序
街には死の影を気取った灰色が染み入っていた。
錆の匂いを含んだ風が、輝きを失くした樹木や建築物を嘗めて行く。
栄えを忘れた人間たちが、氷層に覆われた表情で力無く生き延び、苦痛に嘆く。微かな灯も消えかけ、切な気に過去を至福の夢と魅せる。
大気すら澱んで色褪せた地を、絶望が魔の手の如く支配していた。
切れ目の無い雲が空を這う、いつもと同じ暗い昼下がりだった。
その姿を瓊姿と呼ぶにはどこか禍禍しい、妖麗なその女は、生命の枯れ落ちた細い木の下に何をするともなく立っていた。
奇蹟のように透き通る雪白の肌、滑らかなアーチを描いた眉、長い睫に覆われた、深き水の如き黒茶色の瞳……。濡羽色に輝く長い髪は艶めかしく流れている。
男は、橋を挟んだ向こう側で美貌を曝す女を、見つめていた。
聞こえて来る音は足下を流れる浅い川のせせらぎのみ。その仮初めの静寂に、彼は一時唸り響く苦の音色を忘れかけた。
「ガシャンガシャン!」
不意に、酷くアンバランスな轟音が響き渡った。
男は我に返って街道に目を向ける。
その瞳の端で、木の下の女が身を翻す姿を捉えた。
男の足は僅かに震えたが、女を追う一歩には至らなかった。深く息をつき、男は騒音のする方向を振り返った。
細細とした奇妙な金属に覆われた馬車が豪快に街道を走って来る。特殊合金で出来た、栄耀栄華の時代の遺品馬車であった。
――――収集車か……。
派手な走行音を立てて過ぎ行く馬車の姿を、男は暗い眼差しで見送った。
御者は巨漢の男が一人、馬車内部の窓には檻が取り付けてあった。
男は馬車の過ぎ去った方へゆっくりと歩き出す。
「ギァ――――――!!」
歩みを向ける方向から、奇妙な悲鳴が聞こえて来た。
次いで野蛮な怒鳴り声がする。
「……らっ、さっさと乗りやがれ!!」
見ると、先程の大男が御者台から街路に降り立ち、その太い腕で一人の蒼白い顔をした長い白髪の女の細い腕を摑んでいた。大男はそのまま女を馬車に引き上げ、乱暴に中へ押し入れる。
「ギィ―――――ッッ……」
女は窓の檻を摑んで揺さぶった。食いしばった黄色い歯の間から響く奇声が灰色の空気を引き裂く。
「うるせえ!俺だって頭いかれそうだ!黙って入ってろ!!」
大男は御者台に飛び乗ると、馬に鞭を与えた。
嘶きが始動する機械音に掻き消される。距離を置いても耳障りな音だった。
事の成り行きを無表情で静観していた男は、足を止めて背後を振り返った。ひとつの感情の色が甦り、そよとの風に秘められる。
独り立つその姿は、土壌に溶け込むかとさえ思われる暗色を帯びていた。
男は再び歩を進める。
しかし突如、その動きは鈍り、前方を見据える眼だけが不審の光を走らせた。
既に瞳に小さく映る馬車が、金属の車体を痙攣させるかの様に揺らして急停止したのである。
続いて例の大男が周章して地に飛び降り、身をかがめて何事かを調べ始めた。その仕種に動揺を認め、男は馬車に向かって足を速めた。
「……やべえ。」
近寄って来た男に向けて、というよりはむしろ独り言のように大男は呟いた。
彼の足下に、一人の少女が倒れていた。
「……轢いたのか?」
男が静かに尋ねた。穏やかながら、底深さを感じさせる、低く、しかし若い声だった。
「分からねえ。……この女、はじめから倒れてやがったんだ……。」
大男の貌に浮かんでいた狼狽の色が次第に苛立ちに変わっていくのを感じながら、男は少女の全身に視線を走らせた。
少女が身に纏っていたのは白装束であった。それが泥や砂にまみれ、汚れている。所々破れてもいるようだ。
しかし、これは道に倒れた為、または馬車に轢かれた為と想定できるものではなかった。
幾日にも渡る旅による汚れであった。
「なあ、よそ者だよな、こいつ?」
大男が言わずもがなの事を言った。
男は膝を折って少女の呼吸と脈拍を確認すると立ち上がって、
「大した外傷はない。頭を打った様子もないな。」
ほっと息をつく大男に、もう一言が加わった。
「但し発熱している。介抱する場が欲しい。」
大男の表情が一瞬歪む。
「馬車に乗せてくれって言ってんのか?」
「そういう事だな。」
「中にはアレが一匹いるぜ?」
「御者台が広い。」
男の些か遠い言い回しが、逆に相手に有無を言わせぬ力を放っていた。
面倒な事は御免だ、と、この災難からの速やかな解放を願っていた大男を、責は逃さなかったのである。
親指を御者台に向けて、大男は乗るように合図した。
心中と同様の渋面を露わにし、彼は少女を抱えて座席に乗り込む男を眺める。
「おう兄ちゃん、だが俺は収容所にしか行かねえぞ?」
「かまわない。」
返答は常に淡白だった。
大男は張り合いをなくしたのか、御者台に腰を据えてから後は一言も言葉を発しなかった。
大袈裟な走行音が苦悶すべき悪しき音を蹴散らさんとするが如くに強がりつつ、馬車は生気の萎えた街を再び駆け抜け始めていた。