●メイド少女の日記
誤字脱字はそのうち直したいと思います。
次らへんまでプロローグです。
私の名前はアリカ、アリカ・シュルバだ。アルベル家三男ジュリア様の護衛兼女官をしている。
シュルバ家の長女として生まれた私の記憶がしっかりとし始めたのは、五歳頃だったと思う。その頃から、私は毎日体が動けなくなるまで剣をふらされていた。今でこそ子供騙しのようなレベルだが、当時の私にとっては毎日が地獄だった。
その頃の私は地獄を見せる祖父との訓練が終わった後、毎日のように母に泣きついていた。そして母は泣きついてくる私を見て、いつも微笑みながらこう語りかけるのだ。
――アリカ。貴方はジュリア様に仕えるのだからもっとしっかりしないとだめよ――と。
生まれる前からジュリア様に仕える事が決まっていた私は、当時から母と祖父にジュリア様に仕える事を言い聞かせながら育っていた。
その頃の私は三人の兄と同じように何の疑問もなく、ジュリア様に仕えるようになると思っていたし、まだ見ぬジュリア様がどんな人なのか期待と不安でいっぱいだった。
訓練がきつい事以外は充実した日々で、話しに聞くジュリア様はとても病弱で、私がジュリア様を護ってあげようと子供心で思っていた。そして何より私が将来の抱負を語ると母がとても嬉しそうに微笑み、そのことが私を幸せにするのだった。
だが、そんな日々も私が七歳の時に終わりを告げる。ある寒い冬の日の事だ。その日、私は初めて体験する、身を締め付けるような寒さに身震いをしていつもより早く起きた。いつもように窓を開けると目に飛び込んだきたのは一面の銀世界。温暖なアルベル辺境伯領では数十年に一度しか起こらない大雪。すべてが美しく見えて、尊く思えた。
この景色を母にも見せたくて、私は日が昇る前に母の寝室に忍び込んだ。きっと母も驚くはずだ、と。
「お母様、起きてください。アリカです。起きてください、お母様ぁ?」
体を揺すってもぴくりともしない母。いつも太陽みたいに温かいその手は、酷く冷たくて、まるで窓の外の雪の様に白く、血の気が失せていた。
初め目の前の光景が信じられなかった。
「お母様……? ねぇ、お母様!?」
その後の事は良く覚えていない。ただ、後から聞いた話しでは、母の亡骸にしがみつき泣き叫んでいたらしい。
そして私はこの日、雪が嫌いになった。
母が死んだからと言って私の生活は悲しい程に変わらなかった。少なくとも表面上は。
それどころか、初めから母の死など無かったかのように振る舞われた。母が死んだあの日、アルベル家でもジュリア様が死にかけたからだ。幸い――私にとってはどうでもよかったが――にもジュリア様は持ち直した。そのことでアルベル家中が忙しかったのだ。
母の葬儀は少人数で行われた。そして父は葬儀に参加しなかった。だから今でも私は父の事を許していないし、認めていない。
葬儀の次の日から訓練は行われた。祖父も所詮同じ穴の貉か。私は諦観に似た怒りを感じた。訓練は相変わらず地獄のようだったが、祖父に対しての怒りがそれよりも勝っていたから乗り切れた。
そして母の死から一ヶ月たった頃、私は初めてジュリア様と対面を迎えた。正直な所私はジュリア様が嫌いだった。いや嫌いになりたかったと言った方が正確だろう。同じ冬の日に、死んだ母と生き残ったジュリア様。そして母よりもジュリア様を優先した父に祖父。その他にも色々あったが、この二つが大きな要因だった。
だから私は、ジュリア様を嫌いになる理由を探していた。そうした方が楽になれるから。
でも、私が部屋に入って初めて目にしたのは黒い真珠のような髪と蒼く深い海の色をした瞳。日に焼けていない肌は病的に白く、細面の顔は繊細で作り物の人形のようだった。ベッドの上だけが切り取られたように静謐な空気を纏って、病床のジュリア様は半身を起こしながら私に優しく微笑むのだ。
「こんにちは、君がアリカちゃん?」
今になって思えば一目惚れだったのかも知れない。その時一瞬だけ母の事を忘れてジュリア様に見とれてしまった。
私はそんな私を自己嫌悪をすることから、主従関係が始まった。
一日の半分を訓練に、半分をジュリア様の傍に仕えながら、ひたすら徹底してジュリア様を観察する。そんな日々を過ごしながら私は精神を擦り減らしていった。
最初、ジュリア様の性格はとても穏やかだと判断したが、観察を続けていく内に穏やかなのではなくただ単純にめんどくさがりなのではないかと思うようになっていった。
ある日、他の使用人が誤ってジュリア様の顔に傷をつけた事があった。本来なら貴族の顔に怪我をさせたとなれば良くて解雇、最悪処刑も有り得るのだが、ジュリア様は少しの減俸を課しただけだった。使用人はジュリア様は慈悲深いお方だと思っていたようだけど、ジュリア様は下手に使用人を罰して周りが煩わしくなるのを避けて、本の海に溺れたいと考えているように、私には思えた。
このお方は退屈なんだろう。頭が良すぎてすべての結果が最初からわかっている。本も退屈凌ぎに読んでるだけかも知れない。時偶見せる、面白い物を見つけた子供のように爛々と輝く瞳は、普段はとても静で揺れる事がなかった。
そんな人生に達観したようなジュリア様よりも母が生きてくれていたらと思わない事もなかったが、さすがに言い掛かりの逆恨みだと理解していたので、積極的に嫌悪することはできなかった。逆を言えばそのことぐらいしか嫌う要素がなかったという事だ。
兎角、私の生活は緩やかに過ぎていく。必要最低限の会話しかない毎日。やり場のない怒りをぶちまけるように訓練を行った私は、元々の魔術と剣術の素養もあってか、急速に強くなった。
そして十歳の頃、初めて祖父に試合で勝利した。シュルバ家の伝統としてある一定の基準よりも強くなると行われる通過儀礼がある。
それは死刑囚の処刑だ。主を護るためには人殺しを躊躇ってはいけない場面は絶対にあるし、元々シュルバ家は従騎士の家系だ。戦場で迷ったら死ぬ。この伝統について特に思うことはないが、……ただ、少しだけ恐かった。大体は十二歳前後に行われるらしいが、私は通常よりも優秀だった。
ついに訪れた処刑の日は私の心を写したように曇天だった。アルベル家の地下にある処刑兼拷問部屋。薄暗い部屋には燭台が一つだけ。僅かに灯る蝋燭が囚人の影を揺らす。十字架に磔けられた囚人は猿ぐつわと目隠しをされていて、身動きがまったくできないようになっていた。罪状はジュリア様暗殺未遂。ジュリア様は王女殿下と、年齢と身分が釣り合う数少ないお方だ。おそらくあわよくばジュリア様の排除を狙った政敵――相手は限られてくるが――の捨駒、居なくなっても誰も悲しまない人間。
一歩一歩囚人の前に進んで行き、ついに間合いに捕える。すっと息を吐き呼吸を落ち着ける。じんわりと湿った空気が体に纏わり付き、首筋に玉の汗が流れる。
――落ち着け。いつも通りに――
日頃の訓練通りに振り抜かれた曲刀は、まっすぐ首に向かい、肉を裂き、骨を断ち、命を屠った。
その日の午後、いつものように私はジュリア様の傍に控える。囚人を処刑しても顔色一つ変えない私を見て祖父は珍しく褒めていたけど、内心吐きたくて堪らなかった。ただ、吐くものがなかっただけだ。普段の態度の賜物か特に私は変な態度はとっていなかったと思う。普段通りにジュリア様は本を読み、魔術の鍛練をなさる。私はその傍に仕える。いつも通りだ。
当然の如く、食欲はなかった。普段よりかなり早く寝台に入った。寝てしまいたかった。忘れてしまいたかった、肉を切り裂く感覚を。苦しげな断末魔を。そうでないと心が決壊してしまいそうで。
「お母様……」
無意識の内に出た言葉に自分が参っていた事に気づく。
「アリカ? 部屋に居る?」
不意に聞き慣れた声が響く。今は逢いたくなかった。
「…………」
「……入るよ」
部屋に入ってきたジュリア様は珍しい表情をしていた。ただ、仕えているだけではわからない極僅かな瞳の色の違い。二年間ジュリア様を観察し続けた私だから読み取る事ができた感情。
「……大丈夫だから」
その言葉と伴ってジュリア様は私の手を握る。
「大丈夫だから」
握られた手は温かくて、私は体面もなく泣いてしまった。
そこから会話は無かった。何も言わなくても思いは伝わったから。私がジュリア様を見ていたように、ジュリア様も私を見ていたのだろう。
一晩中握られたその手に安心しながら、私は今まで溜め込んでいたものを洗い流した。
その日から何かが劇的に変わった訳ではないけど、少しだけ距離が近づいた。
そして、運命が廻り始めた日。カカコの実を見て瞳が輝いた日。
この世に退屈した主が見た世界が実現するまで、私は主に仕え続けるだろう。