第5話 新たなる羊⑭【白雪セリカ視点】
「……正義、ですか?」
「善が利他主義で、悪は利己主義。正義はエゴイストで、必要悪は汚れ仕事。善は他人のために自分を犠牲にすること。悪は自分のために他人を犠牲にすること。正義は自分の我儘を正しいと思い込んで周りを巻き込むこと。必要悪は善や正義から生まれた矛盾や間違いを握りつぶしたり壊すこと」
「…………」
赤染先輩の言っていることは難しい。けれど、少しだけ肩が軽くなった気がする。
「強すぎる責任感に押しつぶされてペシャンコ……なんてことはやめてね? セリカ。あなたは清らかすぎるが故に、小さな闇にすら飲み込まれちゃう“弱さ”がある。ま、百鬼君の代わりとまではいかないかもしれないけど、私は私なりの方法であなたを守ってあげる。私を救ってくれたお礼よ」
「救った? 私が?」
「無自覚なのね……。ま、そこも含めてセリカらしいんだけどさ」
赤染先輩はニコニコ笑っている。無邪気な笑顔。
「私はね、こう見えてはらわたが煮えくり返ってるの。確かに、私はクラスメートのことなんてなんとも思ってない冷酷な性格。でも、こんな風にゴミみたいに殺されていい子達じゃなかった。友情、部活、勉強、将来、恋愛、趣味、全員がそうとは言えなくても、みんなそれなりに小さな幸せを抱えて生きていた。私にはその幸せを自分のことのように理解や共感をすることはできなかったし、実際に四人もこの手で殺してる。自分が生き残る為に。その為だけに。そのことに罪悪感を抱かないし、生きる為なら仕方のないことだと思ってる。でも……“あいつら”は違うわよね」
あいつら。《赤い羊》のことだと直感的に理解する。
「私は狂いきれなかった。いっそSSになるぐらいに振り切れれば、何も葛藤せずに楽になれたのかもと思う。百鬼君を殺そうと躍起になったのも、彼を殺すことができれば完全に狂えると思ったから。でも皮肉にも、百鬼君のセリカを守ろうとする必死な表情で私は自分の正気を取り戻してしまった。だからランクまで下がった。生きることに対して、狂おうとすることに対して、虚しさみたいなものを感じたのよ。こんな状況でも誰かのために必死になれる彼を見て……ね。自分と似た匂いみたいなものを感じて、勝手に同類だと思ってたのに……。だから、《赤い羊》を殺そうと思った。あいつらは人の命を玩具だと思ってる。私も実際、人のことをとやかく言えるほど聖人君子ではないけれど、あいつらだけは許せない。その気持ちだけは確かよ。私の中にある、”人”としての気持ち。それを、百鬼君とセリカ……あなた達が思い出させてくれた。自分の命よりも優先すべきこと。それこそが本当の人生の価値……よね?」
「……っ」
闇から光へ、光から闇へ。そしてまた現れた光。
先輩がいなけば、この展開はなかった。
赤染先輩という新しい光。闇を抱えているけれど、それは私も同じ。
いや、闇がない人間なんていないと思う。もしそんな人がいるなら、ただ自分に闇なんてないと、そう思い込んでいるだけだ。昨日までの私みたいに。純粋に綺麗なだけの人間なんて、いない。認めたくはないけれど、そういう意味でだけは、リリーの言っていることは正しかった。
――――でも。
巡り巡って、光が届くこともある。
それもまた、一つの小さな真理なのかもしれない……。
「Fランクの持つもう一つの可能性と、Gランクについてはよく分からない。セリカ、あなたはどう思ってるの?」
結は端的に訪ねてくる。
「正直なところ、雲をつかむような話だと思う。全然分からない。でも、先輩が残してくれた希望だから、無駄にするつもりは無いよ」
「現実的な話、SSSを打倒できるかどうかはセリカにかかってる。プレッシャーをかけることになって申し訳なく思うけど、透レベルの化け物はSSですら倒せないし、ゴミ扱いされるのがオチ。兄さんが全てを賭けてなんとか渡り合える。そういう次元の存在」
「……うん」
「それから、赤染先輩」
「何?」
「人を殺すのが楽しいのであれば、あなたにはSSの素質がある」
「SS……ね」
赤染先輩は苦笑する。人間であることを辞めた外道だけがたどり着ける境地。そこに至れる可能性は確かに……赤染先輩ならあると思う。
「透以外の《赤い羊》は全員がSS。赤染先輩がSSになって、初めて一対一で渡り合えるレベルです。SSになるトリガーがどこにあるのか、全力で探ってください。それはあなたにしか見つけられない、あなただけの闇だから」
「…………百鬼君がSSになった時は全力で止めたのに、相変わらずいい性格してるわね、結」
「ああ、そういえばプールでの会話も”盗聴”してたんでしたっけ。私の優先順位は兄さんですから、あなたが狂って化け物になってもべつに私は困らない」
「ヒトデナシ。ブラコン」
「ヒトデナシなのはお互い様でしょう。ブラコンについてはスルーで」
「あんまり私のこといじめると、百鬼君のこと寝取っちゃうわよ?」
「……本当にやったら殺しますよ? 女としての象徴を全て切断したうえで」
「こわ。真顔で殺意を向けるの自重してくれない?」
「赤染先輩、ふざけるのも大概にしてください。そしてまず、前提として、状況は絶望的なほどに最悪だということを認識してください」
「そうは言うけど結、あなたはそもそも《赤い羊》を倒すことに協力する気はあるの?」
「……私はあなたをどうしても信頼できないんですよ。あなたの身にまとう雰囲気は《赤い羊》に限りなく近い。なのに、なぜあいつらを倒そうと思うんです? さっきの言葉すら私には半分は嘘に思える」
「ふふっ、随分信頼されてないのね、私」
「これを機会に、日ごろの行いを反省してください」
「それはお互い様でしょう、オメガ」
「……その名前で私を呼ばないでください。不快です」
「でも、こんなこと言うとまた辺に勘繰られそうだけど、私はあなたを信頼してるわ。百鬼君と二度目に殺し合った時、私は負けて、結があのとき私を殺そうと思えば簡単に殺せた。なのにしなかった。……あれは何故?」
「……私にも、人の心はあります。生徒会室で一緒にお昼ご飯を食べて、将来の話をして、学園の未来について話し合ったあの日々がどうしても頭にチラついたし、あなたを躊躇なく殺せるほど私は人間を辞めてない。あなたは誰にも心を許さないし、私もあなたのことを気味の悪い人だとずっと思ってました。でも……それら全てを割り切ることなんて……できない」
「そう。……そうよね」
赤染先輩は自嘲と悲しみ、そして少しだけ寂しさが入り混じった笑みを浮かべた。今までの作り物じみた印象はどこにもなく、それは確かに本物の赤染先輩の表情だと思えた。
「私が《赤い羊》を殺したい理由は、自分のためよ。ただただ自分のため」
「どういう意味ですか?」
結は端的に問う。
「罪悪感が無い人間には、善悪の境界線が無い。私には生まれながら罪悪感というものが全くなかった。一定数、いるわよね。罪悪感を持たない人間。そういう人間は何でもできるし、心理的なブレーキというものが全くないから、途方もない悪行を平然と行えてしまう。私は色々な本を読んで、罪悪感とは何なのかを勉強したの。知識としては理解できたけど、感情としては理解できなかった。そしてそれは今も変わらない。だから私は、ルールという概念に縋った。親の言うこと、世間体、学校、秩序、そういうものに従ってさえいれば、絶対に“間違える”ことは無いと。だから生徒会長なんかを目指した。仕事ばっかり押し付けられる割に対して報われないポジションにね」
「……」
「……」
赤染先輩の言葉は、じんわりと心に響いた。罪悪感を持たないがゆえの悩みなんて想像したことすらなかったから、聞いていることしかできない。
「父は大企業の経営者だし、母は父の言うことを聞いているだけの人形のような人。周りの人たちは私を令嬢扱いし、友人もちやほやしてくるだけ。だから先天的なのか後天的なのかは分からないけれど、私には罪悪感が無かった。どんなに悪いことをしても、私を叱ったり止めてくれる人が周りにはいなかった。小学生の頃、クラスメートが交通事故で死んだの。その子とは事故にあう当日、一緒に公園で遊ぶ約束を私を含めた友達のグループとしていてね。その約束なければ事故になんてあわず、死なずに済んだ。私はその子と友達で、グループの子達はみんな泣いていた。心の底から悲しんで、遊ぶ約束をしなければよかったと後悔してた。でも、私は“悲しい”とは思わず、何とも思わなかった。人はいつか死ぬものだし、父や母が死んでも恐らく私は何も思わない。“それ”が異常だと気付いてから、私は必死に縋るもの、よすがとなるものを探した。ようやく見つけたそれが、ルール。ルールに縋ってさえいれば、そう思っていた。だからずっと仮面優等生を演じてきた。そうしていれば、間違えることは無いと確信していたから。けれどそれを根本的に打ち砕く存在が現れてしまった。それが透。私は魅入られた。透の言葉、透の思想、その全てに。そして気づいてしまった。ルールすら大人がただ自分が得をするために作った都合のいいくだらない概念だと。優等生としての私はただ周りが期待してる優等生のイメージを無理やりコーティングしてただけだと。そして新しいルール。殺して生き残るというルールによって私は……殺人カリキュラムは私の暴いてはいけない闇を暴いた。将来死ぬまで気づくことのなかった闇。全てのルールから解放され、罪悪感が無いことを隠さずに、自由になりたいと願っている本当の自分に気付いてしまった。そして、私を唯一否定した百鬼君を殺せば、私は更に自由になれると思った。でもそれは適わず、私は三度セリカに負けた。もう何が正しいのか、間違ってるのか、そういうのが全部グチャグチャになって、もういっそ死んだ方が楽になれるのではとすら思ったわ。苦悩することに疲れた。でも、悔しいじゃない? なんで私が死ななければならないのか。何のために四人も殺して生き残ったのか。ならもう、無理かもしれなくても、《赤い羊》に立ち向かうしかない。そうすればせめて“正義”のために死ねる。私が《赤い羊》を殺したいと思うのは、そんなくだらない理由よ」
赤染先輩は自嘲する。
「赤染先輩……」
何か言葉をかけたいけれど、何も出てこない。赤染先輩は自分なりに苦しんでいたのだ。悩んでいた。自殺を考えるほどに……。
「私に……セリカは正しさを教えてくれた。罪悪感を持たない私の中に唯一残っている本当に小さな、自分ですら気付かなかったわずかな光をそっと掬い上げてくれた。私は自分自身で決めたルールを自らに課すことができない“弱い”人間。罪悪感が無い人間には、必ず道しるべとなるものが必要。年上の私がこんなこと言うのはとても情けないことだと思うけど、あなたは私にとって道しるべよ。あなたと共に戦うことができれば、私は自分のことを正しいと思える。それは自己満足かもしれない。でも……セリカ。あなたは私を……救ってくれた。それだけは確かよ」
「……っ」
「《赤い羊》は罪悪感が無い人間の集団。同類である私が言うのだから間違いないわ。あいつらは罪悪感が無いことに葛藤したり苦悩することすら無い本物の狂人。全てがゲーム感覚だから、人の命を玩具みたいに使って遊ぶことができる。あいつらと戦うのなら、絶対に迷わないでね。私が、あなたの”必要悪”になる。百鬼君と同じように、けど私なりのやり方で」
「……赤染先輩の覚悟は伝わりました」
私は赤染先輩に手を差し伸べる。
「これからは一蓮托生です。少しだけあなたのことを好きになった気がします」
赤染先輩は少しだけ驚いた顔をした後、私の手を握り返す。
「……そこは気がするじゃなくて、ちゃんと言い切って欲しかったわ」
赤染先輩は苦笑する。どこまでも人間らしい顔で。
いつの間にか私と結から赤染先輩へ向けていた盾と剣は消えていた。
罪悪感が無いこと。それを告白することはとても勇気がいることだと思う。自分を残酷な人間だと自覚して、それを他人に教えることは私には想像できない苦しみがある筈。私はもう赤染先輩の裏切りを恐れていなかった。
――――だって。
笑われちゃうかもしれないけど、赤染先輩の”本物”の笑顔はどこか先輩に似ていたから。
先輩に似た人を、私はどうしても嫌いになんてなれない。
結はそれをどこか遠くを見るような目で、何も言わずにじっと私たちを見ていた。