その9
(9)
腕時計が9時少し前を指すと、研究室を出て講義の行われる教室に向かった。教室
では女学生の団体がベチャベチャとお喋りをしていた。教卓の上に教科書を開くと挨
拶をしてから講義を始めた。女学生達は講義が始まっても一向にお構いなくお喋りを
続けていた。
藤本教授はチラチラと腕時計を気にしながら講義を進めた。智遊との約束が気にな
ってしまって講義どころでは無かった。講義を行う身でありながら、早い講義の終了
を願う学生のような気分だった。
腕時計が十時十五分を指すと、適当に話を締めて講義を終了させることにした。い
つもは時間ギリギリまで講義を行っているので、学生達の間からは感嘆の声が上がる。
拍手をしている学生さえいた。たかが十分くらい早く終わるのがそんなに嬉しいのだ
ろうか。そして、学生達にニッコリと笑いかけると教卓の上の教科書類をカバンにし
まい足早に教室を後にした。
校舎を出ると、急いで研究室に戻り帰り支度を整えた。時計を見ると十時三十分。
約束の時間までは残り三十分。別に早く講義を切り上げる必要は無かったのだ。しか
し、あの心理状態ではダラダラとした冴えない講義になっていたに違い無い。そんな
ことを考えながら帰り支度を終えると研究室を後にした。
藤本教授は研究棟を出ると急ぎ足で正門に向かった。胸がワクワクして何だか遊び
に行く途中の子供のような気分だった。ずっと昔、まだ子供だった時に感じた事のあ
る懐かしい気分だった。
約束の正門には二十分前、つまり十時四十分に正門についてしまった。しかし驚い
た事に、そこにはすでに可額智遊の運転する赤いスポーツカーがあり、傍では智遊が
煙草を吹かしながら退屈そうに車に寄りかかっていた。智遊は藤本教授の姿を見ると
ニッコリと微笑み煙草を捨てて近付いて来た。
「先生、済みません。変な事をお願いしてしまって」
智遊はペコリと頭を下げた。
「いやいや、別に構いませんよ。それよりも可額さんは随分と早くから待ってたんで
すな。まだ時間があるのに」藤本教授は腕時計を見ながら言った。
「あら。でも、それは先生も同じでしょ?」智遊は笑いながら言った。
「まあ、それもそうですな」
「それでは、参りましょうか。車に乗って下さい」
智遊は車に乗り込んだ。藤本教授もそれに習って車に乗り込むと、シートベルトを
締めた。今度は一人で出来た。それを見ると智遊は満足そうに微笑んだ。
「それでは出発しましょ」
智遊は微笑むと、ゆっくり車を走らせた。