第11話 幻惑の黒獣
元々その刀は打ち直しにまわされてきたものだった。
長い間、刀を管理するものがなく放置されていた為に、こまめな手入れがいる刀は研ぎ師も手に余すほどの手入れの悪さと言うことで彼の工房にやって来たのだ。
刀を拵えた刀工の腕は彼が見てもなかなかのものだったが、古刀の部類に入るそれは、当時の鋳造技術の低さから、刀にしては不純物が多く残る鋼に仕上がっていて、鋼そのものに補強を兼ねた打ち直しが必要でもあった。
その無名の刀工の腕を惜しんだ静紗はできる限り、作り手の面影を残しつつも修復することにした。
刀工は単に刀打ちだけではなく、打ち直しもする。一般の職業刀工であれば、後者が彼らの生計を支えるほどその比重は重かった。その種類も一振りの刀の直しから、家庭で使われる包丁を研ぐまでと、刀工の範囲から研ぎ師の仕事にも及ぶこと、実に様々である。
芸華院や芸修院にでも属さない限り、それら雑務とも呼べる依頼を受けることが日常的な刀工達――鍛冶屋と称する方が幾らも相応しい――にとって、それで十分大事な仕事だった。
その打ち直すと言う作業は刀工には珍しくない作業だったのだ。かく言う静紗も、一門から外れて以来、生計を立てるために、ごく限られた知り合いからの打ち直しの依頼を受けている者の一人だった。
それが慢心だと言うのならばそう。少なくとも彼自身は不可避の現実があっても、そうだと思い続ける。
そして今も、その慢心が命取りになっていた。
ボタボタと刀身を伝い、流れ落ちる鮮血。
見惚れるほどの鮮やかさから意識を取り戻したのは、血が肺に入って息ができなくなってからだった。
呼吸のままならないもどかしさと、酸素を求めて本能のままに繰り返される荒い呼吸。新たな酸素を求めて開いた口から、肺から逆流してきた血が溢れ出す。口の中一杯に広がった言葉にできない鉄臭さと嫌悪感で体に震えが走る。
口から血の塊が吐き出される。
「――漣蛇」
大人しくなったふりをしてまんまと自分を油断させ、この身に突き刺さった魔刀を苦痛に歪んだ顔で見下ろす。両手はむき出しの刃を握り締めていた。
さる社にご神体として奉納されるはずだった刀。
それが人の血に汚されたのは一人の刀打ちとして苦しくなるほど悔やまれる。
胸に埋まった刀身が伝える、訴える記憶。
奉納されるためだけに打たれ、ただの偶然か刀工の技量か、一つの作品としての神気をも得て、後は自らの為に設えた場所に納まるだけと言う算段になって、物盗りの集団に奪われた。
その時に刀を取り戻しに物盗り達に対峙した社の宮司や村人、それに刀の作り手であった刀工自身も、彼らがその生まれを望んだ刀によってその命を奪われた。
刀は土地神の代理として彼らの平穏を約束し、彼らを守るために納められるはずだった。
しかし現実は血生臭い惨劇を産み出しただけだった。
邪な精や神は光を反射する物を嫌い、逃げていくと云われる。
彼らの村は稀に見る凶作続きだった。こつこつと蓄えていった食料も、数年にも及ぶ凶作に穀物庫を空にしていった。
宮司が村に良くないもの留まり、それらが度重なる凶作を招いているのだとして、同村に住む一人の鍛冶屋に社に奉納する破魔の刀を打つように命じた。
鍛冶屋は自分が打つ刀が例え人々の噂に上るような名刀にならなくとも、村の衆の心の慰めにでもなればと宮司の言葉を受け入れ、何日も小さな工房に籠もって刀を打ち続けた。
鋼の刀身に渦巻く怒り。その奥にある嘆き。
「漣蛇……」
口端から血が泡になってまとわりつく。少しでも焦って言葉を紡ごうものなら、血の塊は肺から迫り上がり気道を埋める。呼吸を困難なものにする。
固くなった手の平は刀身をがっちりと捉えていた。そこから滴る血はない。
刀は引くことによって対象物を斬るのだから、ただ握るだけであるならそれは可能である。けれど常人がおいそれと真似できるものではない。刀工としての経験ならではの離れ業である。
鍔がガチガチと鳴る。
柄と刀身をまとめる目釘が弛み、それが微動して耳障りな音を立てる。
足元の血溜まりの海に膝をつく。
出血の多さに体から一切の熱が失われていく死に近づく感覚をこれでもかと味わいながら、それでも彼は刀をその体に埋めたまま、刀の中に捕らわれた魂の行方を捜した。
愛猫の引導を自らの手で行うことを誓って、力ある刀をと、この嵐の中一人で都の外れまでやって来た少女の魂を。
刀を求める言葉に偽りはない。
彼もはぐれになったとは言え、かつては先行きの明るい者の一人と目され、打つ刀一振り一振りにその時の熱情を注ぐことを忘れたわけではない。例えはぐれになろうとも、根本的な何かが変わったつもりはなかった。
彼女の口から放たれる言葉は鮮明な映像を彼に投げかけた。
初めて見た刀の目を奪われる美しさ。
鋼の光沢、滑らかさ。鋭敏さの中に宿る炉に焼かれた熱と温もり。
それまで掛け軸のような平面上の空間しか見たことのない者の、立体の空間の有する独自の世界を感じたときの驚き。それらは普段の生活で嫌と言うほど見慣れているはずなのに、その時になって改めて見つめ直した。
息を飲み、目を見開き、雷に打たれたような痺れが四肢に走る感覚。
心が震えた。
すべては真実だった。
口に上る言葉にされれば陳腐で、けれども五感に語りかける生きたものへの感動は彼さえも圧倒されほど豊かなものだった。
巧妙に隠された嫉妬や羨望さえも、決して自尊心を煽り立てるようなものではなく、複雑な形をした一つの好意のように感じられる。
恐らく他人ではそれは不可能だろう。彼女だから、そう感じさせることができるのだ。
あの目はあの魂は他に同じものを見出せないほど稀だ。
水の精を朋友とするが、それらよりも雷精の方が彼女には似合う。
いや。水の精よりも嵐の精よりも、彼女の存在は火に近い。
鋼を溶かすほどの熱と勢いを内包した苛烈な火。
炎だ。
自分が初めて美しいと思えた炎とよく似ていた。
「翠子……戻るんだ」
きみにはするべきことがあるのだろう?
目を赤くしてまで、その身を危険に曝してまで望んだこと。求めたもの。
「――翠子」
どれほどの痛みを抱えて彼女は自分の家の戸を叩いたのか。その決断がどれだけの勇気と、恐怖を伴ったものだったのか。
「漣蛇……彼女も痛いんだ」
剥き出しの刀身を握る手に力をこめる。手の平に血が滲むことはない。
これは幻。
たとえ、肉をかっ捌く感覚や、その先に収まる臓腑を弄ぶ感覚が気を狂わせるほどに生々しくとも、それは嘘だと五感よりも鋭敏なものが告げる。
騙されるな、と。
一時の驕りと罵られようが、そんなことは構いやしない。
打ち終えた刀に手慣れた残心が見出せずにいたことを悩んでいたが、そうであっても、この刀が自分の手によって拵えられた事実は拭えない。拵えた以上、そこに残る癖は、形が残っている限り消えるものではない。
熱い火鎌の中で、燃えるような生を与えたのは、誰か。
形、重み、感触を今の姿にしたのは自分。借り物を源として、刀家の静紗が打ち直した刀だ。
上脇腹の奥に、火をねじ込まれたような熱と激しい脈動が集中している。
意識を逸らせば、途端にそれに足をすくわれそうだ。
これは、嘘ではない。これは現実に起こっているのだと……。
けれど。
〈静紗殿っ!〉
〈静紗様っ!〉
重なる声。
二人こそ、本物の火の化身。
刀鍛冶の馴染みの友にして、彼には友以上に近しい存在であった。
〈ああっ!何ということを!〉
〈おのれっ、御霊の分際で何たる狼藉かっ〉
荒ぶる二人の火精の出現に驚いたのか、それとも彼の心の言葉か通じたのか、ほんの数瞬、刀に籠もった力が緩んだ。
それを見逃さず、精紗は息を詰め、歯を食いしばる。
そして彼は胸に埋まった鍔なりのやまぬ刀を、ゆっくりと引き抜いたのだった。
大型の獣が唸るような咆哮が聞こえる。
何故そんな声がするのか不思議に思えて首を巡らせた。
その途中ではっとして反射的に後ろ振り返ると、十歩ほどしか離れていないあたりに鈍色に輝く刀身が浮かんでいた。
それはこちらをしっかりと捕らえている。
動けばそれで命取り。
ジリジリとした何かが肌を焼く。まるで火精でも側にいるかのように、露出した肌が痛い。
グルルル。
再びその咆哮は耳に飛びこんできた。
まただ。あの声は一体どこから……。
半ば無意識に周囲に目を向けていた。
ひゅん!
「あ……っ」
声を上げるがもう遅い。体は動かない。動いたとしてもこの至近距離で逃げ切れる可能性は知れている。
翠子は強く目を瞑り、その瞬間を待つしかなかった。
――ばきっ。
尋常ではない音が鳴り響く。更にそれは続いた。
――ばきばきっ。
何が起こったのか、恐怖心よりも好奇心がわずかだが勝った。恐る恐る目を開けると、視界には宙に浮いた刀はなかった。
代わりに熊の如き巨体の純白の獣が一頭。
何が何だかわからず呆然とするばかりだった。
目に映る後ろ姿はすらりとして、その体躯の重量を感じさせない。体から溢れる野生は体の大きさと相まって、一層の威圧感をあたりに放出している。
けれど。でも。
グルルルッ。
首が動き、それは彼女の方に顔だけ向けた。
くりくりとした鮮やかな翠の目。
「……お前、シロ、なの?」
獣は口から刀の残骸を吐き出して喉を鳴らした。そして人懐っこく翠子の元に擦り寄った。
「あたしはお前を殺すよ。恨んでも良いから。いくらでも恨んで良い。あたしの勝手でお前を殺すんだもん」
決断を口にするのは、そうしてしまえばもう後戻りができなくなると思ったから。
その場に膝をついて座りこんだ翠子の顔を大きな舌でシロは舐める。
「ほんとはね、恨んで欲しいよ。そしたらお化けになって逢えるもん。化けネコって言葉があるくらいだから、簡単でしょ?」
太くなった首に腕を絡ませ、ふさふさの真っ白い毛並みに顔を埋める。たとえ外見や体毛の色が変わったとしてもシロはシロのまま。甘えれば、容易くそれに応じてくれる。
「こんなに大きくなれたんだから、化けて出るくらい簡単だよね」
きゅっと腕に力をこめる。シロは暴れない。
まるでこちらがあやされているようだと翠子は思った。
「うふふ、やっぱりシロは白かったんだねぇ」
他愛ないことをあれこれと言っては、一人でつっこむ。傍目には実に馬鹿らしいことだろう。
どれくらいの時をその逞しい体に抱きついていたのか。時間感覚がひどくあやふやだと翠子は思いながら、シロの毛皮に埋めていた顔を上げる。
ずっと引っかかっていた物が取れて、あるべきところに行きついた。
そんな気持ちだった。
そしてそれは、翠子が抱えていた悩みをあっと言う間に溶かし、彼女自身が見つけた答えに結びつける。
「……シロは、いなくなるわけじゃないんだよね?」
だったら自分は。
腕を解き、手を地面において体を支える。緩慢な動作で立ち上がり、シロを見下ろした。
「もう独りでも平気だよ」
声が上擦る。喉をのけぞらして天を振り仰ぐ。
「も、もう、あたしは、平気だから。ほんとに、平気……だからっ」
喉のあたりに何かが詰まったように呼吸が上手くできない。迫り上がる涙を止められなかった。
目の前が霞む。
ちゃんとした言葉になる自信はなかったが、それでも彼女はどうにかそれを紡いだ。
「さ、先に、本当の、ご主人様の、ところに、行って……」
自分は彼の主ではない。彼が自分に気兼ねをしてこの深く冷たい闇の中に迷うことは許されない。
彼が自由であるべきだと思ったのは誰?
水が上から下に流れるように、どこまでも自然であるように願ったのは誰?
それは自分。ここにいる自分という存在。
彼は優しい。いつでも、とても優しくしてくれた。
そしてそれは今も変わらない。
それに甘え続けることは甘美な夢。けれどそれは同時に覚めない夢の始まりでもある。
先にある糖蜜の夢よりも、それに浸りきって容易に道を踏み外してしまう未来図が怖かった。
卑怯なことと指差されても今退かねば、将来に道を踏み外せずにいる自信はない。そこまで強くない。
永遠が欲しくなる。変わらぬ明日が欲しくなる。
時に任せて失われることが怖くて、彼を自身の手で殺めようとしたことと似た想いがそこにはあった。
失われることが決定された事象ならばそれを代行するのが自分であってもいいではないかと。
でも、怖かった。
誰よりも側にいてくれた相手を本当に殺すことができるかと。
肉に刃を埋める感触を想像するだけでも怖気が全身を支配する。
「月祭様が待ってるよ……」
その瞬間、愛する黒猫――純白の獣の姿はかき消えた。
「ふぇ……っ」
嗚咽が漏れる。
「うぇえ……っ」
とにかく泣いた。もう我慢するのはやめた。
我慢する必要はなくなったのだ。
「……う、うぁあああ―――――ぁっ!」
消えた愛猫の後を追うように、翠子もその場から消失した。




