なんだから」
「どうせ絶望しかないなら、私を助けてよ」
そう頼むと、小さな私は困ったように微笑うのみ。
「…………」
「やっぱり、あなたは私なんだね」
今のやり取りで、確信した。
確かにこの子は……私の一部だ。ネガティブな私そのものと言ってもいい。
でも、それだけじゃない。私と“感覚”は同じなんだ。
「あなたは私を助けることができる。だからこそ助けられない。ヒントしかあげられない。つまり、本当は助けようと思えば助けられるのに、それができないから、ヒントを与えるという手段に訴えてる。本当は……絶望に抗いたいのはあなたもなんじゃないの? だってあなたは、私なんだから」
「……凄いね、キレッキレだね。今のだんまりでそこまで一瞬でバレちゃうんだ」
「あなたの本質はメアリーと私をかけ合わせたものなのかもしれないね……」
「フフ、アハハ……。凄いね、セリカ。私、あなたでよかった……」
小さな私は嬉しそうに笑う。
「私はあなたの絶望なのかもしれないけど、私に諦めてほしくないとも思ってる。違う?」
「…………完敗だよ、セリカ。それを踏まえたうえで、私はあなたにはヒントしかあげられない。本来、私がこの身体を使うとしたら、あなたが全てを諦めた時だけ。これはメアリーが私に課した“縛り”でもあるし、その“交代”は自殺を意味する。でも、一つだけ例外もあるの」
「例……外?」
「もし、直接私に助けてほしいなら……ジェネシスを完全に失えばいい。そうすれば絶望することなく私を“出す”ことができる」
「ジェネシスを……完全に?」
「ヒントはおしまい。でも記憶の片隅に覚えておいて。SSSは全員が化け物。私も含めてね。Fのままで勝てないなら、SSSで勝つしかない場面ももしかしたらあるかもしれない。その時は今の私の言葉を思い出してね」
「……ありがとう、小さな私」
「アンリと結なら大丈夫だよ。あの二人は“強い”から。セリカとは全然違う方向性で、だけど」
「……そっか、そうだよね」
小さな私に励まされて、急に疲れが押し寄せてくる。
あの二人なら……任せても……大丈夫……かな。
「あなたが眠った後は、この身体は完全に睡眠状態に入る。本来なら無防備な状態は死を意味するけど、《気配察知》は自動でも発動する異能力だし、仮眠から目を覚ますことができる。僅かな睡眠時間でも、今のセリカならEからSまでなら造作もなく殺せるから安心して。まだセリカにはジェネシスが少しだけ残ってるから、私は出られないけど」
「う……ん……」
駄目だ、眠い。小さな私が言っていることが頭に入ってこない。
「おやすみ、セリカ。今は、今だけはただ安らかに、おやすみ」
「…………」
人を、殺しても、睡眠欲は消えない。
人間って、動物だな……。
そんなことを思った瞬間、完全に意識が途切れ私の意識は淡い闇の中へ溶けていった。