ブッ殺すぞ、山羊ヤロウ。
最初に違和感を覚えたのは、PCに向かって小説を執筆しようとした時のことだ。創作意欲が湧きに湧きまくっていた俺は、テキストボックスの真っ白な画面と対峙していた。
——イける!!
俺は意気込んだ。そして、一気に畳み掛ける!!
キーボードの上で構えた両手は迅速に動く……!! はずだった。
しかし現実として、実質的なものは何1つ生み出せていなかった。この時に俺が生み出していたものと言えば、荒い鼻息くらいのものである。
——これは変だ。
「………」
チョットだけ、無意味に待ってみた。
「………」
チョットじゃないが、待った。
当たり前かもしれないが、別に何が起きる訳でもない。完全スルーだ。嫌みったらしく時計の針の音だけが俺の耳に届いた。「深夜の、さ・ん・じ」。
——バカヤロウ。誰だ。万年自宅警備員の自室にこんなもんを設置した奴は。
俺は腹を立てた。が、直ぐにどうでも良くなった。
——だって、問題は別にあるんだもの。そうそう。明確に頭の中へと存在している小説を書くことができないのだった……。んな馬鹿な。
不測の事態に陥ってしまった。どうしようもなく呆然と立ち尽くす。困った。PCの前で右往左往する。果たして俺はスランプなのだろうかと考える。
しかし書きたいものは依然として、明確に頭の中で存在している。物語の展開も変わらず確かに存在している。むしろ俺の中で一つの小説が完結している。
それにも関わらず、書けない。この感覚は……何というか。俺の中から小説の言葉というものが、そっくりそのまま消えてしまったようなのだ。
——馬鹿な。全く説明がつかん。これはいかん。誠にいかん。
辺りをぐるりと見回してみる。四畳半の部屋は綺麗に片付けられていたが、差し当たって変な箇所はない。どういう訳か、知らない間に掃除されているのは平常通りだ。
——クソッ。まるで、俺の頭の中まで掃除されちまったみたいだ。
思い通りに書けない。明確なイメージはあるが、言語化する段階で言葉が消えていく。かつて経験したことのない奇妙な現象だ。原因は不明。意味が分からない。
怒りでわなわなと手が震えてくる。その震えを、俺は壁にぶつけて止めようとした。が、既の所で踏み止まる。
「老紳士になりたい」という幼い頃に抱いていた夢を、俺は未だ心の片隅に持っていたのである。
1度、冷静に考えてみることにした。心当たりとなりそうな事柄が本当になかったか。薄っすらと今日の出来事を思い浮かべてみる。
「………」
しかしながら、何も出てくる訳がなかった。当たり前だ。今の俺の日々は同じことが繰り返されるだけのものであって、有益なものは何1つない。
例えば俺の中から1日というものが、すっぽりと何者かに引き抜かれたとしても俺は気づかないだろう。
……さて、時間も時間だ。寝てみるのが良さそうである。フリーズした機械を再起動するみたいな感じで、起きたら何事もなかったかのように、スムーズにいくことも時にはあるかもしれない。
——現実逃避、とも言えるがな。
俺は電気を消して、サッサと寝ることにした。布団の中へと潜り込み、現実を振り払うかのように目を瞑る。
刹那、ぐいっと何者かに腕を引っ張られるような感覚があった。何と。寝転がっているのに、つんのめる……!!
驚いて目を見開く。反射的に右足が出る。力強く踏みつけた地面は、灰色の固いコンクリートの床。 足元には履き古したスニーカー……。
恐る恐る顔を上げると、見慣れた近所のショッピングセンターの屋上駐車場に俺は佇んでいた。
「は?」
間抜けな声が口をついて出る。透き通るような青空の下には、未だ嘗て見たことのない異様な光景が広がっていた。
ガランとした広い駐車場に、車は1台も停まっていない。代わりに無数のティッシュペーパーが、空中を舞っているのである。
そして、ティッシュペーパー1枚1枚には蛇がのたくったような文字がびっしりと書き込まれていた。誠に遺憾であるが、それがどうも俺の筆跡っぽいのだ。書かれている内容は言わずもがな。
俺から15メートルくらい離れた場所では、山羊の頭をした男が手を伸ばしている。ピョンピョン飛び跳ねて、ティッシュペーパーを掻き集めていた。
山羊人間は俺に全く気づいていない。一心不乱にティッシュペーパーを取っては食べ。取っては食べていた。何と。他人の小説を片っ端から食べる……!!
俺の小説の書いてある紙が、まさかシュッシュと取り出せるティッシュペーパーであったことには心底驚いた。むしろ脳が受け付けないレベルだった。が、まさか山羊人間に俺の小説が食われていたとは……!!
まあ、山羊には他人の紙を食べてはいけないことさえも分からないだろう。ましてや、小説を書く奴の気持ちなんて分かる訳がない。仕方がない。
しかし俺の中で強い殺意が芽生えたこともまた、仕方がないことだった。俺は全力で叫ぶ。
「その小説はくれてやる。その代わり、俺の小説の言葉を返せ!!」
でも……もちろん山羊だし、言葉は通じないし。食べ物があったら俺には見向きもせずに食べ続けちゃうし。俺が叫ぶことには何の意味もなかったようだ。
「クソッ。どうせ、もう使い物にならんだろ」と自暴自棄になった俺は、手近な所のティッシュペーパーを取ってクシャクシャと手の中で丸めた。
刹那、俺の手の中でティッシュペーパーは銃に変化したのである。まさかの展開であった。しかし、そうとなればすることは1つだ。
素早く銃口を山羊人間に向けて、俺は戸惑うことなく引き金を引く。一連の動作には、まるで予め決められていたかのようなスムーズさがあった。
爆音と共に火薬の煙が虚空の彼方へ薄れゆく。
燃え上がったのは怒りか。それとも悲しみか。
否、昇華された気持ちは空虚な心を漂うだけで。
結局、無色透明の涙が音を立てずに流れただけだった。