第12話 月下帰路
刀に亀裂が走る。それは瞬く間に刀身全体に広がり、異様な音を立てて砕け散った。
見たこともない折れ方だった。
折れたのではなく、小さな欠片になって砕けたのだから。
キラキラと煌めく鋼の欠片の向こうに一人の少女が現れたのは次の瞬間だった。
狂うように泣き叫ぶその姿を放っておけるはずもなく、静紗は急いで歩み寄った。
「ああぁぁ――――っ!」
顔を手で覆い、うずくまって狂ったように泣き叫ぶ。
何が起きたのか、全てを理解しきったわけではないが、ともかくそうなるだけの何かがあったのだと思った彼は少女を落ち着かせようとなだめにかかった。けれど本人も錯乱に近い状態で、そんな当人も持て余していることを他人の静紗にどうこうできるものではなかった。
それでも彼は彼女の名を呼び、少しでも早い落ち着きが取り戻せればと思った。
今、彼女の流す涙が悔し涙でもなく、純然たる深い嘆きによるものだとどこかで感じとっていたから。
「翠子。何も言わなくていいから、ゆっくりと深呼吸をするんだ」
まるで獣のような唸り声が喉から漏れる。嗚咽を飲みこもうとしてるのだ。
それが痛々しくて静紗は膝をついて片腕で少女を抱き締める。もう片方の手は刀身を失い柄だけになった刀を握っていた。
足元に散らばる鋼の欠片。
打ち直した後に腕の良い研ぎ師に出したこともあって、それは小さな破片になっても一つ一つが鏡になり得るほどの曇り無い様子を残している。
それら無数に映りこむ自身の虚像達に静紗はほんの一瞬だけ視線を投げた。すぐに外す。
元はと言えば打ち直しの作業を安請け合いした自分に責がある。
打ち直しの刀は因縁深いものがほとんどなのだ。
確かに手入れが行き届かずそうなることもある。または原料の鋳造技術の粗末さや、量産による故意の混ぜ物などで強度を伴わず簡単に折れてしまう場合もある。
しかしその中でも、刀が刀としての意味を遂行して後、打ち直しにまわされる場合もあるのだ。
人斬り。
やむにやまれぬ事情から、言い訳にすらきかない悪行まで。
けれど、どんな理由があれ、他者に害成すことを彼自身は認めていなかった。
例え刀そのものの元々の存在理由が、そうであっても、彼が作り出すのは人に愛されるもの。美醜を問わず、持ち主に正しく愛される業物。
決して、そんな刀を打つつもりは無かった。
だが、結果を見ればどうだろう。
自分は、刀が自分の元に回されてくる前に辿った、それの由来を確かめもせずに打ち直してしまったのだ。
人を含めて、命ある者のそれを奪ったものは、須く因縁深い。
時として、その因縁の深さ故に、それらに使われた刀は当然の何らかの遺恨やら怨念やらを刀身に抱えこむことが一部では知られていることだった。
そして人に仇なすとされ、そういった経緯を辿った刀達は人斬りの刀を専門に鎮魂、浄霊する宮司がいる社に預けられる。しかる手順を踏み、癒されて後、ものによっては打ち直しに出されるのだ。
彼が打ち直しを依頼された漣蛇はそれらすべき手順をしていなかったのだ。
それは依頼した相手側もすでになされたものとして持ちこんだものであったし、彼自身もそれを疑わずに引き受けたのである。
それがすべての始まりだった。
六年前に一人前の刀工として許された、鋳門宗家が主催の展覧会に出展を前日に控えて起きたあの事件。
彼が籍を置いていた宗家の久地家を自らの意志で出奔してきた理由。
打ち直し、依頼人に届けたその数日後にその家の家人の一人が魅入られ、凶行に及んだ。
仮にも刀工と名乗る者が打ち直しの作業に際し、刀の鎮魂浄霊がどれほど重要で大事なものであったかをまざまざと知らされた。
自分が精魂込めて打った刀が人を傷つけるとは想像していなかった。それが意志に反したものだとしても、それの一端を担ったのならばそれで十分だった。
情けなさと悔しさ。
自身の甘さに対する怒り。
起きるべくして起きてしまった事件に、納まりきらない想いを抱えたまま一門に居続けることもできず、今も世間から隠れるように都の外れに居を構えている。
いつか一門の敷居をくぐれることを祈りながら。
その踏ん切りはまだつかないが、いつかきっと、と願わずにはいれない。
「……」
「え?」
片腕で抱き締めた少女からくぐもった声が聞こえたが、何を言ったのかは聞き取れなかった。
数拍ほど余白の時間が流れて、やっと聞き取れるだけの声量になる。
「……刀、壊しちゃった」
「……ああ。でもこれはきみのせいじゃないよ。きみが戻ってくる前に壊れたんだから」
翠子は顔を起こして首を振った。
潤んだ目をのぞきこみながら静紗は訝しげに腕の中の少女を見つめる。
「シロがね、大きくなってあたしのところに来たの。すごく大きくて、熊みたいだった。でね、その刀がね、宙に浮いててあたしを狙ったの」
憤りと悔しさ。
それと深い深い、嘆き。
自分は人殺しのために生まれたわけではないのだと、それは語っていた。
翠子にはそれが何を指すのかわからなかったが、それでもその刀が自分に対して怒りを覚えていることはわかった。
だからあの刀は自分を狙っていた。罰を与えようとしていたのだ。
翠子自身もまったくの身に覚えもなさそうな雰囲気でもなかったので、どこか他人事のような意識でそれを受けいれるつもりだった。
誰もいない部屋に一人でいるのは辛いから。シロがいなくなる現実は耐えたくもなかったから。
シロが失われる漠然とした現実は受け入れ難く、その先のことはまったく考えられなかった。
けれどあの瞬間は違う。それでもいいと、思っていた。
「でもね、シロが助けてくれたの。シロがその刀を噛み砕いたの。ばきばきって」
彼はその行為によって翠子との決別を選んだ。彼女が身を寄せて甘えるのを認めていたが、それでもシロは彼女を突き放すことに決めた。
そこまで彼を追いつめてしまったのだ、知らずに。それが悲しかった。
黒水晶―邂逅の時は翠色だった両目が告げる別離の言葉。
後追いは許さない。絶対許さない。
それで翠子のことを想う者が、翠子のように嘆くのが何故わからないのかと。
その身は嫌と言うほどの苦しさと辛さを味わったのに、それを他人にまで与える気なのかとも。
痛みは連鎖する。苦しみも連鎖する。
痛みは耐えればどうにかなる。けれど苦しみは埋め火のように、心の片隅で燻り続け、永遠に責め苛む。
それを想って苦しむのは自分とお前だけで十分じゃないか。
痛いのは辛いことだけれど、それを他者にまで押しつけて良いはずがない。
わかっている。そんなこと、わかっている。でも――。
理性でそれが正しいことだとわかっていたって、心は引き裂かれそうに痛いし、窒息してしまいそうなほど息苦しい。
甘えさせて欲しいとすがる目を向けた先には、魂すら凍り付かせる冷徹な瞳があった。
そんなことをするのなら、翠子がそんな愚かな選択をするのならば自分は翠子を好きでいるのをやめる。嫌いになる。
それは嫌。シロに嫌われるのは絶対に嫌だと思った。
「ごめんなさい」
目を閉じてあらゆる想いをこめて翠子はそれを口にした。
最愛のシロに。
砕かれた刀に。
――そして迷惑ばかりかけしまったのに、優しく労わってくれる刀工の青年に。
涙は枯れてしまったのか、ゆるく瞑られた目からこぼれることはなかった。
嵐が過ぎ、風と共に消えた雨雲は煌々と輝く月を残していった。その下を翠子と静紗はゆっくりとした足取りで歩いている。
向かうは翠子が間借りしている家。つまりは帰路についているのである。
静紗はその見送りに、この時分では何かと不用心だと翠子についてきてくれたのだ。
その道中で静紗は翠子が刀を壊した原因は自分であると言う言い分の根拠を求め、翠子はそれを説明した。逆に彼女は刀に襲われかけたときに向けられた負の感情の理由を彼から聞いた。
それに要した時間はほんのわずかなものだった。
別に急いてのことではない。
確かに翠子には急く理由があったが、それはもうどうでもよくなりつつあった。今帰ろうとも、一時間後に帰ろうとも事態はさして変わらない。すでに定められた事象を辿るだけなのだ。いや、すでにそれは完遂しているに違いない。
単に話が会話にならないだけなのだ。始終、お互いの間にあるのは稀薄な沈黙。場を重苦しくするつもりは双方ともないのだが、何故だかどちらともなく押し黙ってしまう。
ちゃりん。
ふと、硬質な何かがぶつかり合う音がした。
立ち止まって音の震源地を捜すが、それらしいものはない。周囲に目をやってもどの家も戸を閉めて寝静まっている様子。
顔を見合わせ、首を捻り合ってから歩き出す。数歩歩くと再びその音は聞こえた。
ちゃりん、ちゃりん。
別々の場所からそれは聞こえた。どうやら音の震源地は一つではなかったらしい。
今度は足を止めることはなかった。音がどこからするのか、わかったからだ。
てくてくと歩きながら互いに自分の服を弄り出す。
ほぼ同時に、二人はそれを見つけた。
小さな鋼の欠片を二つずつ。それは件の妖刀の破片に間違いなかった。
刀が砕けた拍子に巧い具合に服の中に潜り込んだのだろうと結論づける。
ひとまず翠子は自分の服から出てきた欠片を青年に渡す。それを受け取った静紗は、懐からハンカチを取り出して丁寧にくるむと、それを懐にしまい直した。
「破片になっちゃったけど、どうするの?」
至って素朴な疑問を投げかける彼女に静紗はわかりやすく説明する。
「鋳造にまわすんだ。そこで新しく刀の原料に生まれ直す。まあ、この刀には少し曰くがあるから、その前に宮司のお払いを受けなければならないけれど……」
「生まれ直す……」
静紗は頷く。
「鋼だからね。たとえ折れても、砕けても火に入れてしまえば溶けて一つの塊に戻る。それを使って再び鋳物を作るんだよ」
手間も時間もかかるが、それは壊れても蘇る。生まれ直すのだ、灼熱の炎の中で。
「――死んだ人を火葬にするのも、そんな理由かな」
じっと見つめてくる翠子に彼女が何を言いたいのか、何となく理解した青年は少し考えてその質問に答えた。視線は都王の住まう御所場に続く道を見据えたままだった。
「昔は大地に返す意味で土葬の方が一般的だったね。火葬するにも燃やすものの算段とかしなければならなかったし。今は……衛生も考えて火葬されているけれど、それだけに理由を押しつけるのも何だとも思うしね」
理解不能。
隣からそんな雰囲気がありありと伝わってきて彼は小さく笑って続ける。
「陳腐だとは思うけれど、人は特別な理由や意味合いを欲しがるのは常だと思うよ。だからね、単に周囲への衛生や何やで火葬するのではなくて、火葬することによってそれを何かに展開させるんだ。例えば木を燃やせばどうなる?」
突然の質問返しに翠子は一瞬きょとんとする。軽く数拍置いてからそれが自分に対する問いかけであったことに気付いて慌てて答えた。
「え、えっとね、木は炭になる」
「そうだね。それも正解だ。じゃあこういう質問にはどんな答えが出るかな。……木を燃やしたときに空に昇るものは?」
「煙」
「そう。煙」
まるで言葉も危うい子供のような扱いをされ、どこか腑に落ちないものを感じながら翠子はあくまで聞き手を演じる。何故かそうしなければならないような気がしたのだ。
大事な何かを聞き逃してはならないと。
「遺骸を焼くときに空に昇る煙はね、焼かれた遺骸に宿っていた魂が姿を変えたものだと言う人もいる。それって、単なる気休めの言い伝えだとしても、見送る側にとってとても救われた気持ちにならないかな?」
さわさわと冷気を含んだ風が頬を撫でた。
「それとね、これは僕個人の考えだから聞き流しても良いんだけれど」
一呼吸を置いてから紡がれる言葉は一言一言は波紋のように初めは小さく、徐々に大きく、その輪を広げていく。ゆっくりと時間を置いて染み渡るように胸の奥に浸透する。
あれだけ荒れ狂っていた心は何事もなかったかのように静かな時を刻んでいる。
「煙に姿を変えた魂が安らかな憩いの地がある天と、僕達の生きる地上を行き来する風にもなったと思えば、例え生前の姿が消えてしまったとしても、目に見えぬ風になって、彼らは側にいてくれると思うよ」
それともきみのシロは、何年も一緒にいたきみを顧みないほど薄情者なのかな。
ふるふると首を振る。
だってシロは優しい。
「だったら会いに来てくれるよ。姿は見えなくなってしまっているけれど、それでもどこかに、側に気配を感じることができるのならそれで十分だろう?きっとそれはきみが死ぬその時まで続くのだから」
そこには永遠がある。手に入らなかった永遠が生まれる。
きっと、絶対。
そこにはシロがいる。
もしかしたらすでに、ここに――。
咄嗟に振り返ってみると柔らかな風がすぐ横を通り過ぎていった。
空を見上げれば月がある。その側にはちぎれ雲がいくつも浮かんで、流れている。
風が動かしているのだ。
「僕の見送りはここまでにしておくよ」
いつの間にか立ち止まったせいで、同じ歩調で並んで歩いていたはずの青年は十歩ほど離れた場所に立っていた。
こちらに向かってそう言うと、次に懐を探る仕草を見せた。
何をしているのかと小首を傾げた翠子に、広がった距離を埋めた静紗が懐から取り出したものを彼女の目の前に出した。
それは見事な綾の織物に金糸や銀糸をふんだんに使った遠目にも値の張る代物とわかる細長い包み。
「手を出して」
「えっ?わ!」
困惑する様子など無視して、手を出すように要求する彼に当然の如くその展開についていけなかった翠子はろくな反応を返せずにいた。そんなことは見ればわかるはずなのに、それをまったく無視して手の中のものを落とした。
反射的に出た手がそれをキャッチしたことは人生でも滅多にないくらいの運の良さと素早さだったと肝をこれでもかと冷やしながら思った翠子である。
まったくもってぞんざいな扱いを受けた筒状のものに目を落としてから、「ん?」と小さく唸った。
布越しとは言え、中に仕舞われたものの形状は独特であった。
すぐに何が仕舞われているか推察のついた彼女だった。
「……小刀?」
確認するように静紗を見上げる。
「欲しがっていただろう?」
「あ……うん」
でも、その役目はなくなってしまった。
間に合わなかったのなら、初めから側にいてやれば良かったのではないか。
そんな実に今更な想いが胸に渦巻く。詮無い後悔ばかりが次から次へととりとめもなく浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。
ぽんと、固くて大きな手が頭におかれた。仄かな温もりと共に優しく撫でてくれる。
「――僕も今更なことだと思う。けれど例え動物であっても、殺しの為に刀は譲れない。これは僕自身の譲れない一線だ。それがきみの恨みを買おうとも」
僕の譲れない一線だ。それがきみの恨みを買おうとも」
「恨むなんて……」
強く否定したかった。けれど、かすかに残る棘のような醜い心は欠片なりとも生まれていなかったわけではない。
どこまでも一方的で自己本位な感情はどう隠しても、隠しきれるものではない。
「自分でも反吐が出るほどきれい事だけと思うけれどね、今だからきみに渡せると思うんだ。何故かね……」
今だから。
欲する理由が失われてしまった今だからこそ。
「僕の都合ばかり上手くいってから渡すようで申し訳ないけれど」
返そうとする気配を先読みして、それを拒否する。
彼には見てみたかったのだ。全てが過ぎた後で、欲するものを得て、彼女がそれから先をどうするか。
上演される残酷な遊戯を観客席から見つめるような、部外者的な余韻が心を掠めるが、どうしても知りたかったのだ。
「――一応、ね」
今にも消え入りそうな掠れ声が月下に響いた。




