融解
DKの入り口に立ったカシルは虚ろな視線を中に向ける。
「ジーク……」
譫言のような呼びかけに、流石にいささかギクリとした様子で振り返ったジークはカシルの幽霊じみた顔を見て二度瞬いた。
どうした、と言いかけ、あまりの白々しさにか口を噤む。
「……見たのか」
解りきっていることだけにだろう、確認の口調で問いかけた。
「……うん」
そう返したきり、カシルは突っ立っている。
「……座ったらどうだ」
「……そ、そうだね」
カシルはやっと自我を取り戻し始め、三対の椅子の一つに腰を降ろした。
ややあってから、ジークがテーブルに皿を運んできた。
「とりあえず簡単なものだが」
とカシルの前に置く。
「ありがとう……。何もお手伝いしませんで……」
カシルは思い出したように緊張し、目の前のサンドウィッチとスープを見つめた。
「あのー、ジークは……?」
「俺はいい」
ジークは後片付けを進めている。
「具合はもういいのか」
「え?」
カシルはスプーンを手に顔を上げた。ジークは背を向けたまま、
「熱があっただろう」
「あー……。ええ、まあ」
カシルは自分の額に手をあてる。
「よくわからないなあ……。熱がある時って、自分で額を触っても熱くないじゃない?今は、ぬるい感じ……」
話しながらカシルの手に握られたスプーンが意味もなくスープをかき混ぜている。
ジークは一瞬振り返り、まず食べるように促した。
「あ、そうよね。冷めないうちに……。戴きます」
こがねの輝きを掬い、口に運ぶ。
カシルの目が見開かれた。
何かを確かめるように二口三口と続ける。
「え……」
彼女は動揺していた。
「どうかしたか?」
ジークが振り返る。
カシルの見開かれた眼が彼を射た。
そのあまりの不審さに眉を顰めるジーク。
「ジーク……。こ、これ、異常に美味しいんだけど」
「え?」
ジークの動きが止まった。
「す、すごいよ、ほんとに」
「……たったそれだけのことで、大袈裟すぎないか」
「だって!何でこんなに美味しいの!?しかも短時間で作ったのに!!本当に異常だよ!異常!!」
褒めているのかけなしているのか。
「ねえ、ジーク!あなた料理の天才だよ!天性の料理人!!あれ、それとも、もしかして本当に料理人?」
ジークは苦笑した。成す術がなかった。
「……いや、違うが」
「じゃあ、何かあった時にこっちの道も生かせることを覚えといた方がいいわよ!大丈夫!私のお墨付き!!」
「……」
「続き戴くね!いや〜ほんとに幸せ!」
カシルは頬を紅潮させて食を楽しんでいる。
何ともいえぬ表情になったジークは自分を誤魔化すように再びカシルに背を向けた。彼女のペースに巻き込まれるとどうも調子が狂うようである。
ジークが片付けを終えてテーブルに足を向けた時には、料理は恐ろしい勢いで平らげられていた。
「ご馳走さま。お皿は私が洗うから」
皿を重ねて立ち上がる。
「疲れてるんじゃないのか」
「ううん。元気になっちゃった」
明るい笑顔でシンクに向かう。
カシルが皿を洗い終わって椅子に戻ると、テーブルの上では気配も見せずに淹れられた茶が香気を立てていた。
「ありがとう!いい香り!」
と座りつつも内心カシルはジークの見かけによらぬ忠実さが可笑しくて仕方がない。
テーブルを挟んで初めてカシルとジークは向かい合って座った。
カシルはティーカップを持ち上げて香りを吸い込む。茶葉はおそらくシデムという常緑低木の葉にパソランの青い花びらを混ぜたものだろう。国内ではよく飲まれてはいる方だが、淹れる温度と蒸し時間の加減が少し難しく、カシルは村にいた頃挑戦して失敗したことがあった。
いつの間にか淹れてあったのに美味しい……。
風味を味わい多少の悔しさも感じながら、カシルはカップに眼を落とすジークの顔をさり気なく見つめた。
太すぎず細すぎない黒髪は品の良い艶やかさがある。目尻付近に降りるやや長めの前髪と、瞳孔近くが金味を帯びた澄んだ瞳、尻上がりの直線から美しい角度に落ちる眉が、顔貌にシャープな印象を与えている。更に癖なく通った鼻梁に、形の良い唇、と、造りは非の打ち所がなく、全体的なバランスも申し分ない。
綺麗な人だな、と思った。
本人に向かっても、そう言ってしまいたくなる衝動に駆られた。彼の反応を予想することで、そこは平静な心に戻ることができた。
「さっき……」
「え?」
ジークの穏やかな声が心奥に潜っていたカシルの意識を胸の岸辺まで引き上げた。
「何?」
「さっき見たのは何だったのか、わかるか?」
カシルはドキリとした。先刻の気の刺激とあの光景が蘇り、緊張感が身裡にじわじわと痛みのように広がっていった。
「……何かの術が、行われていたんでしょ?」
「術?」
カシルが出した答えを、ジークは知っている。彼の揺るがぬ視線が、それを語っていた。
「……結界」
「……。……あれは俺の父だ」
カシルは頷く。
「十五年前から、この街で結界を張っている」
「十五年?」
カシルの問いは即座に放たれていた。
「……そう。”歌”が始まって間もなくだ」
「……」
ジークは言葉を失っているカシルになおも真っ直ぐな視線を向ける。
「……いつ、契約を結んだの?」
「……”歌”の開始から、三ヶ月後」
三ヶ月……?
カシルの呟きが絶望の呻きに聞こえた。
神術師の修行を始めて三年、常に結界の契約を望んできたが、未だ叶わぬカシル。だが、ジークの父は僅か三ヶ月で結ぶことができたとは……。
「勿論、”歌”が始まるまで、結界の契約なんて考えてなかったんでしょう?」
「そうだな」
神術師は”イン”の存在に伴い、古き歴史を持つ職業だが、時吸歌などといった特殊な呪術が行われることは史実で見ても例のないことであった。そのため、そのような呪術に対してしか効用のない結界を張るための契約などをわざわざ結ぼうとする神術師の数は、実際に”歌”の開始に遭うまで限りなくゼロに近かったのである。伝統的に彼らは呪術師というよりも薬師としての役割を担ってきたのだった。
「だが、アルクード___父の例は異例中の異例だ。何年かかっても契約を結べない神術師が大半だからな」
「……まあね」
「気にしないでくれ。ちょっと事情があって……どんな手段を用いてでも、父が契約を結ぶ必要があったんだ」
ジークは少し困ったように微笑った。
「事情……手段……?」
釈然としない思いを抱えながらも、そのことについて強引に追求するつもりはカシルにはなかった。
それよりも知りたいことが、彼女にはあった。
「……ジークは、神術師なの?」
その質問は胸の底に存在する靄を言葉にすることだった。言葉によって具象化することで、初めて彼女はその靄を発する源に期待感があることに気づいた。
期待……?
何への……?
ジークは指で軽く頬杖をついて考えるような仕種をする。
「まあ、そう言っても誤りではない」
「え?」
「そう思ってくれていい」
「……。……じ、じゃあ、ジークも、結界が張れる?」
舌がもつれかけ、それが己にとって疑問の核心であったことをカシルは思い知らされた。カップを持つ手が震え、慌ててソーサーに戻す。
ジークはまるで不安を宿しているかのような彼女の上目遣いの表情を無言で見つめる。
「ああ」
返事は短かった。
だが、それは確実にカシルの心臓を刺した。期待感が弾け飛び、躯の中心で苦痛の破片が散った。
カシルはショックを覚えた。
期待感が打ち砕かれたことそれ自体にではない。
ジークの肯定が、カシルの期待を裏切る要因だったことにだ。
自分は、「何を期待」していたのか?
彼が、自分と同じ立場にあることを、ではないのか?
たった三ヶ月で結界の契約を得、街を”歌”から護っている父を持ちながら、その子息である彼は如何に人々に熱望されようとも能力のある神術師にはなれない……そのような構図をカシルは望んでいたのだ。
村唯一の神術師で、村人からの信頼厚く、村の希望であったにも関わらず、皆の思いに応えることができなかった彼女に、同類の慰めを与えてほしかったのだ。
カシルは自己嫌悪の淵に落ち込んでいった。
「……だが、結界を張って忌避しているだけでは、真の解決にはならない」
「!?」
意外な一言が、己の中を溺れかけたカシルを掬い上げた。
ジークの瞳に揺れる冷冷たる光が、怒りにも似た熱を帯びていく。
「……それって……」
ジークは何かを見定めるようにカシルの貌を熟視した。
カシルは彼の言わんとしていることを思い、まるで畏れるかのように打ち消そうとした。しかし、そうすればする程、確信の色が重ねられていく気がした。
「時吸歌を、破る法を知っているか?」
意を決したように言葉を放ったジークの眼光は焔と氷の絡み合った刃のようだった。
「具体的なやり方は知らないけど、方法があるのは知ってる……。でも、”破呪”の力は、結界を張る力よりもはるかに得にくいって……まさか……」
思い続けていた”まさか”を口に出し、更なる緊張感に縛られるカシル。
「……もうすぐ、時が満ちる」
ジークの言葉は厳かに織られていくようだった。
「内なる力が最も高まるその時に、俺は”破呪”を行う」
「……!」
斬、と。音を立てて意識の中を衝撃が貫いた。
「”破呪”の契約は既に済ませた。今はただ、実行の時が来るのを待っている。……二十の歳を、迎えるのを」
「……」
時が止まったように動きを失ったカシルに、彼は更に打ち明ける。
「時吸歌が始まったのは、俺が五つになろうとする時だった。”歌”が始まり、父はすぐさま俺に修行を授け、己と同じく三ヶ月後に結界の契約を結ばせた。父が結界を張り出した後は独りで修行を続け、それから十四年後に破呪の契約を得た」
ジークの表情が和らいだ。
「つまり、ついこの間だな」
「……。……すごい……。私なんて、結界も無理で……破呪は最初から諦めてた……。術者の命が尽きるまで凌げればって……」
「呪術者は簡単には死なない。”歌”を行えるほどの霊力の器を得た者なら、この先何十年も力は尽きないだろう。……カシル。”イン”と契約を結ぶ近道は、”イン”に『媚びる』ことだ。霊力を昂めた後は、如何にして”イン”に取り入るか……それだけだ。”イン”こそが、万物を支配し、吸い尽くそうとしている存在だから……」
ジークは自嘲するように微笑った。
哀しげで、切なげな影が端麗な姿に重なって見えた。
”イン”は、いつから存在するのか。
史書によると、およそ千五百年前、カザレフト国には自然崇拝が存在していた。主に豊穣、天候の安定を願い、人々は生贄を捧げ、自然界に存在する「神神」に祈ったのである。
それが千年程前の記述になると、祈祷の対象となる「神」が”イン”の名に統一される。史学家はこれを、「自然界に宿る幾多の神神に祈るうち、”本当に願いを叶えてくれる神”を発見し、名を付けたのではないか」と見ている。
必ず願いを聞き入れるとも限らぬ漠然とした存在の自然神信仰から、そこで”イン”崇拝へと移行したというのである。そしてその中から、従来通り生物の命を捧げる負の契約と、人間の精神や人生を捧げる正の契約の二通りの方法を見出して呪術が発展していったと見られている。
通常、人間社会の歴史では、呪術や魔術は宗教に取って代わられていく。しかしカザレフト国における”イン”の存在、能力はあまりに強大で確実で、民はこの存在との関係の変化を望まなかった。また、”イン”の側も、民が”イン”から離れること、”イン”を利用して人間の支配下に置こうとすることを嫌い、二者の関係性が崩れかけるとその度に天災を下して来た。
命、精神、人生。まさに「生」そのものを供物とさせる、”イン”。僧侶には崇拝させ、民には畏怖の念を抱かせるこの存在こそ、まさしく絶対権力者なのかも知れない。人間が”イン”との利害関係を重んじる中でこの存在が強大になっていったことは、”イン”の計算通りの事だったのかも知れない。
望めば、本当に願いを叶えてくれる「神」……。利益に目の眩んだ人間がいつの間にか墜ちて行く先では、狡猾な笑みを浮かべたその「神」が牙を剥いた口を空けているかも知れないのだ。
「そもそも時吸の歌が始まったのは、何故だか知っているか?」
「ある村で権力者と衝突した村人が抵抗の手段として用いたとか……そんな風に私の村には伝わっていたけど」
ジークはカシルの瞳の奥を見据えて少し思案するような顔をした。
「……この街のいわゆる隣村に、薬石村の通称を持つ薬餌薬湯に恵まれた村があった。その村で二十年ほど前に富豪の邑宰(村長)一家が亡くなった。正確に言えば長兄以外の者……第二子の長女とその婚約者が、だ。長兄がインと負の契約を結んで呪い殺したんだ」
「え……」
「その村の邑宰はこの町の町長と同じく世襲制を採ってきた。しかし、一家の長男は放蕩癖が激しく、父親は息子を勘当して長女を次期邑宰に選んだ。そこで長兄はインに神通力を借りて家族を狂わせ、山中で自殺させるよう仕向けたんだ。そしてその時に長兄が生贄として捧げたのが、村外れの草むらで遊んでいた一人の幼い少女だった。彼女の母親は邑宰一家が怪死を遂げたことを不審に思い、邑宰宅を訪れ父親の後を継いだ長兄に最悪の予想をもって問い質したが、取り合われることなく追い返された。だが、彼女は聞いてしまった。彼女を追い返したすぐ後に、長兄が家に入れていた自分の女にこう言うのを。……『犬ころほどの大きさの動物だったらあの女のガキじゃなくても良かったんだがなあ』」
カシルは吐き気を覚えた。
「怒りと悲しみで母親は気も狂わんばかりだったが、それ以上糾弾をしなかった。その一年後彼女は二度目の出産で再び女児を設けた。そしてその女児が四歳となった時、母親は、夫、近隣の住人、そして自分計五十二人の命を服毒によってインに捧げて女児とインの間に負の契約によって時吸歌を行う力を得させた。歌は始まり四歳の幼き呪術者は母親の遺志通りに薬石村を最初の犠牲として吸い尽くした……」
一呼吸おいてから、ジークは締めくくった。
「それが十五年前の話だ」
カシルは衝撃と疑問の入り混じった表情を彼に向けた。
「どうしてそんなに詳しく……」
「時吸歌が始まった直後に女児の母親の魂は村を飛び立った。俺はその瞬間彼女の意識を感応したんだ」
「……霊的な力を、ジークが持っていたから?」
「さあな……。距離的、年齢的にちょうど良かったのかもな」
「……ふうん……?」
カシルは少し視線を彷徨わせてから呟くように、
「でも、でもさ、それじゃあ、その呪術者の子がまるで……」
……道具みたいじゃない、と言いかけ、ハッとしてジークの顔を見上げた。
それはジークにも当てはまることではないのだろうか。
僧侶となるか神術師となるか、その分かれ目は霊力の有無にある。どんなにインに心を捧げようとも、素質がなければインの力を借りることはできない。人間がもとより持ち合わせている霊力がインの力を加えられることで初めて具現化し、目に見える効果のある術を行うことができるのだ。従って、霊力なき者には初めから神術的契約自体が下されないのである。僧侶となる者達は、自ら術は行えずとも、神術師達の手助けとなるべく‘’神術師の願う力をなるべく多く授けてもらう‘’契約を交わすのだ。
元々の霊力がなくても力の一式が与えられる負の契約とは違い、正の契約は霊力を必要とするが故に、神術師は霊力を昂めるために修行を要する。
その質と量は、望む術が高度であればあるほど多大となる。ジークのように、結界や破咒の契約を望む者は、まさしく長く厳しき修行の日々を送らねばならない。カシルは、父の意志に従い、インとの契約の為だけにこれまでの人生の大半を捧げねばならなかったジークが、母親の復讐の為だけに呪術者に仕立て上げられた少女と重なって見えたのだ。
「まるで…?」
ジークが様子を伺うように聞いた。
「う、ううん何でもない!」
気まずさを隠そうと慌てるカシル。しかしジークはさして気に留めた風もなく尋問の視線を解除した。
「……」
ジークはそのまま押し黙る。湖の底から見た月の如き瞳に睫が降りた。
「……どうしたの?」
「……。利用するために呼んだと誤解されたくないんだが……。……カシル。破咒の手助けをしてはくれないか?」
「え!?」
唐突な要請にカシルは驚きの表情のまま固まった。
「俺一人ではもとより破咒は行えない。その身を異空間に潜めた呪術者を間近に引き寄せる事までが破咒の契約者の出来る事だ。その呪術者に攻撃を加える為に、別の人間の手が必要となる。当初は俺の父が結界と並行してその役を担うはずだったが……今となってはそれはおそらく不可能だ。理由は言うまでもないだろうが……父の体の限界の為だ。既にあの人の霊力は尽きている。今は生力を霊力に還元して術を行っている状態だから、そう長くもつはずがない。その上更に呪術者を攻撃する事など出来ないだろう」
神術を行うにあたって使用する霊力は体力を基盤とする性質のものではない。つまり、体調に左右されることがなく、体へのエネルギーの補給も必要としない。高度の神術師ともなれば、身体機能を一切停止させ、霊力のみを活かして長期間の術を行うことができる。
だがその霊力の器を超える霊力を術が必要とした時、術者の体自身の生力が使用され出すことがある。その状態になると、体力は確実に奪われ、身体機能の衰弱が起こる。そのまま術を続行すれば、そう長い時を待つことなく術者は死に至るのだ。
「私が見たとき、体から金白色の気体が立ち上っていたんだけど……それは生力が霊力に混在していた証だったのよね?」
「そうだろうな」
「うん……あれじゃあ、同時に破咒を行うなんて無理だと思う。……でも、その役を私がするなんて事、できるの?」
「それは大丈夫だ。神術師なら……」
「霊力がない人だと、不可能だということ?」
「……呪術者の姿を見つける事自体が出来ないだろうな」
「……ふうん……?」
カシルは自信のなさそうな反応の割には、明るい表情をしていた。
自分にも、出来る事がある。
神術師の霊力を役立てる事ができる。
蕾のように膨らみ出した希望は償いの想いにも似ていた。
カシルの身の裡で施錠された闇く重い異物が、四散すべく胎動し始めた気がした。
「……いいよ」
これだけは、絶対にしてのけてみせる。
「私、手助けする」
ジークの瞳を見据えて結んだ言葉は、熱く力強き決意となってカシルの内奥の氷を溶かしていった。