その7
(7)
それから1時間ほどかけて藤本教授は可額智遊の車で自宅のある玉造まで送られた。
「先生、今日はありがとうございました。こんな時間まで付き合わせてしまって申し
訳ありませんでした」智遊は言った。
「なに、構わんよ。来週もしっかりと講義に出るように」
藤本教授は初めて教授らしい事を言った。そして、車から降りる。智遊はニッコリ
と微笑むと手を振って車を走らせ去って行った。
可額智遊の乗った赤い車が角を曲がってしまうと、見送るのを止めて家の中に入っ
た。家の中は9時過ぎだと言うのにひっそりと静まり返っていた。家内にすでに眠っ
てしまっているようだ。今年の春に大学に進学した一人娘は何処で何をしているのか
まったく家に帰って来ない。或いは帰って来てるのかも知れないが会わない。藤本教
授はリビングにお茶の用意がしてあるのを発見すると、独り寂しく席に着いた。
お茶を飲み終えて食器を流しに置くと、その足で書斎へと向かった。部屋のドアを
ガチャリと開けると電気をつけて机の上にカバンを置く。沢山の書籍が並んでいるこ
の書斎はお気に入りの場所だった。ここにいる時、藤本教授は心の底から落ち着く事
が出来た。
「よっこらしょ」
すわり心地の良い椅子に笑顔で腰をおろすと今までの出来事を振り返ってみた。
可額智遊か…キレイな子だ。ん?いやいや、そうじゃない。
と邪念を振り払うように首を振った。扉、あの無用の鍵に合う扉があるかも知れな
いのだ。こんな事って…。藤本教授は再び興奮に包まれた。もし、扉が見付かりでも
したら、わしは間違いなく有名人。有名人!そしてテレビカメラに囲まれる自分を想
像した。そして隣には可額智遊がいる。
「エヘヘ…」
顔がひとりでにニヤけるのが分かった。そうだ!こうしてはいられない。慌てて机
の引き出しを漁った。確か、あの鍵に関する資料はこの引き出しにしまっておいたは
ずだが…と必死に引き出しを漁った。しかし、見付からない。
「何故だ!」
藤本教授は絶望した。自棄になって引き出しの中身を全て床にまき散らす。やはり
資料は見付からない。「ハッ!」その時、不意に思い出した。あの論文を学会で発表
し終えて家に帰って来た後、わしは…。わしは怒りに任せて資料を全て焼き払ってし
まったんだ!
「うおー!」藤本教授は雄叫びを上げた。うおぉぉぉ!
「どうしよう…」
思わず弱音が漏れる。今から全てを再び調べ直すとなると。確かあの論文の資料を
集めるのには2年近くかかっているのだ。現地に調査に行って細かいメモを取ったり
何日も国会図書館に缶詰めになったり。
「うおぉぉぉ!」
再び雄叫びを上げた。近所で飼われている犬がワンワンと騒ぎ立てる。どうしよう…
藤本教授は思った。その途端、可額智遊の残念そうな顔が脳裏に浮かんだ。智遊は恨
めしそうな表情をして目を細め何かを罵った。
「ああっ、ああっ」
泣き出したい気分だった。こんな時は…こんな時は、さっさと布団に入って眠って
しまうのが一番だ。『困った事があった時はとりあえず寝てしまうのよ。それから落
ち着いて考えなさい』と母親からも教わっている。
藤本教授は背広を脱ぐと下着一枚になって固い床にゴロリと横になった。柔らかい
布団で眠っては可額智遊に申しわけ無い気がした。自分を戒める思いで風呂にも入ら
ずに眠りについた。
その晩、藤本教授は久しぶりに夢を見た。霧の薄く立ち込める見覚えの無い森のよ
うな場所を一人きりで歩いていた。『ここは何処だろう?』などと考えながら歩いて
いると不意に誰かに呼ばれた気がした。キョロキョロと周りを見回すと少し前で可額
智遊が全裸でこちらを手招いていた。金色の鍵だけが智遊の胸元で輝いている。
「先生、早く来て下さい。扉が、ここに扉があります」智遊は嬉しそうに言った。
確かに智遊の居る場所には写真で見たのと同じ扉が在った。呼ばれるままに急いで
智遊の元に行こうとした。しかし、思うように足が動かない。
「先生、何をしてるんですか?早くしないと先に行きますよ」
智遊は首のネックレスを外すと鍵を鍵穴に差し込んで回した。『カチャリ』と云う
乾いた音が静かな森の中に響いた。
「ちょっと、待ってくれ。何だか思うように足が動かんのだよ」藤本教授は叫んだ。
しかし、智遊はそれを聞き取れないかのような表情をした。
「先生、良く聞こえません。先に行きますよ」智遊は言った。そして扉のノブに手を
掛けて、そっと引いた。扉は音も無く開いた。
「先に行ってるから後から絶対に来て下さいね。絶対ですよ」
智遊はそう言い残すと扉の向こう側に行ってしまった。すると、それを確認するか
のようにガチャリと扉が閉まる。藤本教授はその『ガチャリ』と云う扉の閉まる音を
聞くと何故か背中に鳥肌がたつのを感じた。可額智遊の身に何か悪い事が起こるよう
気がして激しい不安を覚えた。
「待ちなさい、可額さん。わしがそこに行くまで待っていなさい。ひとりで行っては
いかん!」藤本教授は叫んだ。しかし、智遊は返事をしない。あらん限りの力を振り
絞って進もうとするがやはり身体は言う事をきかない。後少し…後もう少し。しかし
残り数歩と云うところで扉は少しずつ姿を消し始めた。
「待ってくれ、可額さん。もう少しだから待ってくれ」藤本教授は叫んだ。そして必
死に手を伸ばして扉のノブに触れた。冷たい金属の感触が手に伝わる。しかし、それ
も一瞬の事だった。扉はまるであざ笑うかのように姿を消してしまった。伸ばした手
は空しく宙を掴んでいた。
「先生、どうして来てくれないのですか?凄いよ、物凄く素敵な所よ。早く来て」
智遊の興奮したような声が森の中に木霊した。
「何処だ。可額さん、何処に居るのですか?」藤本教授は辺りを見回しながら必死に
叫んだ。涙が頬を伝っていた。
「先生、私はここにいますよ。ほら、先生の目の前じゃない。私が見えないですか?」
智遊の楽しそうな声だけが聞こえる。
「駄目だ。可額さん、そこにいたら駄目だ。早く戻って来なさい」藤本教授は叫んだ。
しかし、智遊は返事をしなかった。それから何度、呼び掛けても返事を返してこなか
った。急激な絶望感に襲われガックリと膝を落とした。
「駄目だ、可額さん。そこにいたら駄目だ…」
藤本教授は下を向いたまま一人呟いた。とめどなく涙が頬を伝わった。可額智遊は
消えてしまったのだ。もう二度と、あの笑顔を見る事が出来ないのだ。
「うおぉぉぉ!」藤本教授は叫んだ。今までに無いほど激しく叫んだ。そして、自分
から可額智遊を奪った扉を心から憎んだ。涙を流しながらいつまでも叫び続けた。