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時吸歌  作者: 仙花
2/6

姿鬼

 異様な匂いが鼻をついている。

  濁った空気が息苦しい。

 呼吸ができない。

  呼吸が……。

「気が付いたか。」

  うっすらと開けた少女の目に映ったのは、黒衣の青年の顔だった。

  黒髪に映える木目細かな肌に金色がかった黒緋くろあけ色の眼が美しい。その瞳の放つ玲瓏たる光が少女を捕え、吸い込まんとしていた。

 彼女は細い丸太で出来た簡易ベッドから身を起こした。

  全身が汗でぐっしょりと濡れている。

  汚れた白い服と肌の隙間から熱気が昇っていた。

「起き上がって大丈夫か。」

 青年は冷然とも云える口調で少女に話しかけた。

  少女は大きな薄茶色の瞳で彼を見つめ、聴き心地の良い声を発した。

「はい。まだちょっと頭がクラクラするけど……大丈夫です。あの私……?」

 一体、どうしたんでしたっけ、と、不思議そうに呟き、辺りを見回した。古いコンクリートの壁に囲まれた小さな部屋の中で横たわっていたようだと気付く。

  青年は表情を和らげた。

「街道で意識が無くなっていたらしい。危うく馬車に轢かれる処だった。」

「……危なかったな……。」

  少女は頭に手を遣った。

  その途端、サッと顔色が蒼くなり、表情が強張った。

 彼女の頭部には白布が巻いてあった。それは旅の間中被っていた布であった。

「……あなた……この布、一度取った?」

  少女の瞳は微かに潤んでいた。

  青年は無表情で暫しその瞳を見つめていたが、やがて一言、

「取った。」

と言った。

「じゃあ……。見たんだ……。」

 少女は俯く。

「ああ。」

  青年は静かに答えた。

「時を吸われて、よく無事だったな。」

  言葉を続けた青年に、同情や憐れみの念は感じられなかった。しかし、そこには無神経に心に入り込まぬ優しさがあるように思われた。

「……。村で無事だったのは、私だけです。」

  少女はそう言いながらこうべから垂れる白布を取った。

  青い髪が病的に白い彼女の顔を奇妙に彩っていた。

「君は、僧侶か?」

  瞳に宿る光ひとつ揺らさずに青年は尋ねる。

「いいえ……。神術師です。もっとも、12の歳まで僧の修行を受けましたが……。」

  少女は恥じるように青年から顔を背けた。

「結界は張れるか?」

  彼女は眉根を寄せ、目を閉じて答える。

「……いいえ。」

「そうか。」

「私が助かったのは……時吸歌ときずいのうたが村を吸い尽くそうとした時、皆が……私だけでもと逃がしてくれたからなんです。私の村では神術師は私唯一人で……私は……彼らの、希望だったんです。」

  少女の口調は苦し気だった。

  不意に、一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。

  青年はそっと手を伸ばし、宥めるようにその肩に軽く触れる。

  少女は濡れた瞳を彼に向けた。

「私は……見ての通り……、“逃れ者”だよ?あなた、嫌じゃないの?」

「関係ない。」

  即座に答えた青年の低く響く声が少女の胸に染みた。

  気を保っていた細い糸がプツリと切れ、みるみるうちに彼女の眼に更に涙が溢れ出す。胸裡を熱く焦がす感情が全て溶け合い、形をなくして滴と共に流れ始めていた。

  青年は伏し目がちに少女を見つめる。……その時。

「……ィィ……」

  二人のいる小部屋の隣で奇妙な鳴き声が聞こえた。

  少女は両手で頬をこすりながら顔を上げる。

「そうか……。この街には、姿鬼しきがいるんだ……。」

「……そうだ。なまじ結界が張られているからな。」

「……。あ、そうだわ……。遅ればせながら、私は、カシル=ティーザ=ロウと申します。」

「ジーク=ディゼルだ。」

「十五歳です。あなたは?」

  青年――ジークは一瞬答えるのをためらった。

  カシルにはその理由が解らなかった。

  瞳に無邪気な輝きを甦らせつつ、彼を見つめる。

「―――十九。」

  無表情のままジークは返答した。

  カシルは彼を見つめる眼をやや大きく見開く。

「……十九?……そう。思ってたよりも随分若いんだ。……あれ、もしかして、そう言われるのが嫌だから教えるの戸惑ったのかな?」

  独り言のような問いを呟く彼女から、ジークはさり気なく視線を逸らした。

  カシルはくすくすと笑う。

  泣き跡がその笑顔に隠れた。

「ねえ、ジーク。」

  口調は完全に明るくなっていた。 彼女本来の性格が次第に姿を現し始めたのである。

「何だ。」

  ジークはペースを乱されたようだ。

  無感情であった語気に意識の色が加わっている。

「私ね……。姿鬼に会ってみたいの。ここは姿鬼の収容所なんでしょ?隣の部屋に行ってもいい?」

  敢えて試練を受けようとするかのように、カシルは力強く言葉を続けた。

            


 カザレフト国は四方をヴィエト海に囲まれた孤島にある。                                     

  面積約五十八万㎢、人口およそ五百二十万人。

  他大陸からの移民が集中した時代があり、人種は人口の割に雑多だ。

  この国の最大の特色は、宗教が育たなかった事である。

  その理由は、この国に存在する全能の精神体“イン”にあった。


  時を遡ること十五年前、ユーゼル地方の一邑里の住人が“イン”と負の契約を結び、カザレフト国全土を侵す大呪術を施行した。

  それは呪文を唱うることによって、呪術者の命が尽きるまで万物をかしり続ける、時吸歌と名の付いた呪法であった。

 この呪文に時を吸われた地は、存在するあらゆる物体―――大地、大気すらも―――を跡形もなく消し去られる。一時も休まることなく呪られた地の者全ての脳に直接送り込まれる呪文誦読の声に、人々は感じ得ていた静寂を忘れる。時を吸われる瞬間を待たずして呪文に心を吸われた者は気が狂い、“姿鬼(しき)”と呼ばれる変わり果てた姿と化す。

  時吸歌に対抗する術を行うことができるのは、“イン”と正の契約を結んだ神術師のみであるが、結界を張ることができる者が彼等の中でも数人いればよいといった程度が実情だ。

  “イン”との契約には二種類あり、精神則ち忠誠心を献上することによって結ばれるのが正の契約であり、生物を贄として捧げることにより結ばれるのが負の契約で、こちらは大体の地域に於いて治安秩序維持のため規制が敷かれているが、人間はこれらの契約を結ぶことによって“イン”から神通力を借り、何らかの術を行うことができる。

 僧侶とは、“イン”と正の契約を結んで賛美、祈禱を行い、“イン”に仕える者達のことであり、“イン”の名に於いて更に術を行う者を神術師と呼ぶ。

 僧侶が“イン”にただ仕えるのは、“イン”崇拝の度が高いためというよりむしろ、彼等がそうすることによって神術師と“イン”との結びつきを強め、神術師の術をより確実に行えるようにするためである。

  時吸歌が何時何処の時を吸うのかは完全に呪術者の気紛れに任されている。「歌」の強度も一律ではない。

 神術師が結界を張ることで、その範囲内の地域はたとえ矛先が向けられたとしても、時を吸われることだけは免れる。だが、結界を張ることにより人々は吸引の力に対抗して地にしがみ付く力は得られるが、術そのものへの抵抗力は得られない。

 それ故結界の張られている地では、「歌」が時を吸わんとして呪力の強度を増したとしても踏み止まることが可能となり、時は吸われなくとも心を吸われてしまう人間達が増加する。

 「歌」のターゲットにならなければこういった事態も起こるまいが、結界の張られた地は幾度となく狙われるのが必定だ。

  カシル=ティーザ=ロウが足を踏み入れたロザレの街にも結界の副作用が生じており、街の数箇所に姿鬼の『収容所』が設けられていた。


  白装束の裾を揺らしながら、カシルはゆっくりと小部屋の外に出た。

  饐えたような臭いが鼻腔を刺激する。小部屋にも漂っていたこの臭いはおそらく姿鬼の体臭だろう。

 黒ずんだコンクリートの壁、床、天井。小部屋から向かって左側に位置する鉄格子と、その中で五つに区切られた牢。窓は一つとして無く、ドアの無い収容所入口からの光と、天井の暗い小さな電灯が光源のようだ。

  カシルは変貌した『人間』に対する扱いに些か面喰らいながら、小部屋のドアの一番手前にある牢へ静かに歩み寄った。

  陰鬱な妖気のためか、個室の中が異常に暗く見える。緊張の目が視点を結んだ先に、奇怪に蠢くヒトの男性型の生物がいた。

「……これは酷い変貌ぶりだな。」

  背後で声がした。

  振り返ると、カシルより遅れてジークが小部屋から出、ドアを閉める処だった。

「ここまで元の面影を無くす者もいれば、心を吸われる前の姿が偲ばれる姿鬼もいる……。」

  ジークは静かに続けた。

  カシルは血の気が失せている自分に気付いた。

  小刻みに震える手を固く握りしめ、色の引いた唇から深い息を吐き出す。

  再び眼前の姿鬼を見据えると、鼻を刺す痛みに刹那を奪われた。

  乾いた泉であった眼に、うっすらと涙が滲んでいた。

  頬骨が変形し、左右のバランスが異様に狂った顔に浮かぶ、眼窩を覗かせるしぼんだ眼球の虚ろな瞳は、異質な恐怖と胸に迫る悲しみを呼び起こす。

  カシルはちらりとジークを見遣り、素早く眼を拭った。

  平静を装い、姿勢を正して次の牢へ足を運ぶ。

  瞳の端が骨と皮ばかりの体躯と、関節の構造を無視した動作を残像のように引きずった。

「おお?お前ら、まだいたのか。」

  突然、野太い声と荒々しい足音が割り込んで来た。

  見ると、錫色の作業服を着た短い栗毛の筋骨隆々たる大男が、細長い鍵のようなものを片手に出入り口に立っている。

  二人を馬車に乗せた男だ。

「今日入った姿鬼共を封印しなけりゃいかん。まったく苦労が多いぜ。」

「封印……?」

  カシルが訝るような表情をした。

「あっ、町長、先に入りますかい?」

「いや、君の後で……おや。」

  大男の陰に隠れていたベージュのシャツ姿の細面の男が出入り口の隙間から顔を見せた。

「ジーク。どうしたんだ?」

  親し気に声をかける。

「いや……。」

 大男が二人を交互に見る。

「なんだ、町長の知り合い?」

「そうだ。彼はジーク=ディゼル。ほら、アルクードさんの……。ジーク、この人はラゲル。収集と番を頼んでるんだ。」

「へぇー。アルクードさんの……え……?」

 ラゲルは明るい笑みを浮かべた顔を急に素に戻した。

「フーン。」

  不躾な目つきでじろじろとジークを眺める。

ジークは一瞬ラゲルと目を見交わしたが、気に留めた風もなくカシルの方に向き直った。

「カシル、彼は町長のエスター=フォルモだ。」

  ジークの紹介に、カシルは改めてラゲルの隣の男を見据えた。

  町長という役職の割にはあまりに若い。赤毛の奥で静かに光を映す茶色の瞳は落ち着いた印象を与えるが、張りのある肌は彼が二十五、六歳の青年であることを告げている。

「若輩者だが……、前町長である私の父が急死したのでね。」

  カシルの心を見抜いて先回りしたエスターの言葉に、彼女の顔は熱くなった。

  だが、「歌」に全ての民が体のリズムを狂わされている以上、彼のような例が生じる可能性は極めて高いのだ。

「ところで、その嬢ちゃんは何処から来たんだい。」

  ラゲルがそう言ってカシルを見た途端、エスターは彼を手で制し、ジークはその無遠慮な口を乗せた顔を軽くめつけた。

「え……な、何だよ、一体……。俺、何かまずいこと……。」

  ラゲルは口籠る。

「いいえ、別に!」

  カシルの方が気を遣って即答する。

「フーン、まあいいや面倒臭え。シゴトしちまうよ。」

  ラゲルは頭を掻きながら中に入って来る。

  腰に付けた鍵の束を外し、その内の一つの鍵を手に取って、小部屋から最も離れた牢の前に立つ。

  ふと、カシルは疑問を感じた。

  ラゲルはやって来た時から鍵は手にしているのだ。ただ、その鍵の先端は黄金色で、歪曲した枝のような形をしているため、錠を開けることが目的の物とは断定し難かった。そこへ、彼がマスターキーらしき外見の鍵束を取り出したということは、やはり牢の錠前を開けられるのは、そちらの方の鍵であると考えられる。

  では何故、彼はもう一本、鍵、しかも特異な見掛の物を所持しているのだろうか。

 彼女の疑問はすぐに氷解した。

 ラゲルは予想通り束の鍵の方を錠に差し込んで扉を開くと、檻の中に入った。

  カシルは牢の中が覗ける位置に移動する。

禁固されていたのは、灰色に褪色したツーピースを身に着け、白髪を振り乱した、蒼白い肌の痩せた女だった。

  カシルにはそれが自分と同じ馬車に乗っていた姿鬼とは知る由もない。

ラゲルは奇妙な形の方の鍵を自身の前に突き出した。

  女はその動作に反応して、灰色の目に狂気の色を塗り足す。

「ギィ――……。」

  やけに平べったい声が漏れた。

 ラゲルは女の胸を見つめ、奇妙な鍵を持つ手に力を込めると、それを彼女の心臓付近に一気に突き刺した。

「キエェ~……ギィッギィッ」

  女は目をむき出し、嫌な悲鳴を上げて痙攣する。

 ラゲルの手は問答無用とばかりに刺さった鍵を左右に廻す。

「キ……キ……」

 やがて、女の目が虚空を仰ぎ、上下する口から声に代わって空気が絞り出され始めると、痙攣も小さくなり、頭を垂れて微妙にひくつく程度になった。

  ラゲルが胸から鍵を引き抜くと、そのまま女は動かなくなった。

 カシルは女の胸と、その胸を刺し掻き廻したラゲルの手中の鍵とを交互に見つめた。どちらにも血液は付着しておらず、姿鬼の胸元は衣服に小さな穴が開いているものの、肌には傷一つついていない。

  鍵の先端部は肌に溶け込んで作用するように出来ているようだ。

「封印って、こういう事だったんだ。あの鍵は、神術師が作ったものでしょう?」

  カシルは呟くようにジークに言った。

「殺しちまえればいいのに、そういう訳にもいかねえんだよな。何たって『歌』のゴカゴがついてるからよう、姿鬼共には。」

  ラゲルが監房を出ながら不服を吐き出すように大声で言った。

  カシルの頬がぴくりと動く。

「御加護って何ですか。」

 冷静さを保つためセーブしたような、抑揚のない声だった。

一度ひとたび姿鬼と化した者は、不可思議なことに、『歌』を要するようになるんだ。『歌』が無くては生きて行けなくなる。そして、それに応えるかのように、『歌』の方も姿鬼を守りにかかるんだ……つまり、姿鬼を殺そうとした者の脳に、強度の『歌』を送り込むんだよ。」

  エスターが優しげな笑顔を向けて言う。

「だから、あの鍵で『封印』するんですね。彼らは放っておくと何をするかわからないから……。」

「狂暴化しているからね。下手すりゃ檻や壁も簡単に壊される。封印すれば、多少動くことは出来ても、殆ど抜け殻状態になるんだ。……君のいた所では、姿鬼は一人もいなかったの?それに、君……見たところ僧侶のようだけど、封印のこと、知らなかったんだね。」

  カシルの顔は真っ赤になった。鼓動が高鳴り、頭に血が上って行く。

「あ、あの……。」

  震える唇から上ずった声が漏れた。

  目を伏せたまま、暗誦するように言葉を押し出す。

「私の村には、昔、姿鬼が二人いましたが、彼らは争い合って、すぐに相撃ちで果ててしまったんです。それで……その後は、姿鬼は生まれなくて……。」

  カシルは、自分は神術師であると訂正すべきか迷った。

  しかし、結界も張れぬ上、封印のことも知らず、姿鬼の知識にも漏れがあるようでは、神術師として至らぬと言っているも同然である。

「……。」

  カシルの伏せた眼に翳が宿る。

  白い肌がくすんだように青ざめ、小柄な体が更に小さくなったような錯覚を呼んだ。

「うわああ!やめてくれえ!!」

  静寂を切り裂く悲鳴が突如として迸った。

「ラゲル!?」

  町長の声に、カシルは身体に緊張の芯を通す。

  ラゲルは先程の封印を行った隣の牢から転がるように出て来た。

  四つん這いになり、その巨大な体躯に似つかわしくない恐怖色を全身に浮き上がらせて町長の足元に這い伏せる。

「耳が、あ、頭が、割れる……!助けてくれ!」

  エスターはラゲルの変貌ぶりと、彼をそうさせた何かへの驚きと恐れで表情を無くしていた。

「待ってくれ、何があった……。」

「"頭領"がいる。」

  ジークの声が熱気の中を突き刺す冷気のように、混乱の空気の中を静かに通った。

「え?」

  ジークはラゲルが転がり出て来た牢の真前に立った。

  エスターとカシルも監房の中を覗き込む。

 二人の息が止まるのが、はっきりと見て取れた。

  陰惨な様相の収容所に於て、到底想像し得なかったものが――――

  美を超えた美が、そこにはあった。

  闇昧(あんまい)の中に居ながら鳥肌の立つ麗姿を思い知らされるのは、暗黒すら自らを妖しく映え立たせる粧として用いられているからだろうか。

  汚れたコンクリートの上に在っても雅すら伝わって来る。一目見ただけで、視神経が脳から独立し、思考回路が閉ざされる。

  尋常ではない……。

  鉄格子の奥には、そんな、恐怖すら感じさせる美貌の女が、琥珀色の薄衣に身を包み座していた。

「まれに……」

  ジークの発した低い響きに、町長とカシルは現実に引き戻される。

「恐ろしいほどの美貌をもつ姿鬼が生まれることがある……。その姿鬼には封印をすることが出来ない。『歌』が彼等に対してだけは封印の行為すら許さず、例の妨害をするからだ……。そのような姿鬼を、"姿鬼の頭領"と位置付けるんだ。彼等は高い知能を残存させていて、普通に会話することが出来る。ともすると、姿鬼と化す以前よりも知能が高くなっていることもある。彼等は一見したところ、『普通の人間』と区別がつかない。その美貌の並外れている点と、本能的に感知できる、得体の知れない邪気を除けばな……。」

 カシルは"姿鬼の頭領"から目を逸らしていた。

  彼女の瞳に刺されると、心の扉が硝子にすり替わったような感覚を覚え、胸裡が見透かされているような気になるのだ。

「でも、姿鬼になる前は、こんなに美しくなかったの?」

  ジークと目を合わせることすらもややためらいながら、カシルは尋ねた。

「おそらくな。」

 ジークは姿鬼を正視したまま答える。

  その涼しげな瞳が一瞬、苦痛を覚えたように翳った。

「……やはり、姿鬼だったのか……。」


「……え?」

カシルは耳を疑った。

「ジーク……」

  だが、言葉を投げかけた時、既に彼は監房を離れ、頭を抱えて這いつくばったままのラゲルのもとに歩み寄っていた。

  カシルもジークの後を追うようにラゲルに近寄る。

「大丈夫か。」

「……ああ、もうおさまったみたいだ。あの女を封印しようと近くに寄った途端、『歌』が頭の中でガンガン鳴り響きやがってよう……。本当に、割れるかと思った……。」

「鍵を刺していたら、本当にそうなって死んでいたか、あるいはたぶっていただろう。あの女は放っておくしかない。」

  ジークの淡々とした口調に、こいつには感情が無いのか、と言いたげな表情がラゲルに浮かんだ。ゆっくりと立ち上がり、

「俺も仕事柄、"姿鬼の頭領"の噂は聞いたことがあったんだが……実在するとはな。一体、誰があんなの放り込んだんだ。」

「自分で入ったのかもな。」

「え?」

  ラゲルとカシルは声を合わせた。

「錠が掛かっていなかったんだろう?」

  ジークが開け放たれたままの格子戸に目を向ける。

「……そうだ。閉め忘れやがってと思ったんだが……。無人の時にはもともと錠は掛けねえんだ。」

  エスターも同調する。

「確かに可能性は高いな。自ら扉を開けて、牢に入った、か……。」

「何の為に?」

 ラゲルの問いはみなの脳裡に共鳴した。

 ――――何の為に……。


 ジークは牢の中に視線を戻す。

 女の艶やかな赫い花弁が、笑いを形取った。

  寒気がジークを貫く。

「……カシル……。」

「え?」

 ジークは己の胸中の揺れを打ち消すように口を開いた。

「この後、行く当てはあるのか?」

  カシルは思い出したように不安げな顔になった。

「……ないわ。」

「なら、俺の家に来るか?」

「……いいの?」

「困った時はお互い様。」

  エスターが月並みな科白で割り込んだ。

  カシルは胸を撫で下ろす。

「じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとう。」

「よろしく頼むよ、ジーク。」

 まるで今まで自分が世話を焼いてやっていたかのようなエスターの口ぶりに、カシルは可笑しくなった。

 気質はすっかり町長に適応しているのだ。

「いやあ、それじゃあ僕も帰ろうかな。今日は収容所の様子を見に来ただけだったんだが、珍事に出くわして面白かったよ。」

「何が面白えもんかっ。さっきまで青ざめてたくせに、調子がいいですよ。」

  エスターとラゲルは空元気を振りまいた。

 和やかな空気を偽造して、漂う底知れぬ妖気のことを忘れたふりをしたまま、早急にこの場を去りたかったのだ。

「じゃ、俺もまた見廻りに出るかな。」

  腕を伸ばし、首をほぐしながら、ラゲルは先頭に立って収容所を出るべく歩き出した。

「あ、じゃあ、ジーク、行きましょう。」

  カシルはジークに視線を向けてから、町長の後について出入口を出る。

  ジークはすぐには動かなかった。

 最後尾のカシルが建物を出ると、微かに眉根を寄せ、何事かを思考するような表情になった。

「……ジーク?」

 表でカシルの声がした。

 暗い面持ちのまま、ジークはゆっくりと歩き出す。

「――――――お前に再び会う為だよ。」

「―――――!!」

  ジークは弾かれたように監房を振り返った。

  低く艶めいた声を、空耳だと思いたかった。

  だが、その思いを無惨に散らすように、闇の中の女は妖美な笑みを浮かべていた。








                               



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