その1
(1)
藤本教授はヒヨコに蹴り飛ばされて目を覚ました。しばらくの間、ヒヨコはそのま
まの状態で静止していたが、やがて何かを思い出したように壁の隙間に入って行き見
えなくなった。
ヒヨコが去ってからしばらくの後、藤本教授は目を開いた。そして、軽く頭を振っ
て眠気を取り払うと教科書を読み上げた。今は授業の最中だったのだ。教科書を読み
上げながら、藤本教授は何やら周りの雰囲気がおかしい事に気付いた。辺りはシーン
と静まり返っている。しかし、良く見るとおかしいのは辺りだけではない。今、自分
が見ている教科書も様子が変だ。何やら霧に包まれているような感じがする。
『ここは何処なんだ?教室じゃないのか?』
藤本教授は教科書を閉じると、霧の中に向かって輝かしい一歩を踏み出した。
すると、ドスン!自分の前が階段一段分くらい下がっている事に気付かずに空段を踏
んでしまった。口から心臓が飛び出るほど驚いたが気を取り直して転倒しなかった事
を神に感謝した。自分に何か良い事があると『それを神様のお陰なのだと思いなさい』
と子供の頃から母親にしつけられている。
一通り神に感謝するとうつむいていた頭を上げた。霧は、ますます濃くなっている。
『こりゃいかん』と思い大声で助けを求めようとしたが緊張と混乱のせいで声は声に
ならず、先ほどヒヨコが入って行った隙間の中に吸い込まれていった。藤本教授は心
から隙間を憎んだ。何かをこんなにまで憎むのは久しぶりの事だった。そして、同時
に助けてくれない神をも憎んだ。
「わしは…わしは、もう死ぬのだろうか」と思わず弱音がもれる。すると、今まで感
じていた怒りがフワリと抜け、しばらく辺りを徘徊した後、ヒヨコの入って行った隙
間に吸い込まれて行った。気のせいか、隙間が怒りを吸い込む時、一瞬だけ光り輝い
たように見えた。『怒り』の『り』の字がスッポリと隙間に吸い込まれてしまうと、
頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。
「……先生……藤本先生」
何処からか自分の名を呼ぶ声が聞こえる。ああ、もう駄目かも知れない。幻聴まで
聞こえてくるとは…。藤本教授は耳を塞いで頭を振った。死にたくない、わしはまだ
死ぬわけにはいかないのだ。
「……先生……藤本先生」声は再び聞こえた。
「うわー!止めろ!止めてくれー」藤本教授は、あらん限りの力を振り絞って叫んだ。
その時、肩に何かが触れた。
「ヒィー!」
藤本教授は教授らしからぬ声を上げると尻もちをついてしまった。そして、霧の中
に立って自分を見下ろしている声の主に向かって命乞いをした。
「お願いです。こ、殺さないで…」
「あの、先生…先ほどから何を?」
驚いて顔を上げると、声の主はこちらに向かって何かを差し出している。
「こ、これをわしにくれるのか?」
藤本教授は差し出された物を素直に受け取る。
「くれるも何も…これは先生の眼鏡ですよ」声の主は答えた。
わけも分からないまま与えられた眼鏡をかけた。すると、瞬時に目の前に広がって
いた霧が晴れ、赤いジャケットに身を包んだ女の姿が見えた。女は目をパチパチさせ
ながら、藤本教授を見下ろしている。
「き、君は?」
「私は学生ですよ。まだ授業中なんですけど」
「授業…ここは一体、何処だ?」
「先生、寝ぼけてらっしゃるのですか?」女は笑いながら言った。笑みをこぼしてい
る女はなかなかに美しく、藤本教授は頬を赤らめた。
「ところで、他の学生は?」と照れを隠すために訊ねた。
「みんな帰ってしまいました。先生が眠ってらっしゃる間に」女は答えた。
「君はどうして残っていたのかね?」
「私、先生の授業好きなんです」女はボソッと答えた。
「えっ?」
好きなどと急に言われて思わず鼓動が高まる。
「どうかなさいましたか?」女は不安そうに言った。
「いや。何でも無い」
「ところで…」女は恐縮そうに言った。
「何ですかな?」
「先生は先ほど何をされていたのですか?突然、神に祈るような格好をしたかと思え
ば壁の隙間を睨んだり、大声で叫んでみたり」女は笑いながら言った。
「い、いや、あれは…その…つまり…」藤本教授は赤くなりながら、しどろもどろ答
えた。
「まあ、いいです。私が自分だけの胸に収めておけば済む事だし」
女は自分の胸の辺りを手で押さえた。それを見た純情な藤本教授は再び顔を赤らめ
た。
「その代わり…」女は口を開いた。
「何でしょうか?」
「ひとつだけ私の望みを叶えて下さい。ひとつだけ」
女はしゃがみ込むと人差し指を伸ばして、藤本教授の鼻に触れた。
「望みですか?」
「ええ、そうです。私の長年の望み」
女は立ち上がると言った。藤本教授も『よっこらしょ』と立ち上がる。
「わしに出来る事ならば何なりと言って下さい」
「先生はいつも何処で昼食を?」
「何故ですか?」
「詳しい話は食事をしながらでもと思いまして。今から行けば1時過ぎくらいには着
けるかなぁ、よい店があるんです」女は腕を組むと言った。
「分かりました」藤本教授は返事した。今日の講義はこれで終わりなのだ。
「ありがとうございます。では先生は正門の前でお待ち頂けますか?私が車をまわし
て迎えに参りますので」
女はポケットから車のキーを取り出して藤本教授の目の前で軽く振った。車のキー
が照明の光を受けてキラキラと光る。
「分かりました」
「それでは失礼します。また後ほど」
女は机の上にあるカバンを持つと教室を出て行った。後に残された藤本教授は立ち
去る女の後ろ姿をしばらく眺めていたが、教卓の荷物をまとめると自分も教室を後に
した。