最後の神託
『いずれ、誰かがこの軌跡を辿ることを願って、私はこの罪をここに残そう』
彼女の遺書とも呼べる手紙を読み終えると、私はそこでやっと、自分の体が震えていることに気付いた。
手紙を握ったまま、必死に両手で体を抱きしめ、叫びだしたいのを抑えて呟く。
「……どうして、今更っ…!」
本当に、今更過ぎる。だって、私たちを破滅へと導く神託は、もう下ってしまっているのだから。
「聖女様?いかがなされましたか?」
側に控える神官が遠慮がちに声をかけた。つい先日やって来たばかりの彼は、前の神官ほど配慮が上手ではない。
その前の神官は、亡くなってしまったけれど。
「…いえ。少し、気分が悪くて。神託には問題ありません」
「そうですか、ならば良いのですが」
大聖堂の外には徐々に人が集まりつつある。
今日は年に一度、アストラ神国全体に神託が下りる日であり、内容は聖女である私しか知り得なかった。…たとえ、どんな内容だったとしても。
「聖女様、失礼いたします」
部屋にやって来たのは大神官…エリオットだった。いつもより華美で凝っていて、…そして拘束具にも見える服に袖を通していた。
「……大神官様、どうされたのですか」
「いえ、特に何かあるわけではありませんが、少しお顔を見に。…少し下がっていて下さい」
「はい、失礼いたしました」
神官は恭しく頭を下げて部屋を出て行く。彼の付けている香水のにおいか、部屋には甘い香りが漂っていた。
「珍しい、ですね。あなたがここに来るなんて」
「今日は特別な日ですから。無理を言って入れてもらいました。…少し、顔色が悪い。どうしたんですか、ティナ」
エリオットが私の頬に手を伸ばす。思わずその手にすがりそうになるのを必死で耐えた。だめだ、今は甘えている場合じゃない。
「…エリオット兄さん、…実は、来てほしい場所があります」
「…今でなくては、いけないのですね。わかりました、行きましょう」
エリオットが頷くのを見て、私は彼を部屋の奥へと誘う。
聖女の部屋に身辺警護以外で男性を招くのは禁忌とされていたが、今はそんなことに構ってもいられなかった。
「…ティナ、一体どこに……」
「…この聖女の部屋には隠し通路があるそうです。…彼女の手紙で、知りました」
部屋の燭台を思い切り曲げれば、ぎぎ、と重たい音とともに本棚の下に階段が現れる。
エリオットはそれを見て声も出ないようだった。
「…こ、れは……」
「急ぎましょう、神託の時間になります」
「……そうですね、急がなくては」
もしかしたら、彼は気付いているのかもしれない。いや、そうだとしてもどちらでもいいことだ。
私たちは部屋から持ってきたランプの明かりだけを頼りに階段を下りる。
やがて階段は途切れ、舗装された道が途切れる。
私たちはただ無言で歩く。しばらくして、エリオットが何かに気付いたようだった。
「…波の、音?」
「……もうすぐです」
私の言葉の通り、やがて道はなくなり、開けた場所に出た。そこには一艘の船が置かれている。奥からは絶えることなく波の音が響いている。
「……ティナ、ここはまさか…」
「…推測ですが、歴代聖女たちが確保していた、聖女しか知らない逃げ道なんだと思います。多分おばあ様も先代の聖女から聞いて」
「……ここに案内するということは、貴女は逃げるのですね」
その声に責めるような色は見えない。それどころか私が逃げることを歓迎しているようにも聞こえた。
「…はい。エリオット、どうか、あなたも、私と逃げてください」
「……ええ、あなたがそれを望むなら、私はどこまでも一緒ですよ、ティナ」
エリオットはいつもと変わらない笑みで、私の頭を撫でようとしたのか手を伸ばしてくる。それを避けるように、船に一歩近づいた。自然と視界からエリオットが消える。…その手が行き場もなく宙にとどまったままなのは、なんとなく分かった。
「…必要なものはそろっていると手紙にありましたが、一応点検しておきたいんです。手伝ってもらえますか?」
「……そうですね、分かりました」
そう言ってエリオットは船に置いてあったカバンに手を伸ばす。…そのために、エリオットは屈む。ああ、こんなに早く機会が来るなんて思わなかった。
エリオットの背後に回って、後ろから抱き着く。口とのどを塞ぐように白い布を寄せると、エリオットは瞬く間に眠りに落ちた。
「…よかった……ごめんなさい、エリオット兄さん」
エリオットの髪に触れる。昔はよく頭を撫でてくれたエリオット。…今はもう、彼の手が恐ろしくて。ううん、私が汚くなったから、綺麗な彼を汚してしまいそうで。
いつも一緒だった。生まれた時から同じ施設で育った。兄妹に間違われるなんてしょっちゅうだった。本当にそうなら良かったと、何度だって思った。
…それももう、ここで終わりだ。
「さよなら、エリオット。…きっと、愛していました」
うつぶせるように船にもたれ掛かるエリオットの髪にそっと口づける。…これは、本当は愛じゃないのかもしれない。同じ境に生まれ育った同族に抱く、共感めいたものかもしれない。
けれどこの瞬間だけは、きっとこれは夢のような、愛だった。
眼下にはたくさんの人。吐き気がするほどの熱が、ここに渦巻いていた。人々は今か今かと、神の言葉を待っている。
彼らは知らないのだ。その神は、決して私たちを慈しんでいないことを。
「――神託を、下します」
その言葉で、辺りは静まり返った。呼吸音さえ聞こえるその中で、私だけが生きているような錯覚に陥った。…いいや、違う。
きっと私は、もうずっと昔に死んでいる。聖女になった日から、きっと私は生きていないのだ。
「人よ、…隣人を殺しなさい。それこそ私の願いであり、私たちの救いとなるのです」
時間が止まった気がした。それはほんの一瞬で、人々はその神託に歓声を、或は叫びともとれる声を上げて、…隣り合う、守るべき愛するべき人を殺していく。
母が子を殺すのが先だったか、恋人同士が死ぬのが先だったか、銃声が響くのが先だったのか。それはもう分からない。白かった床や壁は赤く染まり、多くの人が倒れている。大人も子供も関係なく、折り重なるように倒れている。それは飽きて捨てられた人形のようにも見えた。
間もなく、ここにも人が来るだろう。きっと私も死ぬ。そのことに恐れはない。
気にかかるのはエリオットのことだけだ。彼は無事にこの国から逃げられるだろうか。
彼女からの手紙を抱きしめて、心の中で呟く。
ごめんなさい、おばあ様。私のことを愛してくれて、ありがとう。きっと会うことは二度とないけれど。私もあなたのことが大好きでした。
「っここか!いたぞ、聖女様だ!殺せ!殺せぇ!!」
随分と早かった。部屋に押し入ってきた男はどんどんと私に近づいて来る。
――生きて、エリオット。この国から出て、どうか、幸せに。
波の音が絶えず聞こえてくる。音が反響することから、ここは恐らく洞窟か何かの中だろうということが分かった。
…洞窟。なぜ自分はそんなところにいるのだったか。確か聖女を…ティナを訪ねて…秘密の通路の先に船があったはずだ。
そうだ、そんなことはいい。ティナはどこだ。
妙に重い体を起こして辺りを見る。…ティナの姿はない。
「っ…ティナ、どこにいるのですか、ティナ…!」
呼びかけに彼女は応えない。ここにはもう彼女はいないのだ。
なぜ。逃げようと言っていたのに。ここにいないということは、ティナはきっと神託を下しに行ったはず。ならば向かうべきは上だ。
長い道を足早に戻る。ランプはどうやらティナが持って行ったらしい。暗い道はお世辞にも歩きやすいと言えず、何度も岩に躓き、壁や床に手を着きながら聖女の部屋にたどり着く。
そこで見たのは、顔見知りの神官や衛兵たちの変わり果てた姿だった。それらはまるで、互いを殺そうとした結果互いに死んだように見える。床や壁は赤く染まり、開け放たれた窓の外からは銃声が止むことなく響いている。
「な、んだ、これは…」
…いや、ここでもたもたしている場合ではない。間違いなく非常事態だ。ティナを早く見つけなくては。場所はきっとバルコニーのある大部屋だろう。ここからそう遠くない。
急いで廊下に出ると、そこにもまた多くの人が倒れている。大聖堂の中でこんなにも殺人が起こるなんてあり得ない。
それこそ――神託だけだ。
彼女は、まるで眠っているように見えた。倒れているのが床でなければ、胸元が赤く染まっていなければ、きっと自分は彼女の体に毛布でも掛けて、頭を撫でていただろう。安らかに眠れと、いい夢を見てほしいとでも祈りながら。
「……ティナ…」
彼女の体に近付く。その白い頬に触れれば、嫌でも分かってしまった。彼女は、もう…。
「女神ステラよ…なぜこのような仕打ちを彼女に、なさるのですか…」
ティナの体を抱きしめる。その体に温度は一切なく、事切れてから随分と時間が経っていることが察せられた。
「なぜ、どうしてティナなんだ……!」
これはきっと、神託だ。この国を殺す神託。それは女神の代弁者である聖女さえ殺した。
――一体、誰が殺した?
この国に、女神にすべてを捧げた、可哀想な娘だった。優しい子だった、強くもあり弱くもあった。甘いものが好きで、本が好きで、笑いもすれば泣きもする、どこにでもいる普通の少女だった。こんなにも無残に、誰に看取られることもなく死んでいいような人間では、なかった。
ティナの頬に水滴が落ちる。それはまるで彼女が流した涙の様に、そのまま床に滑り落ちて行った。
……憎い。この少女を殺した人間が、国が、神が、世界が――自分が、あまりにも憎い。
ティナの頬には絶え間なく水が滴り落ちて行く。ああ、彼女も悲しいのだ、憎いのだ!自分を殺した、神が、この世界が、どうしようもなく!!
奥歯をぐっと噛み締める。自分がすべきは、ここで悲嘆に暮れることではない。この世界の未来を願うことではない。
「…大丈夫、大丈夫ですよティナ。私が、私があなたの代わりに、この世界に報復しましょう。大丈夫、」
憎いのなら――壊せばいい、殺せばいい。それだけのことだ。
頭の中で、声が聞こえる。これは神託だと、この世界を破壊しつくせと。
「……ふざけるな、何が!何が神託だ!私はお前の声になど従わない……私のやり方で、お前も、何もかも、殺してやる、殺してやる殺してやる……!!」
まずはこの国からだ。生き残っているものは皆殺す。大人も子供も老いも若いも関係なく。そうしたら、次は南の国に行こう。懇意にしている国家があったはずだ。幸いこの国が死にゆくことを知る者は誰もいない。きっと、上手く行く。
「安心して見ていてください、ティナ。私が必ずすべて壊しますから」
彼女の体をもう一度強く抱きしめ、持ち上げる。
さあ、まずは彼女を安全な場所に連れて行こう。あの地下通路がいいだろう。
そうしたら街を歩いて回ろう。神託に随分と熱心な民衆が全員死んでいないとは想像できないが、運よく生き残ったものがいるかもしれない。生き残るなど許せない。
ティナを殺しておいて安穏と生きるなんて、例え死んでも許せない…!
ふとティナの顔を見ると、彼女はもう涙を流してはいなかった。
けれど――なぜだろう。彼女が大粒の涙を流しているように見えたのは。
彼女の願いは、本当は破壊ではなく。殺戮ではなく。もっと平凡な――。
いいや、そんなわけはないと首を振る。これはきっと、私の見た幻なのだ。
だってそうでなくては、彼女はあまりに報われない。
「…行きましょう、ティナ。私が、貴女の願いを叶えます」
だからどうか、もう一度目を開けて。
そして私の名前を呼んで欲しいのです。エリオットと。
それだけで――私は幸せなのですから。
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船は目的地へと進んでいく。二日間夜を過ごし、三日目の昼、それは見えてきた。
「あ、お姉様!あれは島だわ!」
「…そうね、きっとあれが…悪いけど、あの子を起こしてきてくれる?」
「はい!少し待っていてください、お姉様!」
妹がばたばたと音を立てて下に降りていく。
私は手元の手帳に目を落とした。
「…いずれ、誰かがこの軌跡を辿ることを願って、か…」
それは手帳の結びの言葉。まるでこれが誰かの手に渡ることが分かっていたような文言に、まさかと首を振る。
「お姉様、起こしてきました!」
「島が見えたって本当?!」
私に駆け寄ってくる二人を見つめて、ほんの少し表情が和らぐ。
「えぇ、きっと、あの島に答えがあるはず。…すこし怖いけれど、確かめないとね」
そう。これはきっと、誰かが辿る物語。手帳の主が未来に残した、最後の奇跡。
私はきっと忘れないだろう。この手帳を手にした時聞こえた、少女の安堵したように感謝する声を。
「お姉様、船を下りる準備をしましょう!」
「行こうよ!」
「…えぇ、今行くわ」
妹達に呼ばれ、一度振り向いてそう返事をする。
最後にもう一度正面を向けば、そこにはもう、始まりの国――死の国と呼ばれるアストラ神国が迫っていた。
これでこのシリーズは完結となります。
読んでいただきありがとうございました。