秘事
ジークの家は収容所から歩いて十分ほどの距離にあった。木柵で囲まれた敷地は広くはないが、白を基調とした小造りの二階家は、街の荒んだ空気に曝されながらも何処かまだ生命を感じさせる。
カシルは柵の奥に足を踏み入れると、庭に野菜が植えてあることを発見した。
詛いが始まる以前は盛んに行われていた国内の交易は現在では困難となり、各地域は町村単位での時給自足を心掛けるようになった。殊に農作物に関しては、市場に頼らず可能な限り自家栽培することが必要とされているのだった。
大陸の土が全土に渡り腐植質を多く含んでいた点は、たとえ「歌」の影響で少しずつ土地が痩せ始めたとはいえ、幸いであったといえる。
「・・・お腹空いたなあ・・・」
呟いてから、カシルは赤面して手で口を覆った。
カシルの前を歩いていたジークは振り返ると、
「そこにある物を好きなだけ穫れ」
と表情を変えずに言った。
穫れ、と言われても・・・。
カシルは野菜の前で立ち尽くした。
「あ、あの・・・」
「料理はしてやるから」
さらりとつけ加えるとジークは家の中に入って行った。
「・・・」
カシルは長身の後ろ姿の消えた玄関のドアを見つめてぽかんとした。
「・・・え?」
頭の中で、ジークの言葉が繰り返されている。
___料理は、してやるから・・・?
「・・・」
・・・ジークが?
「本当に?」
驚きがカシルの中を巡り終わると、笑いがこみ上げてきた。
彼のような、冷徹が過ぎて人間味の否定の中にあるような印象すら与える青年が料理とはあまりに意外でそぐわないように思えた。
とはいえ、彼に生活感を見出せたことで、カシルは同時に安心もした。
口元を緩めたまま、カシルは葉物一種と根菜二種を穫り腕に抱える。
ドアを開けると、短い廊下と、その右隣で上に伸びる階段が目に入った。
カシルは何の疑いもなく直進する。
突き当たりに近づいたところで左側にドアがあることに気づいた。
「ここかな?」
ノブに手を掛ける。
「そこは寝室」
あきれたような声が背後から聞こえた。
振り向くと、ドアの並びに通り過ぎたDKがある。
「あれ」
ジークはテーブルの前で微かに苦笑していた。
カシルは照れ笑いを浮かべつつ、扉の無いDKに入る。
「目が悪いんだったか?」
言葉の割にはジークの口調は優しかった。
「そうでもないんだけど、違うことを考えてて・・・」
「違うこと?」
「ああっ、何でもない! はいこれ!」
まさか先程の感慨を引きずっていたとは言えない。
ジークは手渡された野菜を眺めると、調理台に持って行った。
再び笑いが浮上してくる。
背中の奥をくすぐられているような、妙な感覚だった。
流水音が響き、それが止むと小気味よくまな板が鳴り始める。
少女は足音を忍ばせるようにしてDKを出た。にやついた頬の筋肉が戻らない。顔でも洗わせてもらおうかと辺りを見回し、ふと階段を見上げた。
ジークは奥の部屋が寝室であると言ったが、二階には何があるのか。そもそも、彼の親兄弟は共に住んでいないのか・・・。
カシルの胸に猛烈な速さで子供じみた好奇心が広がった。
引き返してDKの入り口に立つ。幼い彩りに染まった笑顔から、やや緊張したような声が発せられた。
「ジーク、あの・・・」
「家の中を見たいなら自由に」
「・・・う」
要望を言い当てられ、幼児性を見抜かれていたと知った少女は言葉を詰まらせた。
「あ、ありがとう」
気恥ずかしさに小走りで退室する。
心地好い調理音を刻みながら、ジークはちらりとその背を見遣った。
カシルはようやく落ち着きを取り戻し、少し急な階段を手摺りに掴まりながら慎重な足取りで昇り始めた。
不意に、その足が止まった。
「?」
一瞬、耳の辺りがピリッと刺激を受けたような気がしたのだった。
___何だろう?
耳を澄ますようにしながら階上を見上げる。
「ドクン」
突然、鼓動が高鳴った。
それが合図であったかのように、カシルの薄茶色の瞳に凛とした光が灯った。
___これは・・・。
カシルは感じていた。
細胞を針で刺激するような、それでいて、自然に溶け込んで肉体を潤すような、気を。
それは総量としては多大でありながら、カシルの許まで届くものはごく微量だった。
気の流れる方向が、彼女の位置とは異なっているからだ。
「でも、どうして?」
思わず声を漏らしたカシルは手摺りを握りしめた。
この現象は、特定の場にしか現れない。それは。
神術が、行われている場。
それも、この感じでは恐らくは膨大な霊力を労する大術だ。
カシルの指先が冷たくなり、小刻みに震えた。
感動にも似た緊張が足を重くする。抗うように一段を昇り___また一段を上がる。
階段を昇りきったところで戸惑うように立ち止まると、斜にある一つの部屋のドアを見つめた。
気のせいではない。
この部屋の中だ。
この中で、とてつもないことが起こっている。
部屋の前に立ったカシルはドアにそっと手を触れ、軽く押して開かないことを確認してから右耳を密着させた。
音、というほどのものは聞こえてこない。
ドアから耳を離し、隙間を覗いてみるがすぐに元の体勢に戻る。
カシルは立ち尽くしたまましばらく動かなかった。まさかいきなりドアを開けるわけにもいかない。だが、このただならぬ気が、神術師の血にさざ波を立たせている・・・。急激な迷いに触れた脳が空白化し、少女は判断力を失った。
無意識下に近い状態で、右手が伸びた。
音を立てぬようにノブを回す。神術師の選択が常識を圧したのだ。
蝶番が微かに軋んで扉が開く。壁と戸の媒が白い光の拡がりに変わってゆく。部屋の内部を窺えるだけの空間ができたところで、カシルは手を止めた。
心拍がいよいよ早さを増す。
少女は瞬きを忘れて眼前の光景に見入っていた。
部屋の上部には天井や屋根をも突き抜ける円形の大穴が口を開けていた。その穴を金色とも白色ともつかぬ煙が霧の如き水気を帯びてうねり通っている。
床に座した男の体から発せられる煙が。
男は眼球の突き出た目を閉じて割り膝し、その中央に組んだ両手を置いていた。その指は小指から中指までをそれぞれの第一関節の深さで組み、親指同士の指先を合わせ、中指の爪の位置に第一関節がくる程度に人差し指を開いている。口は半開きの状態で、乾燥した紫色の唇の隙間からも金白色の気体がすべり出ていた。
髪は総白髪、頬はこけ落ち、顔色はどす黒い。痩せた肩の中心から生える首は枯れ木を思わせ、全身微動だにせぬ様は男の真に生者であることを疑わせる。カシルの瞳に映った彼は、死の象徴であるようにすら思われた。
___凄絶___
カシルの脳裡に浮かんだ言葉はこの一語のみであった。
異様な光景を凝視していた眼が力を抜くと、時間の感覚が戻ってきた。
動感を喪失した手がドアノブを握り直し、ひねりを堅くしてから扉を引いてゆく。
トン、と、わずかに音がたった。
階段に足を降ろす。
意識の中で木製のきざはしは近いようでもあり遠いようでもあった___