第7話 狂女と聖女 ~revenge~ ⑪【月下百合亜視点】
一瞬の出来事だった。
肩から腰にかけて、けさ斬りにされた。冷たい刃が体の中を突き抜けていき、視界がグラリと揺れ、床に頬が勢いよく当たる。
あの、虫すら殺せないようなショボい女に、斬られた……? この私が……?
「ぁ、ぁあ……」
言葉すらまともに出ない。状況の理解すら追いつかない。
かろうじて顔を上にあげると、そこには“透さん”がいた。
「ぉる……さん」
手を伸ばす。手を、伸ばし、て、ゆっくりと景色がかすんでいく。
死、死……?
これが、死……?
必死に目を開けようとするも、怒涛のように過去の記憶が流れ込んでくる。これ、は、走馬灯……。
♦♦♦
「おえ、おえぇぇ……」
仕事終わりの深夜、都内。路地裏で、私は吐いていた。
酒を飲み過ぎて、気持ち悪い……。
効率よく稼げる仕事としてキャバクラのバイトを始めて半年経つ。私は下戸ではないけど、そんなにお酒に強くない。慣れればなんとかなると楽観的に始めたが、吐かない日はない。
ピロン、ピロン、ピロン、と仕事用の携帯の通知音が鳴る。譲にもよるが、私は携帯を仕事用とプライベート用とで絶対に分ける主義。今鳴ったのは、仕事用の方だ。客から、『今日も楽しかった』だの『可愛かった』だのくだらない内容のメッセージばかりだろう。見なくても分かる。毎日毎日、油ギトギトの発情したオヤジどもから求愛を受けるのは反吐が出る。
「あ~~ウゼェェ……キモい……発情した雄猿ども……おえ」
頭がガンガンする。とりあえず自動販売機で水でも買おう。そう思い路地裏を出ると――――
「――――っ」
死体、があった。
さっきまではなかった。
死体は中年の男。高そうだが使い古されたグレースーツで、銀縁の眼鏡をかけている。それが舌をよじれるように伸ばし、眼球が飛び出し、尿を滴らしながら倒れていた。
「……な、に?」
酔って幻覚を見ているのだろうか?
「……ふむ。オメガに続き《無限臨死》に耐えうる素材はやはりいないか。“これ”も失敗。ゴミのような人間ばかりだ」
少年のような無邪気さと、神のような恐ろしさの両方を併せ持つ男が、死体のすぐ傍に立ち、何かを呟いていた。
思わず。そう思わず。身体が勝手に動き、私は携帯の動画モードで死体を撮影していた。死体のこと、酔っていること、目の前の不思議な男のこと、全ての思考を置き去りにして行動した選択は“撮影”だった。
「……へぇ、面白いね、君」
悪魔が微笑う気配。おぞましい気配とともに男が私に近づき、正気に返った。すぐさま携帯をポケットにしまい、走り出す。
「に、逃げなきゃ……」
馬鹿か私は。何を撮影なんぞしてる。殺人現場の目撃者に、殺人者がすることは一つしかない。証拠隠滅で消すことだ。
必死に走ろうとするも、酒のせいで足元がおぼつかない。
「逃げるんだ。なるほど、恐怖という感情はあるんだね。だが殺人現場を見て咄嗟に選択した行動は撮影だった。“君の中”にいるのは何かな?」
逃げた、筈だった……。
だが、逃げた先に男はいた。漆黒の翼を生やして。
「……翼?」
やはり夢だ。人が翼を生やして飛べるわけがない。
「君には才能がありそうだね。気付いているかい? 死体を撮影していた時の君は……笑っていたよ。とても愉しそうに」
「な、何を言って……」
「プライバシーの侵害と思うかもしれないが、君は久々の拾い物だ。君の人生を見させてもらう」
そう言って男は私に右手を振りかざす。
《主観盗撮》――シュカントウサツ――
「……?」
何かをされたのかもしれないが、何をされたのかがよく分からない。男は右手を下すと静かに微笑んだ。
「なるほど……。富豪の家に一人娘として生まれ、裕福に育ち、束縛の厳しい親の言いなりになって過ごしてきたが、その親の会社が高校生の頃に倒産し、母親は精神を病み自殺。父親はあらゆるコネを使い、裕福で実力のある男を君の結婚相手として見繕い、君をパイプにしようとしている。君には自力で稼ぐポテンシャルがあるのに女だという理由で無能だと見下し、男の道具として扱おうとしているんだね。その男の経歴に見合う為に青春を捨て死ぬほど勉強して有名大学に入り、今は奨学金を借りながら大学へ通い、足りない学費と生活費の分は夜の仕事で賄っていると……。親の言うことに従うことだけが全て。それが君の人生なんだね……月下百合亜」
「な、なんで……私の、名前。それに過去まで……」
「ジェネシスという力を使ったのさ。俗っぽい言い方をすれば、魔法のようなものだね。この翼もそうだ」
「…………」
呆然と、ただ見ていることしかできない。
「憐れだね百合亜。君は一生死ぬまで父親に利用されるだけの人生だ。たとえ結婚したとしても、男に媚を売り続け死んでいくだけの人生」
「だ、黙れ! お前に何が分かる!」
「変わりたいとは思わないか?」
「お、思ってるよ! 毎日思ってる! ……でも、何ができるってんだよ。クソみたいな人生だよ、生まれてきたことを毎日呪ってる。呪わない日なんてない。苦労なんてしたことないみたいなツラしてる、大学のクソ女どもが憎い。私のことを道具としか思ってない父さんも憎い。勝手に死んでいなくなった母さんも憎い。油ギトギトの発情したオヤジどもも憎い。そして何より、そんなクソみたいな奴らに囲まれてないと生きていけない自分自身が憎い!」
な、何を言ってるんだろう……私は。初めて会った男に、心のありったけを、あるがまま叫ぶなんてどうかしてる……。しかも殺人者……。
「……僕には夢がある」
「はぁ?」
「自由な世界を、見てみたいんだ」
「自由?」
何を言っているんだこの男は。
「君も本当は自由を望んでる。僕と君が望んでいることは一緒なのさ」
「……自由」
そうか、確かに……自由。
そんな言葉を聞いたのは数年ぶりかもしれない。この世には不自由しかない。やっていいことより、やってはいけないことの方が圧倒的に多い。
でも、もし……やってはいけないことという概念そのものが完全に消えたら?
震える。そんな世界、想像しただけで震える……。
「もし今までの自分を全て捨て、生まれ変わると約束するのなら、君を自由にする力を与えてあげよう。僕の黒い翼は見えているだろう? こんなものは可愛いものさ。ジェネシスの本質はもっと遠いところにある。但し、僕が与えるのは飽くまで力だけだ。その力で君が自由になれるか、なれないかは君自身の責任。どうする? 僕はどちらでもいい。“君の中にいる何か”に敬意を表し、もし断ったとしても君は殺さない。君が決めろ、百合亜」
「私が……決める……?」
生まれて初めてだ、そんなこと言われたの。
私は今まですべてを決められてきた。自分で選んだことなんて、あるようで実は一度もない。
「君の今の人生に、今の君に、君自身は価値を見出しているか?」
「…………無い。何一つとして、無い」
「君の望みは何だ?」
「自由に……なりたい」
「君にとっての自由とはなんだ?」
「支配……されないこと」
「それも近いが、本質ではないな。自由の本質は二つある。そのうちの一つが、“他者の不自由”だ」
「他者の……不自由?」
「当たり前の話だが、全ての生物が自由になることはできない。虫は虫、家畜は家畜、人間は人間、労働者は労働者、支配者は支配者だ。生物は常にカテゴライズされたしがらみの中に囚われている。その前提で自由を定義するのであれば、他者の不自由を実感して自らの自由を感じ取る。これが一つ目の自由だ」
「……二つ目は?」
「ロジックではなく、直感的に自分が真に自由だと思えること。これが二つ目だ」
「どっちも……いいね」
気持ちよさそう……。
「それでは、改めて問うよ。百合亜、君は何を望む?」
「あなたの……あなたの自由を見てみたい」
「決まりだな。それでは今までの君自身を捨てる証として、新しく名前を決めようと思う。何か希望はあるかい?」
「そんなの、無い」
「なら、君は今日からリリーだ。僕は透。君は同志だ」
そう言って透と名乗った男は微笑み、手を差し伸べてくる。
無邪気な天使のような、あるいは蠱惑的な悪魔のように。
――――その手を取った時から、本当の意味で”私”の人生は始まったのだ。
♦♦♦
過去の記憶は途切れ、視界がもとに戻る。
目の前には、白雪セリカがいた。
恐ろしいほど冷たい目をして、静かに死んでいく私を無感動に見下ろしていた。その目は、その表情はあまりにも残酷で、透さんに似ていた。
「……フ」
思わず、微笑んでしまう。
透さんと……白雪セリカを見間違える、なんてどうか……してる。だが……今の、こいつの雰囲気……は、透さんと似て……いる。似てい……。
だ、めだ……。もう……終わ……り……。
……さん、好き……で……した。初めて……好きに……なっ……た……人……。
「透……さん」
……さん……。
トオ……ル…………。
………………。
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