まつり
タン、と床板が軽く踏み鳴らされたのを合図に、細くのびやかな神楽の囃子が流れ始めた。
拝殿の中央で、白い着物と白塗りの面をつけた若者がゆるりゆるりと舞いながら、囃子の調子に合わせてしゃんしゃりと鈴を鳴らす。
厳かな空気。
秋の祭だ。
圭一は境内の隅で石台に腰掛け、ビールの缶を揺らしながら呟いた。
「神社の境界は鳥居だそうだが、実際はあの賽銭箱がそれなんじゃないかと俺は思うね」
隣でやはり同じようにビールの缶に喉を鳴らしていた白那は、白いワンピースの裾を揺らしながらふふふと笑った。
「おかしな事を言うね」
「おかしいかな」
「おかしいさ」
圭一は笑う白那を気にも留めず、
「だって見ろよ」と賽銭箱を指差した。
「拝殿の中のおごそかさ。あの舞と歌は神に捧げられる供物だ。だけどあの箱を境にしたこちら側に溢れているのは、ただ自分たちの楽しみに溺れる我儘な人間の欲ばかりじゃないか」
広々とした境内の駐車場に並ぶ屋台と、祭に酔う大人達。小銭を握りしめゲームに興じる子供達。
「秋の祭は収穫の感謝を神に捧げるものだろう? だけどあそこに居る連中に、そんなつもりは微塵も無い。
そもそもあの賽銭箱だって、本当なら感謝を銭という形に変えて捧げられるものだろうに、中に詰まっているのはみっともないほどの願望と欲ばかりじゃないか。
神への本当の感謝を捧げているのは、賽銭箱の向こう側だけだろう。違うかな」
白那は「ふぅん」と薄く笑みながらビールを喉に流し込む。
「圭一は本当におもしろい事を言うね」
「白那はそう思わないのか?」
「私はまたちょっと違う事を考えたさ。
あの屋台で騒いでいる子供の声も、酔っぱらっている大人の酒臭い息も、案外神様は喜んでいる供物なんじゃなかろうかってね」
「それはまた斬新なイケンだな」
「だってそうだろう?
人々がこの秋も収穫を喜んでいる。
自分の膝元でそんな光景を見られるのなら、神様も冥利に尽きるってもんじゃないかい?」
「なるほどね。白那も俺に違わず面白い事を言うよ」
圭一もビールの缶を呑みほした。
そのタイミングで、白那が空になった缶を圭一の肩に押し付ける。
「もう一本いくか? 一緒に買いに行かないか?」
「いいや。私はここで神楽を見てるよ」
にこりと笑って、暗に「買ってきておくれ」と言っている。圭一は朗らかに笑って従った。
白那はいつもその石台から動かない。動いてもせいぜい拝殿までだった。二人が出会った初夏の祭のその時から。
初夏祭。圭一はうっすらと汗ばむ額を拭いもせずに、屋台に賑わう駐車場を遠目で見ながら独り黙々とビールを呑んでいた。
足元に並べられた缶は五本を超えた。とにかく機嫌が最悪だった。
大学を卒業したものの就職は叶わず、学生時代の恋人はいつの間にか知らない男と結婚する話になっていた。
ビールをぐいとあおって溜息を吐く。
不意に冷ややかな風を感じて隣を見やると、白いワンピースの女性が空の缶をひとつ手にしてくんくんと匂いを嗅いでいた。
「もう入ってないぞ」
「そのようだね」
突然に表れて奇妙な行動をしている女に、けれど既に酔っていた圭一は警戒をするでもなく普通に話しかけてしまった。
「欲しいのならこれをやるよ」
石台に並べた封の開いていない缶を差し出す。彼女はそれを受け取ったものの、開けるでもなく缶の周りについた水滴をただ舐めている。
「水の味しかしない」
「そりゃそうだろ。自分で開けられないのか?」
妙な行動を疑いもせずに圭一はプルトップを開けて再び手渡した。
彼女はそれを喉に流し込み、ふぅとひとつ息を吐いて笑う。
「あちらで皆がいつもこれを呑んでいた。ちょっと興味があったんだ。ありがとう」
「変な女だな」
包み隠さず明け透けに圭一が笑っても彼女は気にも留めずビールを呑み続けた。
妙といえば妙なオンナだ。が、圭一は唐突に彼女に興味が湧いてしまった。
祭に独りで来ているような輩なら、多分に自分と同類だろう。気安さが沸いて自分も次の一本を開けながら、名前を聞いた。
彼女が口にしたその名前は妙に耳慣れない発音でうまく聞き取れなかったが、
「《しらな》? 変わった名前だな」
と言えば、彼女は何も言わずにただ笑った。
「俺は佐竹圭一。まぁこれも何かの縁だろう。もう一本どうだ?」
最悪だった気分はどこへやら、圭一は急に気分の良くなって結局祭の間に二人で十五本ほどの缶を空けた。
夕刻になり祭の賑わいが最高潮に差し掛かる頃、すっかり酔って眠くなってしまった圭一が
「俺は帰るが、白那はどうするんだ?」と訊ねると
「私はここに居るよ」
そよそよと流れる風に長い髪を揺らせながら遠くを見つめる。
「そうか。じゃぁな」
と背中を見せた圭一に
「私はこれが気に入ったよ。時々持ってきてくれるなら、一年たった今頃圭一に幸福をあげてもいいよ」
「なんだいそれは」
白那の言い様が可笑しくて圭一が石台を振り返り見ると、そこにはただ夕暮れの風が吹くのみだった。
はたして翌日、しっかりと彼女の残した言葉を覚えていた圭一は、ビールの入った袋を下げて昨日と同じ場所に来た。
が、彼女はそこに居なかった。
どこの誰とも得体の知れない女と名前だけを交わして訳の解らない事を言われ、馬鹿正直にビールを持ってきたことを後悔する。
からかわれたな……一瞬圭一は裏寂しさを覚えたが、石台に座り缶のプルトップを開けるとそんな事はもうどうでも良くなってしまった。
「どうせ他に用事のある身分でもないしな」
自嘲気味に笑いながらビールをあおって、ふと拝殿を見やると、見覚えのある白い裾が賽銭箱の横で揺れているのを見つけた。
「呑むか?」
声をかけると白那はにっこりと笑って駆け寄り、圭一の隣に座った。
圭一がプルトップを開けて手渡すと、
「うれしいねぇ」
にっこりと笑みながら喉を鳴らす。
「変な女だな」
「そうかい?」
「ビールなんて珍しくもない。こんなものがそんなに嬉しいのか」
この日から、ビール片手の奇妙な逢瀬が始まった。
そして暑い夏は過ぎ、稲穂は実り刈り取られ、秋祭りの今日と相成ったのだ。
白那は自分の事を何も語らなかった。ただ圭一のとりとめのない話にやわりと受け答えをする。
実に変わった所の多い女だった。
圭一がたまには違う場所で美味い物を食べようと誘っても、頑として境内より外に出ることをしなかった。
圭一も無理強いをしたり根掘り葉掘り聞く気にはなれず、それよりも他愛無い話を延々と交わすのがむしろ楽しかった。
祭の賑わいに乗じてだろう。圭一の気分はいつくもより高揚していた。
そこに運悪く一匹の小さな蛇が石台の後ろから這い出て来て、白那の足元で止まった。
「待ってろ、今退治してやる」
小さな頭を踏み潰さんと圭一の足が振り上げられた。
「おやめよ」
圭一の足に手を添えて、やんわりと白那が制する。
「無害なもんさ」
あっちへお行き、と手を振ると従うように蛇は鎮守の杜奥へ頭を向けてよろよろと這ってゆく。
「白那は蛇が平気なのか」
「どうだろうね」
「つくづくと変わった女だな」
随分な言い様だが、圭一の口の悪さには初っ端から慣れている。白那は長い髪を掻き上げながら蛇の去った方を見やった。
「蛇ってのは無様で哀れな生き物さ。手も足も持たないばっかりに腹で張って歩く姿を気味悪がられ、かと思うと変な姿を何やら信仰の象徴にされたりして都合の良い時ばかり祀り上げられる。
後ろへ進む術も持たないから、前に進むことしか出来ない。
おかげで前に立ちふさがる輩が居たら、どんなにでかい相手でも牙を剥いて立ち向かうしかない。後ずさることを知らないのだからね。
おまけに無駄に長生きだ。
本当に哀れとしか言い様のない無様な生き物さ」
散々な言葉を口にしながら、けれどその瞳は穏やかに笑んでいる。
「本当に変な女だよ」
とうとう、最後の缶が開けられた。
「もっと呑むか? 買ってこよう」
立ち上がる圭一のシャツの裾を白那は引っ張った。
「もういいよ。充分だ。それよりも圭一に話がある。聞いてくれるかい?」
白那から話を持ちかけてくるとは珍しい事もあるものだと、圭一は座り直す。しかし続けて聞かされた言葉は衝撃で、圭一は眩暈で頭が揺れた。
「私達が会うのはこの夜で最後だよ」
「急に何を?」
白那は軽く目を閉じて、圭一から顔をそらす。
「私はこれから眠らなければならないからね。長い眠りだよ。圭一とはもう会わない」
「冬眠かよ」
冗談を言っているように聞こえておどけるように聞き返したが、白那は圭一の瞳を再び見つめ話し続けた。
「春になったら目覚めるけれども、もう圭一には会わないよ」
「俺は白那の気に障る事をしただろうか」
「そんな事じゃない。自然の摂理というものだ。
それに、春になって圭一とまた会ったなら、私は圭一を愛してしまうだろうからね」
「それは悪い事ではないだろう」
「悪い事ではないよ。けれどね……
私が男を愛すると、彼らは皆豊かになっちまうのさ。そして私は忘れられて捨て置かれてしまう。
何しろあの境界から一歩だって出られやしないのだからね。
そして私を忘れた男は今度は落ちてゆくのさ。とても不幸に。
私はもうそんな生き様など見たくはないのさ。だから圭一の事も、気に入っている今の程度で終いにさせておくれ」
鳥居をじっと見つめて淡々と話す白那に、圭一は黙りこんでしまった。
圭一には白那の言う意味が解らない。
戸惑う圭一の頬を白那の冷たい掌が撫でた。色の薄く細い唇が近づいてくる。
「けれどね、最初に圭一に言った事は叶えておくよ。小さいけれど、幸福をあげよう」
冷たい唇が一度だけ触れて、溶けてゆく雪の結晶のようにするりと消えて、圭一は独り残された。
翌日より、本当に白那は姿を消し去ってしまった。
それでも諦めがつかず圭一は、ビールの袋を抱えて毎日訪れた。
会えない白那を想って一本だけ缶を自分で干すと、プルトップを開けた缶を石台に置いて立ち去る。
翌日に来ると缶は無くなっており、次のビールをまた置いて帰る。
冬を超え春を迎える頃、圭一は悟りに近い想いで呟いた。
「供物ってのは、見返りを求めて捧げるもんじゃない。自分の幸せの証を形にして見せて、喜んでもらうために奉納するものなんだ」
白那が聞いたらにっこりと微笑むだろう言葉を零す圭一に、神主が声をかけてきた。
毎日神社を訪れてひとときビールを呑みながら過ごす青年を案じた節介やきの神主は、この神社の事務をしてみいなか、ともちかけたのだ。
晴れて職と収入を得て、圭一はやっとで新たな門出を迎え、白那の言葉を思い出し呟いた。
「これがおまえのくれた幸福か」
初夏の青い空に風が泳ぐ。
「けれどおまえは知らないのだろうな。
今俺が幸福に思えるのは、ただ仕事に就けたからというものじゃない。
この境内で、おまえの存在を感じながら生きてゆく事が出来るからだよ、白那」
そしてその想いもいつかは必ず届くのだと、信じられた。
「でも、その頃には俺は爺さんになっちまってるかもな。何せおまえは無駄に長生きだからな」
仕事を終えて帰る前に、石台で一本のビールを空けて、一本を捧げる。圭一の習慣はこれからもずっと続くのだろう。
気まぐれに人と交わり長くを生きる、寂しい白蛇を祀るこの聖域で。