第10話 月の庵
ミャア。
ネコの鳴き声。
翠子ははっとして振り返ると、見覚えのある庵の庭先にいた。
日当たりの良い縁側には日焼けした茶色い座布団が一つ。その横には囲碁一式と、湯気の立つ湯飲みとお茶菓子の盛られた木皿。
墨の生臭さが甘い金木犀の香りに混じって鼻孔に届いた。
月の庵。
両親に連れられて何度も訪れた香弦流の尊師の住まい。
香と琵琶を愛する風流人でもあった彼はあえて書画に引っかけた名前にせず、そちらを号に取り入れた。
愛する香と琵琶の弦をなぞらえてつけた香弦を、下弦と置き換えたとするなら、その語呂は何の偶然か、彼の本名である月祭の月の字にも巧い具合に引っかかったので、彼の号は余計に有名になったのだと聞いた。そしてそれはいつしか、彼の住まいである庵にも。
下弦、の月祭が住む庵で、月の庵。
『お嬢ちゃんはどこの子かね』
『おじちゃん、だぁれ』
庭に植えられた大きな松の木の影から突然現れた壮年をいくつか過ごした男が、よちよち歩きの翠子の前に視線を合わせるようにしゃがみこんでいた。
『わたしは月祭と言うんだがね。お嬢ちゃんにはわからないねぇ、きっと』
ぽんぽんと頭に手をおかれて翠子は頬を膨らませた。これでも同じ年頃の者達よりはずっと情報通だった自負があった。それは事実だった。
『知ってるよぉ。こんじゅのがっさいさま、でしょぉ?』
意味はわからなかったが、字面だけは知っている。子供にはありがちな知ったか振りと言う奴だった。
近樹の月祭。それが香弦の尊師である人の本当の名前。
彼の一番弟子であった人の、更に直弟子と言う関係であった実の親が度々口にしていた名前だった。
『ほぉ』
目を見開いて驚きを隠せない老人に満更でもない気分で胸を張る。
『ではね、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんはいったい何と言うお名前なのかね』
『さいきのすいしー』
何故か挙手までして、そう答えた。
『さいき?最季かい。久瀬の弟子の。ほぉ、そうなのかい。……ああ、そうか。今日は月末の討論会に連れてこられたんだね?』
つきずえのとうろんかい。
一瞬首を傾げて、しばらく悩んだ。そのなような言葉を聞いた気がしたのを自分の中で確認してから、ようやく首を縦に振る。
『ご両親はどうしたね。はぐれておしまいではないのかい?』
ぎくり。
『待合所で待ってなさいと言われなかったのかな?』
ぎくぎくっ。
子供の頃から待つのだけは苦手だった。知らず知らずのうちに足が動いて、迷子になっていたなどと言う記憶は珍しくなかったほど。
その度に親があちこち捜しに走り、そして見つかると当然如く雷が落ちた。
一言で言うなら、落ち着きのない子、である。
『親御さんに見つかる前に待合所に行こうかねぇ』
立ち上がり差し出された男の人にしてはとても綺麗な手は、熱くもなく冷たくもなく、ほんのりとした温もり。衣服に焚きしめた香は、どちらかと言うと苦手な自分でさえ気に入るほど、品の良い合わせ香の渋めの匂いがした。
ミャオ、ミャーオ。
月祭の服の懐から、ニョキッとネコが生えた。……正確には顔を出しただけなのだが、その時は真面目にそう思ってしまったのだ。
こんな天気の良い真っ昼間から、自分は何かとんでもないものを見てしまったのではなかろうかと、今でこそそう思うであろう。けれど子供とはかくも不思議を不思議と思わない生き物と相場は決まっていて。
何故ネコを懐に入れていたのかは追求せず、ただただ目をくりくりとさせる仔ネコに目を引かれていた。
『ネコさん、くろいねぇ』
見慣れぬ人間に警戒心を露わにしていた仔猫。体を覆う毛は漆黒。
あれはシロだ。
そう。シロは元々、この人の飼い猫だったのだ。
『それはね、わたしの仕事の邪魔をして、墨を頭から被ってしまったからだよ。本当は真っ白なんだ』
大人のちょっとした冗談も、子供はすぐ鵜呑みにしてしまう。
『わるいこねー。おふろにはらなきゃだめでしょ』
びしっと指差すと、それに驚いたらしくシロは月祭の懐から器用に抜け出した。そのまま、どこかに消えてしまった。
『ネコさん、どっかいっちゃったよ』
『なぁに、すぐに戻ってくるから安心おし。さて、親御さんが戻ってくる前に待合所に行かねば』
香弦流の尊師である近樹の月祭が没したのは彼が五十代の中頃。秀逸の作品を産み出す芸術家達の世界でその死はあまりも早過ぎたと、誰もが語りその死を悼む。
情景が一変した。
場所は月の庵でこそあったが、周囲をとりまく空気は厳粛なもので自分の脇を通り過ぎる人々の装いは黒と白の二色だけ。かく言う自分も同じような服を着ていた。
喪服だった。
粛々とした雰囲気の中、あちこちからあがるすすり泣きの声と、気分を暗鬱とさせる嫌な香の匂い。
ミャア。
ゴロゴロと喉を鳴らして足元に擦り寄ってきた黒猫。
まるでここに集った人々の心と呼応したかのような曇り空は、いつの間にか静かな嘆きにも似た霧雨に変わっていた。
黒っぽい天気に喪服の人間達。それに黒猫が一匹。
黒だらけの世界。
真っ黒け。
月の庵の小さな庭園にいつぞやの記憶を頼りにまぎれこんだ自分は、そこで再び黒猫に出逢った。再会した。
シロは霧雨にその黒い毛並みを濡らしてこちらを見上げていた。
『――月祭様ね、亡くなられたんだって』
仕方なしに着ている黒服が濡れること考えて、白いハンカチを広げてシロを抱き上げる。
数年も逢っていなかったのに、シロはそれほど大きくなってはなかった。仔猫だった時よりも一回りだけ大きくなった程度にしか思えなかった。
『あんたはどうするの?誰かの家にもらわれて飼われるの?』
ミャア。
自分は月祭以外の人間に飼われるつもりはない。
そんな風に鳴き声は聞こえた。
変わり者の多い芸術家達の中でも特に変わっていると言われていた彼に飼われていたのだから、今更普通の家にもらわれて飼われるのはどこか惜しい気がした。
『……ネコさん。うちに来ない?』
ぎゅうっと抱き締めると、自分のものよりも早く鼓動する命がそこにはあった。添えた手の平に呼吸の度に伝わる音と温もりがあった。
多少なりとも縁があり、好ましく思えていた人を亡くした漠然とした喪失感を埋めるだけの確かな温もり。これから先の寂しさを埋める相手を見つけたと、その温もりを感じた瞬間、確信した。
香弦流の尊師、近樹の月祭の亡き後、事態は彼の死に輪をかけた急展開を見せた。彼の生前にしたためられた遺書に、葬儀に参列した誰しもがそこに彼の流派を継ぐべき者の名が記されていると思っていた。しかし。
現実は、書家らしく流麗な字がつづられた遺書には香弦流の次代の後継者に誰を推すかが書かれていなかったのである。
それは単なる欠落などではなく、それこそが尊師の意志だった。
我が後継者には誰も推さぬ。香弦流は我が一代のみ。
一門に破門された彼に付き従って彼の流派に下った弟子は少なかったが、それでもいないわけではなかった。
実力主義の彼の元にはそれこそ名の通る有望な弟子達が集まり、異端と言われ続けても、それを払拭するだけの素晴らしい才覚を持った者達が集っていることはまぎれもない事実だった。それがために、墨家は彼ら門下生達の籍は自分の元にあると言い張ったのだ。
墨家にもわかっていたのだ。一派の緩やかであれど、確実な衰退ぶりが。
後継者になり得る弟子達を抱えて、それを認めずに彼がこの世を去ったことは、芸に身を置く者達をこれでもかと驚かせ、事態をより一層混乱させた。
それは当事者達であればなおのことであり、この件は彼の死後十年ほど経っても未だにその論議を重ねられている。
『何かね、父さん達のお仕事、また増えるみたいでね』
背中を撫でる。
庵の軒下を借りて、音もなく降る雨を見つめる。
『そしたらやっぱり忙しくなってさ、家に帰って来るのも減ってさ……』
ニァーオ。
ぺろりと鼻先をざらついた舌で舐められた。長い髭がつんつんと顔に触れてくすぐったかった。
『きっとあたし、独りぼっちになっちゃうよね』
だからね、一緒にいて。飼い主とその飼い猫とかじゃなくて、ちゃんとした家族になって朝から晩まで、翠子の側にいて。
ゴロゴロゴロ。
喉を鳴らす仕草は、仕方なしにそれを許してくれる合図のようだった。
『――ありがとね』
都の喧噪を嫌って、都から離れた静かな村落の一つに構えた月祭の庵は、確かに都まで行くよりはいくらか自分の家からは近かったが、それでも馬車をとばして一日半はかかった。
それだけの道程をどうやりすごしてネコを連れ帰るか、翠子は小さい頭で悩んだが結局妙案の一つも浮かばず、庵を発つ日がやってきた。
妙案一つも浮かばずに、見つかったときはその時で何とでもなれと半ばやけくそになり、勢いに任せて着替えをつめてきた手持ちの鞄にシロを詰めた。
勿論、無理だとはどこかで思いながら鞄に詰まったシロに一言。
『大人しくしててね。啼いちゃ、駄目だよ』
あとは両親が馬車に乗車するのを待つばかりと言う算段になって、幸運は降って湧いたのだ。
例の怪文書まがいの遺書でひっくり返らんばかりの混乱の収拾がつかないので、両親がここに残って事態の打開と今後のことについて話し合いの場を持つ為、それに出席せざるを得なくなったのである。
それから先は順調すぎるほど上手くいった。
子供の落ち着きの無さを逆手にとって、帰り道で何度も馬車を停めたりして、連れてきたネコの所用を済ませたり、ストレスが溜まらないように気分転換もさせた。この頃からその利口さを垣間見ることができたネコは、家に着くまでの一日半を馬車で過ごしながら、粗相の一つもするどころか、馬車の中で啼くこともせず、結果として御者にもう一人……もう一匹の乗客の所在を知られることはなかったのである。
遠くで弱々しくも猛々しさを残した獣の唸り声が聞こえた気がした。




