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炎刀奇譚  作者: Sio
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第8話 黄泉からの使者

男は寝室の布団の中で魘されていた。

やがて夢を夢だと思い切った男はその迷夢から脱出することに成功する。これが夢なのだと、自分が目覚めればすべては済むのだと気づけば後は簡単だった。

がばっ。

布団を蹴って起き上がり、あまりに心臓に悪い夢を見たと早鐘を打つ胸に手をおいて何度も荒い呼吸を繰り返した。

「……まったく、何と言う夢見の悪さだ」

落ち着き始めた心臓にほうっと息を漏らす。

雨樋に打ちつける雨や風の激しさに気付いたのはそれが収まってからのことだった。

「あれのせいか」

自分の夢見の悪さが外の嵐に影響されたものだと男は結論づけた。

深夜にその荒々しさを剥き出しにした嵐にまぎれ、時鐘が時刻を十一時と告げる。

今日は朝から降り続いていた雨で外出する気にもなれず、家の中でずっと過ごしていた。

さりとてやることもなく手持ちぶさたに時間ばかりを無為に消費していた。

彼には歳の離れた妻がいたが、所詮貴族には珍しくない家同士の結婚で愛情などあるはずもなく、無事に跡継ぎができた後には繋がりらしい繋がりはなくなってしまった。彼自身もそれは当然だと思っていたから大して気にはしなかったが、同職の者の中には家の反対を押し切って身分差のある相手を妻に迎え、その後は運良く昇進もし、順風満帆な家庭と仕事で充実した日々を送っている者もいた。

それと比べるのは許しがたいものがあったが、それでもそれなりに気になるところはあった。

相手側の家の後援なくして昇進ができるものならばこんな結婚などしなかった。結婚後の好きでもない妻との嫌味の応酬につき合う気も、それに伴う不快感も感ぜずにいたのではないか。

「ふん。胸くその悪い」

積み重なった不快感を思い出し、男は鼻を鳴らした。あんなものは思い出すだけで積もるだけ。不快感の悪循環だ。

割り切ったところで枕元におかれた水差しに手を伸ばし、杯になみなみと注いで一気に煽る。もの足りずもう一杯飲むと、喉の渇きは大分薄れた。

喉が湿ると今度は小腹が空いていることが気になった。

女中でも呼んで何か軽めの食事を持ってこさせるか。

水差しの横におかれた呼び鈴に手をかけ、それを振ろうとして男はその手をとめた。とめざるを得なかった。

襖の向こうに何やら動く物がある。大きさや気配から察するにそれは明らかに人影だった。



――何故、貴方のネコは苦しんでいるの?

四肢に絡みつく深紅の陽炎。それが連想させる思い出したくない忌まわしい記憶。

金錆臭い血溜まりに横たわる黒猫。

花が咲いたように、鮮やかな血溜まり。

――助からない怪我をしてしまったから。

――何故、助からない怪我をしてしまったの?

――それは……。

この言葉は口にしてはいけない、と遠い場所にいるもう一人の自分が告げる。それは正しいことだと自信を持って言えるから口にしない。……けれどそれが絶対かと尋ねられると容易く揺らぐだけ脆くもある想い。

――貴方のシロが苦しんでいるのは、シロ自身のせいなの?それなら仕方がないわね。

自業自得ならばそれは当然だと、声音が語っていた。

世の中にはどうにもならないことがある。ましてや、自ら招いたことならばすっぱり諦めなさいと、まるで母親か何かのようにその声は翠子に諭す。

違うよ。それだけは否定できる。

シロが怪我をしたのはシロのせいではない。シロは何も悪くはなかった。

感情が一瞬ですり替わる。

そうだ。悪くなかったのだ。

シロは、まったく悪くなかった。

……シロが苦しむ理由はなかった!

ドロドロした熱をもった何かが心の底から沸き上がる。一気に質量を増やした深く重い感情がそこで渦を巻いている。

何もかも飲みこむ勢いで。

それでもどうにかそこに落ちないように――落ちてしまえば簡単に戻れないと感じていたから――その場で踏ん張っていたが、落ちないことばかりに集中していた自分の背を後押しする手があろうなどとはまったく予期せぬことだった。

トン、と軽く押す力。

ぐいっ!と強く引く力。

足場が崩れる。深淵の奈落が眼下に広がる。

底の知れない昏い闇を内包した世界がそこにはある。

引っ張られる。逆らいがたい吸引力が手の中にある。

飲みこまれる、戻れない。引きずられる、体ごと引きずられている。

――瀕死の傷を負った貴方のネコの代わりに、貴方自身が黒猫になるのよ。

黄泉からの御使いとあだ名される黒猫。

自分が黒猫になる?死に神になると言うのか?

――他でもない貴方が獄卒の真似事をして何が悪いの?

――獄卒の真似事……。

頭が朦朧とする。朦朧とする意識を奮い立たせようとすればするほど、それは混迷する。

意識を集中しようとしても、何者かの介入でもあるのか、頭の中はいいように引っかき回されるばかり。まとまるものもまとまらない。

――何を今更善人ぶっているの?……貴方だって、そう思ったくせに。

胸を突く言葉。

そして次の瞬間には、しまった、と激しく後悔した。

押し寄せる憤怒と憎悪。

それは一瞬こと。

次の瞬間には意識下の攻防に彼女は敗れていた。見透かされた心に動揺して、手の中の異物から意識の目をそらしてしまったがために。

なけなしの意識で保っていた境界線の向こう側に、彼女は足を踏みこんでしまったのである。



目の前に自分の進路を塞ぐように立ちはだかる襖を疑問に思うことなく、左手で払いのけると、その先には一人の男が布団から上半身だけを起こした姿でこちらを見ていた。

顔には恐怖が色濃くある。

ふと男の布団の脇におかれた杖が目に入った。

翠子は口端をつり上げた。襖を開け放った左手を柄にそっと添える。

刀は初めて手にした時の手に馴染む感覚は勿論のこと、今ではその重量感すらどこかに消えていた。まるで初めからそこには何もないかのような空虚さと稀薄さ。

「なっ、何者だ……っ!」

じりじりと後じさる男に翠子は笑いかける。布団から少し離れた場所におかれていた灯籠が薄ぼんやりとした灯りを投げ、そこに浮かんだ氷のような笑みを照らし出す。

「三日前、桜の大路で黒猫を嬲られたのはあんたでしょう?……わたしはその黒猫の飼い主」

一瞬何のことを言われたのか、この状況を少しでも整理しようと必死に回転する頭の中で男は突然現れた少女の言葉を反芻した。

三日前。桜の大路。

黒猫……。

さして気にとめることもなく忘れかけていたその記憶が浮かび上がる。

「あ、あれはネコが突然飛び出してっ。そそ、それに嬲ったのは御者をしていた者……ひぃいっ!」

壁際に追いつめられ、剣先を鼻先でちらつかされた男は悲鳴を上げた。ひんやりとした鋼がそこを掠める。血が流れることなく、まるで神業か何かのように皮一枚が切れただけだった。

その剣先は寸分の震えすらも見受けられない。

「貴族さま、嘘は泥棒の始まりと言いますよ。黒猫はあんたの馬車と距離を保って横切ったと、何人もの人間が言っている。それに、わたしのシロを嬲れと言ったのは、御者の主のあんただったとも」

事実を淡々と口にする様は、逆に男を総毛立たせる。

「……ご安心召されませ。その男も捜し出して貴方と同じ目に遭わせて差し上げましょう」

がらりと口調が変わった瞬間、男は娘と眼があった。

焦点の合わない目。それでいて、こちらを飲み込むような底の見えない闇。

「寂しい黄泉路の道行きにも共連れが一人できて、はずむ話もありましょう」

酷薄な笑み。そこに迷いがないことに男は脱力した。

「わ、わたしは都、都王にも目通り叶う身だぞっ」

つまりは、大貴族なのだと言いたいようだ。

「――だから何?」

口調こそ、始めに戻っただけだが、その言葉に明らかな感情の揺れがあった。悠然としていた態度は消え、さきほどまで彼方においてきたような感情が表面に現れる。そこには昇華されることのない怒りがあった。

「あんたにシロが傷つけられる理由はどこにもなかったっ!!」

振り上げられた刀が柱木に突き立てられる。それは男の頭のすぐ上だった。

「命冥加な」

舌打ちをして、柱木に埋まった刀身を引き抜き、この期に及んでまだ逃げる気力のあった男の後を追う。

杖もなしに這うようにして逃げおおすとは、何と素早い保身のとりようかと半ば呆れる。シロは逃げることもできずに打ちのめされたと言うのに、どうしてこの男ばかりにわずかなりとも好機がもたらされるのか。

「誰か!誰かあるっ」

男の叫び声は雷鳴にかき消された。何度叫べども、その度に風が雨樋に激しく打ちつけたりと、都合良く男の声はそのけたたましい音達にまぎれる。

まるで今の男の有様を嘲笑っているかのように。

「様はないわね。……きっと天神様もお怒りなのよ。罪もないネコを嬲ったあんたにね」

翠子は低く喉をならして笑った。

人気の払った夜であること、音の漏れない嵐であること。

この手に馴染む刀があること。

すべては自身の復讐が果たされるために用意されたものだと疑えない。

「逃げないでよ」

ゆったりとした所作で一歩一歩、男との距離をつめていく。

怒鳴った瞬間に手が誤ったがそれはそれ。次の一薙ぎに心を砕けばいい。

第一、たかが一振りで終わらせてやる気は毛頭ないのだから。シロを苦しめただけの代償はその身で償うべきなのだ。

「死してその罪、贖うがいい」

這って逃げるだけの男に立ち上がる力はない。足の悪い男に杖のないことは致命的だった。

男は愕然せざるを得なかった。

人払いをしているとは言え、側仕えの女中の何人かは呼べば聞こえる距離にある控えの部屋につめているはずなのに、主である自分の異変や声を察して訪れる気配はない。

この嵐のせいかも知れないが、それがすべてだと言い切ってしまうこともできない気がする。

ならばやはりこの状況は、天神が示したる自分の未来なのだろうかと。

自分が貴族であることはこの少女の前では塵芥の如きもの。それは自分が嬲るように命じた黒猫の命をその程度だと思っていた自分自身と大差ない。

自分でもその重さは余るはずの刀を簡単に持ち上げ、振り薙ぐ少女を見上げて男は目を瞑った。

枕元のすぐ側、床の間に大小の刀をおいた刀置きがあったが、年のために足が悪いこともあったが、剣術などはろくに鍛錬もしていない男にとって、所詮室内の置物の一つでしかなかったのである。



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