消えたもの
異世界でも恋愛でも恋愛小説でもありません。
十五歳の冬、家と反対方向へ歩いた少女の話です。
父が亡くなって何年も経っていました。
それでも私は、昔住んでいたアパートへ帰れば、消えた何かを取り戻せる気がしていました。
もちろん、そんなことはありませんでした。
これは当時の記憶を元にした物語です。
noteにもayaで投稿しております。
冬は暗くなるのが早かった。
三年生は受験前で部活を引退し始めていて、グラウンドには下級生の声だけが響いていた。
私は校門を出て、家とは逆方向へ歩いた。
本当なら、家は学校から歩いて十分くらいの場所にあった。
でも、その日は帰りたくなかった。
理由なんて、今思えば曖昧だ。
怒られるのが嫌だった。
ただそれだけ。
でも当時の私にとって、それは峠道を歩いてでも逃げたいくらいのことだった。
冬の空気は冷たく、吐く息は白かった。
峠方面へ向かうバス通学の子は少ない。
だから私は、一人だった。
歩きながら、私は昔住んでいた町のことを考えていた。
父と暮らしていた頃のアパート。
近くにあった生協。
そして保育所。
そこへ行きたかった。
何故なのか、自分でもよく分からなかった。
でも、行けば何か戻る気がした。
終点
バスの終点近くには、大きな商業施設があった。
今ならイオンタウンみたいな場所と言えば近いのかもしれない。
蛍光灯が白くて、暖房が効いていて、人が沢山いた。
私はそこで灰色のトレーナーを買った。
安物で、何かプリントが入っていた。
何故買ったのかは分からない。
寒かったからかもしれないし、帰らないつもりだったからかもしれない。
店員は何も聞かなかった。
それが少し安心だった。
その後、私は都心の方へ歩き始めた。
学生鞄を背負ったまま。
今思えばかなり浮いていたはずだけれど、あの辺りは街場だった。
酔っぱらいも、怒鳴る男も、呼び込みもいた。
だから誰も私に構わなかった。
地下道に、小さな飲み屋が並んでいた。
私はそのうちの一軒へ入った。
店にはママが一人しかいなかった。
客はいなかった。
私は何を言ったのだろう。
帰る場所がないとか。
ここに置いてほしいとか。
働かせてほしいとか。
そんなことを言った気がする。
そのうち客が来た。
「何処の子?」
そう聞かれて、ママは笑いながら言った。
「親戚の子」
私は少し安心した。
カラオケを勧められて、私は『五番街のマリーへ』を歌った。
父が好きな歌だった。
テレビを見せてもらえなかった私は、同級生の流行歌をほとんど知らなかった。
アイドルグループの名前も分からなかった。
だから、カラオケ本を見ても歌える曲がそれしかなかった。
その夜、私は初めて人前で歌った。
店が終わると、ママは私を家へ泊めてくれた。
古いアパートだった気がする。
布団へ入ってうとうとしている時、娘さんが帰ってきた。
「何処の子?」
「雇ってって」
「やめなよ」
そんな会話が聞こえた。
私は寝たふりをした。
朝になると、ママは言った。
「帰りなさい」
私はありがとうございましたと頭を下げた。
外へ出ると、電柱に住所が書かれていた。
その時初めて、自分が何処にいるのか分かった。
財布の中には二千円くらいしかなかった。
それでも私は、昔住んでいた町へ行きたかった。
保育所の名前も覚えていた。
卒園アルバムには住所も載っていた時代だった。
だから行けると思っていた。
タクシーに乗り、昔のアパートの住所を言った。
でも運転手は首を傾げた。
「その住所、もうないよ」
再開発しているらしかった。
私は保育所の名前を言った。
でも、その名前も変わっていた。
運転手は無線で誰かに聞いてくれた。
私は窓の外を見ていた。
知らないビルばかりだった。
でも、生協だけは残っていた。
「ここ知ってる」
私は思わず言った。
そこから記憶を辿った。
「ここ真っ直ぐ行って、歩道橋を右」
でも、その先に知っている景色はなかった。
私は急に分からなくなった。
そして言った。
「この近くの保育所へ行って下さい」
保育所はあった。
名前は変わっていたけれど、確かに私のいた場所だった。
私はタクシーを待たせたまま中へ入った。
「十年くらい前に卒園した者です」
担任だった先生へ挨拶したいと言った。
でも、先生はもう退職していた。
私は外へ出て、今度は昔住んでいたアパートの話をした。
近くの川。
建物。
古い景色。
運転手は言った。
「ああ、その辺は工場になったよ」
それでも私は諦められなかった。
工場が建ったなら、近くに知っている景色があるかもしれない。
昼から乗ったタクシーは、夕方になっていた。
そして私は、とうとうアパートを見つけた。
記憶のままだった。
私は階段を上がり、父と暮らしていた部屋の前へ立った。
ドアを叩いた。
返事はなかった。
もう一度叩いた。
誰も出てこなかった。
私は鞄をドアの前へ置いた。
私はタクシーへ戻った。
「叔父さんいたので、荷物置いてきました」
嘘だった。
私は地下道のスナックの住所を言った。
「後は、おばさんの所へお願いします」
もちろんタクシー代なんて持っていなかった。
私は地下道の近くで降ろしてもらい、「おばさんがいるから待ってて下さい」と言って地下道へ入り、反対側から逃げた。
私は走って繁華街へ出た。
灰色のトレーナー。
制服のスカート。
スキーウェア。
かなり目立っていた。
視線が怖くて、私は電話ボックスへ逃げ込んだ。
受話器を持った。
誰にかけるわけでもなかった。
ただ、電話しているふりをした。
******
電話ボックスには広告が沢山貼られていた。
女の子募集。
デートクラブ。
私はそれを、スナックの延長みたいなものだと思った。
ホテルから電話して下さい、と書かれていた。
でも私は、ホテルは大人が一緒じゃないと入れない場所だと思っていた。
だから公衆電話からかけた。
「公衆電話からなんですけど、ダメですか?」
電話に出た男は言った。
「今どこの電話ボックス?」
私は言われた通り、ボックス番号を読んだ。
「近くにピエールって喫茶店あるから、そこで待ってて。五分くらいで行く」
私は喫茶店で何も頼まず、「待ち合わせです」と言って座っていた。
スーツ姿の男が来た。
「面接希望の子?」
私は頷いた。
「幾つ?」
「もう少しで十八です」
嘘だった。
男はサンドイッチとコーヒーを頼んだ。
私は財布の中身を計算して、注文しなかった。
面接だから、ちゃんとしないといけないと思っていた。
今思えば服装から全部おかしかった。
サンドイッチが来ると、男は笑った。
「うわ、キュウリ入ってる。俺これ嫌いなんだよね。頼んで残すのも悪いし、良かったら食べる?」
私は頷いた。
食べた瞬間、思い出した。
私は丸一日、何も食べていなかった。
「雇ってくれますか?」
私は仕事内容も聞かずに言った。
男は頷いた。
「採用するよ。ただ基本十八歳からなんだ。聞かれたら十八って言ってね」
私はその時、やっと生きていけると思った。
******
前借りのお金で服を揃えた。
私は初めて美容室へ行った。
鏡の中の自分は、少し知らない顔になっていた。
「二日後から仕事始めてもらうから。それまではゆっくりしてて」
女性にホテルへ連れて行かれた。
私は安心した。
少なくとも、その夜の寝る場所はあった。
その後、私はタクシー会社へ戻った。
前借りのお金の残りで、タクシー代を払った。
女性は私の嘘に合わせて、「ちょっとこの子調子悪くて」と叔母みたいに頭を下げてくれた。
私は何度も謝った。
******
それから半年、その仕事を続けた。
次は年齢を誤魔化してキャバクラで働いた。
その頃には、少し擦れていたのだと思う。
「自分の体で何が悪い」
「誰にも迷惑かけてない」
そんな風に開き直っていた。
でも本当は、生きていくためだった。
それしか働ける場所が見つからなかった。
十六歳で保護された。
警察では、軽犯罪なら保護者が引き取れば帰れると言われた。
でも祖母は、「連れて帰る気はない」とはっきり言った。
私は言った。
「帰るくらいなら鑑別所でいい」
******
鑑別所では女子用の部屋が満室で、男子側の個室へ入れられた。
その時、一人の看守が笑いながら言った。
「売春してたやつが男子部屋の個室か。ここでは出来ないぞ」
私は二日ほどハンストを起こした。
その後、看守は別の人へ代わった。
児童相談所で保護される話も出た。
でも保護者の認可は出なかった。
私は少年院へ行くことになった。
******
少年院には短期と長期があった。
短期は半年。
長期は一年から成人まで。
私は長期だった。
院の中は年齢や処遇で二つに分かれていた。
十二歳から十五、六歳までの「れんげ」。
十六歳から十八歳までの「白椿」。
私はれんげだった。
年齢だけではなく、罪名や処遇でも分けられていたのだと思う。
中学生で殺人の子もれんげにいたし、同じくらいの年齢でも薬物だと白椿へ行く子もいた。
院では四、五人ごとに担当教官がついていた。
女子院だから担当は女性だった。
その上に主任教官がいた。
五十歳くらいの男性だった。
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入院して最初の二週間は観察期間で個室だった。
その後、集団部屋へ移される。
集団部屋へ入る前、私は土下座をさせられた。
「よろしくお願いします」
院の決まりだから、と言われた。
でも後から知った。
そんな決まりは本当はなかった。
院の中では、虐められてきた側と、虐める側だった子が何となく分かった。
口調や態度で分かるのだ。
私はどちらに見られていたのだろう。
でも不思議と、私はそこに疎外感を感じなかった。
皆、最初から何か抱えている前提だったからだ。
掃除も洗濯も平等だった。
下着は各自手洗い。
支給服は週に一度、係がまとめて洗濯する。
******
お風呂は冬は週一回、夏は三日に一回のシャワー。
周りは足りないと言ったけれど、私には十分だった。
家では、その半分だったからだ。
支給のリンスが足りなくなる子へ、自分の物を分けたりもした。
家ではリンスなんて無かった。
なんならシャンプーも買ってもらえなかった。
月に一度、小さな紙袋に入ったお菓子が配られた。
皆すぐ食べてしまう。
でも私は長く残した。
時々、同じ部屋の子へ分けたりもした。
私は物欲が無いわけではない。
ただ、目の前で困ってると渡してしまう。
後先考えずに。
そして後で自分が困って泣く。
それを何度も繰り返していた。
******
院で一番きつかったのは、毎朝三十分のマラソンだった。
でも退院前には慣れていた。
あの頃の私は、耐えることには慣れていたのだと思う。
院では色々な子がいた。
傷害。
薬物。
窃盗。
でもオリエンテーションで、犯罪別に反省を促す時間があった。
だから、何で入院したのか自然と分かった。
そして気付いた。
ほとんどの子が、家出から始まっていた。
最初から犯罪者になりたかった子なんて、たぶんいなかった。
帰れなかった。
それだけだった。
******
友達を庇って殺人で入っていた子もいた。
虐待されている友達から「親を殺したい」と相談され、その家へ行った時には既に親は死んでいたらしい。
泣いている友達を見て、「一緒にやったことにしよう」と自首した。
でも友達は途中で証言を変えた。
自分は協力しただけで、主犯はその子だと。
友達は児童相談所へ。
その子は院へ。
私が入った時には、もう一年以上いた。
中一で入り、十五歳で出る予定だった。
それでも、その子はよく笑っていた。
******
院の中は、どこか女子高みたいな空気もあった。(多分入ったこと無いから分からないけど)
変な噂。
先輩後輩。
くだらない話。
そして時々、本当に重い過去。
全部が混ざっていた。
******
面会や手紙は苦痛だった。
面会の時は教官が呼びに来る。
差し入れが沢山届く子もいた。
でも私は、あまり呼ばれなかった。
一ヶ月に一度、必ず手紙を書かなければいけなかった。
それも苦しかった。
一度、面会中に私は祖母へ泣きながら怒鳴った。
「ヤクザの方がよっぽど良い!」
面会は途中で中止になった。
今思えば、あれが初めての爆発だったのかもしれない。
それまで私は、ずっと空気を読んでいた。
甘えない。
迷惑をかけない。
怒らせない。
そうやって生きてきた。
でもあの時は、もう無理だった
その後、教官から言われた。
「受け入れが整わないと退院は難しい。貴女から折れたら?」
「年を取ると、自分の考えを変えられない人もいるから」
私は頑固だった。
でも主任教官は言った。
「お前を俺の養子に出来れば何の問題もないんだがな」
その言葉が、本当に嬉しかった。
なれるなら、なりたかった。
主任教官は、私にとって初めて「ここに居てもいい」と言ってくれた大人だった。
退院前には、私は四段階目まで上がっていた。
本来なら、もう退院間近だった。
でも家の受け入れが整わず、私は周りより長く残った。
院の中での評価ではなく、帰る場所の問題だった。
******
主任教官は、その頃から体調を崩していた。
退院の時も休みだった。
後に担当教官との文通で、亡くなったことを知った。
担当教官は手紙に書いていた。
「年若く若輩の私では、貴女のおばあ様には対抗出来ませんでした」
そして最後に、
「主任教官がいなければ、今の貴女はいません」
とも書いてあった。
本来なら、退院した生徒と文通することもグレーだったらしい。
でも担当教官は笑いながら書いていた。
「貴女は厄介な生徒だったから、私も忙しいのよ」と。
「老人は過去に生き青年は未来を生きる」
主任は良く自分を年寄りのように言っていたらしい。
私は、その二人に救われた。
今でも、人生で一番の恩人だと思っている。
******
第八章 普通の友達
退院してから、初めて普通の女友達が出来た。
祖母の家より、その子の家の方が居心地が良かった。
少し汚かったけれど、気を遣わなくて良かった。
私達はいつも一緒にいた。
テレビゲームをしたり、町へ出たり、仕事終わりにボウリングへ行ったり。
誰も車の免許なんて持っていなかったから、移動はタクシーだった。
一度町へ出ると、なかなか帰らなかった。
私は、その子に執着していたのかもしれない。
一人になるのが怖かった。
その子の紹介で男性と遊ぶようにもなった。
今思えば、ようやく「普通の青春」をやり直していたのだと思う。
******
その後、私は結婚した。
普通の家庭を作りたかった。
自分には無かったものを、今度こそ作れる気がした。
楽しかったことも沢山あった。
でも旦那は車が好きで、昔は毎年のように買い替えていた。
義母との関係も、少しずつ苦しくなっていった。
私は、物理的に離れれば影響を受けずに済むと思って引っ越した。
でも変わらなかった。
影響を受けなくなったのは私だけで、旦那は相変わらず義母に振り回されていた。
そして私も、上手く甘えられなかった。
何でも一人で抱え込んでしまった。
******
八年で離婚した。
決定的だったのは、義母の問題で喧嘩した時だった。
売り言葉に買い言葉だったのだと思う。
旦那は言った。
「流石、院に入ってただけはあるな」
私は、その言葉で終わった。
楽しかった時間も沢山あった。
でも、その一言が無ければ、もう少し頑張れていたのかもしれない。
離婚後、義母の横領が発覚した。
そして自殺未遂をした。
私は相変わらず、人の問題へ飛び込んでいた。
困っている人を見ると、放っておけない。
それで自分が傷付く。
でも、そういう生き方しか知らなかった。
******
今でも時々、冬の空気を思い出す。
峠道。
灰色のトレーナー。
生協。
消えた住所。
ドアの前へ置いた鞄。
あの頃の私は、ずっと帰る場所を探していた。
でも最後に私を救ったのは、家族ではなかった。
少年院の教官達だった。
「お前を養子に出来ればな」
あの言葉を、私は今でも忘れられない。
帰る場所は、最初からあるものじゃないのかもしれない。
誰かに「ここにいていい」と言われて、初めて出来るものなのだと思う。




