第5話 昏き畔
鐘が鳴る。夜に鳴らされる鐘はとても小さくて聞き逃すと今が何時なのかを誤る。
「……九つ、十、十一。もー十一時かぁ」
思わず数を数えてしまった翠子は自分の頭を軽く殴った。今は呑気に時鐘を数えている場合ではないだろうに。
最後にシロに薬をあげたのは間借りした部屋を出てくるすぐ前だったから、そろそろ一時ほど経過した計算になる。外出の旨は家主の女性に告げ、薬が切れて暴れるようなら、あまり使いたくはないが、鎮痛薬を飲ませるように頼んだ。
治ることは無いと言われても、体を治すための薬を四時間ごとに飲ませている。薬には鎮静剤も混ぜてあったが、それだけでは足りず、別に独立した鎮静剤をもらっていた。
駆け込んだ先の獣医はそれを使うかどうかは飼い主である翠子に委ねた。
弱った体で鎮静剤の大量摂取は体そのものに負担をかける。残り短い命を削ることを承知で使うか、否か。
今までは、苦しみ藻掻くシロを押さえつけるだけだった。
「刀を探さなくちゃ……」
とは言いつつも、扉一つを閉めただけでこうも周囲の様子が一変するとは終ぞ考えていなかった翠子にとって、この現状は自分の暴走の結果としても、なかなかに後悔するところもあったりしたのである。
窓一つない真っ暗闇な部屋。息苦しいまでの重厚感。
ここは工房であるはずなのにそれらしい雰囲気がしないのは気のせいか。
雨風の音も聞こえはするがその距離はどこか遠いような気もする。その証拠のように先ほどまで漂っていた濃密な水の匂いは欠片も感じられない。
我知らず精霊の助力に頼っている己に翠子は自嘲した。自分が契約を結んだ相手でもないのにまるで自分のもののように思うのは間違っている。
要らないと言いながら、都合良く利用している狡い人間だと我が身を非難する。
閉めきられた室内に突如風が現れ、ふわりと翠子の髪が流れに向かってなびかせた。
「何で風が……」
風上、風下の両方に視線を投げたがそこには変わらずに闇が横たわっている。
工房のどこに何があるかなどまったく知らない。そもそも工房に出来上がった刀を収蔵しているかどうかさえ危うい。
「刀がある確証も取ればよかった」
全てを勢いに任せてここまでしでかしてしまったが、考えれば考えるほど随分強引なことをしたと思う。更にそれに窃盗罪が加わるのだから憲兵に捕縛されるのはまず間違いないことだ。
それから先は想像するだけで気が滅入るので考えなかった。来るべきところまで来てしまったのだから後戻りは無理。開き直って前進するのみ。
「――壁伝いにでも移動してみるかな」
まるで時針のように行き先をそちらだとばかりに誘う風に、どちらに行くべきか迷った彼女だったが、取りあえず風上に向かって歩き出した。
その選択基準は呆れるほど行き当たりばったりなもので、風の入りこむ場所には壁の一つでもあるだろとの推測からだった。
髪が逆立つのを鬱陶しく思いながら一人闇に足を進める。
「願わくは刀の元まで、ってね」
触れられるかどうかなど二の次だ。予想に違わず、この身に被害が及ぶとしてもその時はその時に考えるより他ない。
「お願いだから……見つかってよ」
独り言でも口ずさんでいなければ押し潰れそうなほどの重圧が支配する闇の中で、翠子はたった一人きりだった。
漸く水精の呪縛から解かれた静紗は嵐の精達をつついて遊んでいる火精に詰め寄るなり彼女に問いただした。工房内の異変は、少女がその中に消えた時点で彼の知るところにあったのだった。
「レンカっ。彼女をどこへやった!?」
水精の中でも気性の荒いはずの嵐の精も、さすがにその筋では随一である火精には敵わず身を寄せ合ってぶるぶると震えている。自分を恐れる様に加虐心をそそられたらしく、嬉々としてそれをつついて遊んでいるのは、彼と結縁を結んだ火精たる女性。
彼が水精の呪縛から無傷で解き放たれたのも、主人を縛する不遜な嵐の精に対する彼女の脅し――もとい、助力があってのものだった。
「レンカ!」
人の話を聞かないところは渦中の少女と大差ない彼女に静紗の苛立ちばかりが募る。
何度目かの静紗の呼び声に耳を貸す火精の美女――名はレンカという。
この二人が対峙する図はまさに眼福としか言いようがない。
〈ほほほ。何もそういきり立ちなさいますな、静紗殿。そなた様にお痛をいたした愚か者は、今頃相応の罰を受けている頃でございましょうよ。気の利く妾に、感謝のお言葉でも下さいましな〉
どこまでもその行為に誤りはないのだと疑わないレンカに、静紗は目眩を覚えた。
彼女はその性が故か、時折物事をやりすぎる気がある。しかもそれに反省をするならばともかく、その気配が皆無だから手が悪い。
静紗自身、どこを間違ってこの人物と結縁してしまったのだろうかと自問する時は一度や二度ではない。
「今すぐやめろっ。彼女を傷つけることは許さないぞ!?」
〈――ほう。これは、これは。珍しきお言葉を頂きましたな。成程……。これは逆に手を抜けなくなりましたのう〉
静紗の言葉に婉然と笑う火精はその目を三日月のように細めた。そこに宿る光は怯えた水精を怖がらせている時と寸分変わらない。つまり遊んでいるのだ。
〈けれどお忘れなきよう。妾はそなた様と結縁をお結び申しましたけれど、そちらの命に従うか否かは、その時その時の妾自身が決めること。此度のことでは、そなた様の命を聞くつもりはございませぬよ。それにそなた様とて、元より刀を譲る気などなかったのでありましょうに〉
静紗の秀麗な顔がこれでもかと強張る。そこからは血の気も引き、蝋のように真っ白だった。
一時の気紛れから、それも一方的に結縁を押しつけてきた火精はどこまでも自己本位で過去に何度も静紗を困らせてきた。それでも一度結んだ結縁は切れず、まして彼の方にもそれには踏み切れずにいるために本来は友好的であるはずの関係はここまで複雑になっていた。
「レンカ、きみは何をっ」
〈下賤な人の分際で妾や仲間達に触れようなど無礼千万。ましてやそなた様の意志を無視してその刀を得ようなど、身の程知らずも甚だしい。これだけの罰、その身を焼いて当然のことにございましょうや?〉
服の裾で口元を押さえつつ、そこから漏れる忍び笑いを残してレンカはその場から姿を消した。消えたその後も明らかに何かを含んだ笑いを残して。
取り残された形の静紗は荒々しく頭をかき、何事かを思案する。やがてふと首を巡らせて言った。
彼の結んだ結縁が故に得た感覚が告げる。
あそこには相容れぬ者達がいると。
「……水精達。まだそこにいるんだろう。いるなら出てきて力を貸してくれ。きみ達とは結縁を結んではいないが、反省しているなら、僕を縛した代価を支払ってくれ」
姿を見せず躊躇い沈黙する彼らの踏ん切りをつけるべく、一呼吸おいてから最後の一言を付け足した。
「最季の翠子を助けたい。手を貸してくれ」
そろそろと姿を現し出す水精達。顔を見合わせながら自身の姿を現し出した彼らは、刀工の真剣な表情に気圧されつつも、ゆっくりとではあったが、しっかりと頷いたのである。




