改稿版 あの人によろしく
以前の作品を大幅に改稿しました
「う……」
鼻を突くような焦げ臭い匂いで
徐々に意識が戻ってきた。
最初に感じたのは熱さだった。
皮膚があぶられるような、
息を吸うたびに肺の奥まで焼かれるような
そんな熱さ。
「ゴ、ゴホッ! ゴホッ! うっ!」
思わず咳き込むと全身が激しい痛みに襲われる。
そこでようやく自分が床の上で
倒れていたことに気付いた。
「……ぐっ……ガハッ!」
起き上がろうとして
あまりの痛みに悲鳴が漏れて再び床の上に
倒れ込んでしまった。
「はぁ……はぁ……うっ……」
肋骨のあたりがズキズキと激しく痛む。
思い出した……あの二人に何度も殴られ、
何度も蹴られて……。
周囲がオレンジ色に揺れて、
ゴォゴォと音が聞こえる。
火事だ。
棚や、積み上げられた段ボールが燃えている。
このままでは……死ぬ。
「に……逃げない……と……うっ……!」
もう一度起き上がろうと試みるも、
激痛で動けない。
俺……ここでこのまま
死んでしまうのだろうか?
母親と喧嘩したまま……?
怒鳴りつけた後に見せた
悲しげな母親の顔が脳裏に浮かぶ。
どうしてあんな態度をとってしまったのだろう?
後悔ばかりが激しく押し寄せてくる。
「ごめ……ん……」
死を覚悟して目を閉じたそのとき――
「雄二っ!」
すぐ傍で声がした。
「馬鹿野郎、こんなところで寝てるな!」
「え……?」
目を開けると目の前に雄一がいる。
俺の肩を掴んで、強引に起こしてきた。
「ゴホッ! ゴホッ!」
咳き込みながら顔を上げると、
炎に照らされた雄一の顔が見えた。
その表情は今まで見たこともない程
真剣だ。
「大丈夫か? 立てるか?」
「な、んで……お前が……」
「話は後だ! こっちはまだ炎が少ない。
行くぞ!」
「あ、あぁ……」
雄一の肩を借り、
痛む体を引きずるように歩き始めた。
煙が濃くなり、熱気が増していく。
痛みと息苦しさで再び意識が遠のいていくが
それでも雄一の声だけは、
はっきりと聞こえた。
「もう少しだ、頑張れ!」
やがて出口が見えた、その時。
「雄二」
雄一の声が少し変わった。
落ち着いていて、
さっきまでとは違う声だった。
「あの人に……よろしく伝えてくれ。
もう充分だって」
え……? 何だって……?
「あの人によろしくって……誰だよ……」
――次の瞬間。
ドンッ!
強く突き飛ばされ、身体に衝撃が走る。
「……雄一……?」
その名を呼んだのを最後に
俺の意識は闇に沈んだ――
****
俺の名前は河合雄二。
市内の県立青葉高校に通う二年生で、母子家庭。
二LDKのマンションに
母と二人で暮らしているが、
まともに顔を合わせることは殆どない。
母は看護師で
主に深夜帯の勤務に入ることが多い。
すれ違いの生活は、
もうかれこれ五年も続いていた。
正直、俺は母のことをよく知らない。
好きな食べ物や嫌いな食べ物。
休みの日には何をしているのか。
趣味は何か、どんな本を読むのか。
そういうことが何も分からない。
親子なのに……
一緒に暮らしているにも関わらず。
父は俺が小学五年生のときに出ていった。
理由は聞かされていない。
ただある朝、父がいなくなっていた。
その後しばらくして離婚が成立したと
母から聞かされた。
それだけだ。
父と暮らしたかったかどうか
母は聞きもしなかった。
その頃から母は夜勤の多い職場に移り、
家にいる時間が極端に減った。
朝、学校に行く前にはもう眠っていて、
夜、俺が寝る前にはまだ帰っていない。
けれど朝食と弁当は欠かさず用意されている。
そういう日が週の半分以上続いた。
寂しかった……と言えば聞こえがいいが、
正確には違う。
いつしか寂しいという感情さえ
持つのが馬鹿らしくなっていた。
誰もいない部屋に帰るのが当たり前になって、
一人で飯を食べるのが当たり前になって、
そのうち何も感じなくなった。
今となってはそれが当たり前になっていた。
むしろ母親がいると気を遣う。
何を話せばいいかも分からないし、
変に気を遣われるのも鬱陶しい。
すれ違いの生活。
どうせ何をやってもバレることは無いだろう。
だから俺はバイトを始めた。
どうせ母親は俺が何をしているか、
これっぽちも興味が無いのだから。
――だけど、本当の理由は家計だ。
母親は俺に
「お金のことは心配しなくていい」と言う。
確かに毎月小遣いはもらっているし、
スマホの使用料金も払ってもらっている。
でも分かっていた。
深夜手当のつく夜勤ばかり選んでいるのは、
少しでも稼ぐためだ。
帰ってきたときの顔は、いつも疲れ切っている。
『雄二は、とても出来がいいのよ。
だから大学へ行かせてあげたくてね』
以前、電話で誰かに話しているのを
聞いたことがある。
別に俺は大学へ行かせてくれと
頼んだことはない。
このまま卒業後、どこかに就職しても
良いと思っている。
……まぁ、大学へ進学できるなら
それに越したことはないが。
だから俺はバイトを始めた。
少しでも家計の負担を減らしたくて。
でもそれを正直に言えるほど、
俺と母親の関係は上手くいってなかった。
言えば「余計なことしなくていい」と
言われるのは目に見えている。
だから内緒で稼いで秘密に貯金していた。
バイト先は自宅から自転車で二十分ほどの
大型物流倉庫。
クリスマスシーズンになると
ピッキングの仕事は忙しくなる。
注文された商品を棚から探し出して台車に積み、
出荷場所まで運ぶ作業だ。
単純だけど身体は使う。
でも俺はこの仕事が嫌いじゃなかった。
身体を動かしていると、
余計なことを考えずに済むから――
****
十二月半ば――
俺は夕方からシフトに入っていた。
「おーい、そこのバイト!
次はこの荷物を台車に積んで運んでくれ!」
倉庫の奥から若手社員が声をかけてくる。
「はい! 今行きます!」
台車を押して駆け足で向かった。
基本的に職場では元気よく
振る舞うことにしている。
別に本当に元気なわけじゃないけど、
そういう顔をしていた方が仕事は
うまくいくからだ。
「よし、それじゃここの列から
それぞれ注文の品をこれで探し出してくれ。
量が多いから頑張ってくれよ?」
ハンディターミナルを手渡された。
「はい、頑張ります」
そうして俺は黙々と仕事をした。
棚の間を歩き回り、商品を確認して台車に積む。
その繰り返し。
考えることは何もない、
ただ手足を動かすだけでいい。
それが俺にとって一番楽な時間だった――
****
気がつくと時計は二十三時を回っていた。
「やっべ……」
白い息を吐きながら、
マウンテンバイクで夜の住宅街を走りぬける。
本来、高校生は二十二時以降の労働は
法律で禁止されている。
つまり今夜は完全にアウトだ。
でも十二月のこの時期は
どうしても人手が足りなくて
頼まれたら断れなかった。
それに明日は土曜日だと、
自分に言い訳していた。
母親は夜勤のはずだから、
帰っても誰もいない。
バイトをしていることは秘密だ。
知れば確実に止めさせられる。
でもどうせいつもすれ違いだし、
バレることはないだろう。
俺はすっかり油断していた――
****
「え……?」
マンションが見えてきて
マウンテンバイクを止めた。
自宅の部屋の窓から明かりが見えている。
「……嘘だろ?」
今夜は夜勤がなかったのか、
それとも早退したのか。
どちらにしろ、非常にまずい。
こんな時間に帰ってきたら、
絶対に何か言われるに違いない。
覚悟を決めると駐輪場へ向かった――
****
自宅の扉の前に立つと、深呼吸して鍵を回した。
――ガチャ……
静かに扉を開けたつもりではあったが
音を聞きつけたのか、廊下の先から母が現れた。
「お帰り、雄二」
「……ただいま」
迎えに現れた母の顔は、
思っていた以上に険しかった――
****
リビングで母親と向かい合って
俺はうつむいていた。
「こんな遅くまで、どこに行っていたの?」
「……バイトに行っていた」
「アルバイトは禁止しているでしょう。
それに、もうとっくに受験の準備を
していなくてはならない時期じゃないの。
何のためにバイトなんかしていたの?
何か欲しいものでもあるわけ?」
咎めるような口調に、苛立ちが募る。
欲しいもの?
そんなんじゃない、家計のためだ。
母親が疲れ切った顔で毎晩夜勤に
出かけるのを見ているから、
少しでも楽にしてやりたいと思っているだけだ。
それを……何か欲しいものでもあるのかって。
いつまでも俺を子ども扱いして……!
「別に。バイトが楽しいからしてるだけだ」
正直に話す気にもなれなかった。
「本当にそれが理由なの?
学校生活に支障をきたすくらい?」
母が額に手を当てて、ため息をついた。
え……? 何だって?
血の気が引いていくのが自分で分かった。
「それ……どういうことだよ?」
ドクンドクンと心臓の音が大きくなる。
「今日ね、職場の休憩中に
学校から電話があったのよ。
最近、雄二が授業中に
居眠りしていることが多いって。
この間の数学の小テストも
点数が良くなかったそうじゃない」
「……」
反論できなかった。
週五回のバイトで、繁忙期の土日は
朝十時から十七時まで入っている。
当然、勉強する時間なんてない。
睡眠も削られる。
でもそれも十二月末までのつもりだった。
母親の小言はまだ続く。
「一体どういうつもりなの?
毎月お小遣いだってあげているし、
スマホ代だって払っているでしょう。
こっちは普通の家庭と同じくらい
不自由のない生活をさせてあげようとしているのよ?
大学だって出してあげようとしているのに」
「!」
その言葉が、引き金だった。
だから何だよ。
その「普通の家庭と同じ生活」のために
自分がどれだけ無理をしているのか
分かってるのか?
わざわざ夜勤ばかり選んで、
疲れた顔で帰ってきて。
それを当然みたいに言うなよ。
俺はただ、少しでも家計の足しになれば
良いと思ってバイトしてたのに――!
「……うるさい」
「え? 今何て言ったの?」
「うるさいって言ったんだよ!
俺はなぁ!
一度だって小遣いが欲しいって言ったことも、
スマホ代を払ってくれって頼んだこともないだろ!
それを恩着せがましく言いやがって!」
「雄二……」
母親の顔が青くなる。
だけど、止められなかった。
「大学だって、俺は別に行きたいなんて
思っていない!
今の倉庫のバイト、楽しいんだよ。
社長は卒業したら正式に社員にならないかって
言ってくれてる。
何が普通の家庭と同じ生活だよ。
離婚して俺を片親にさせた後ろめたさから
そう言ってるんだろ?
いちいち恩着せがましいことを言うなよ!
今まで放っておいたくせに、今頃何なんだよ!」
言い切って、気づいた。
母が酷く傷ついた顔をして
こちらを見ていた。
「雄二……」
まずかった。言いすぎた。
心のどこかでそれは分かっていた。
でも後には引けなかった。
「……」
無言で立ち上がると、母のそばを通り抜けて
自分の部屋の扉を乱暴に閉めた。
その夜は何度母に呼ばれようと、
一度も返事をしなかった――
****
――翌朝。
スマホの盛大なアラームで目が覚めた。
「……だりぃ」
昨夜は母が寝たのを確認してから
シャワーを浴びた。
そのせいで睡眠がぶつ切れになってしまった。
全然寝た気がしない。
「はぁ……学校行くの面倒くせぇなぁ……」
制服に着替えて部屋を出ると、
廊下に母の気配があった。
キッチンから漂ってくる匂いで
料理をしていることに気付く。
リビングへ行くと母が姿を現した。
「あ、雄二。おはよう。
ちょうど朝ご飯の準備ができたから
一緒に食べましょう?」
妙に笑顔だった。
明らかに昨夜のことを気にして
取り繕っているのが分かる。
テーブルの上を見て、少し驚いた。
ベーコンポテトにオムレツ。
具だくさんの味噌汁、焼き鮭、焼きナス。
どれも俺が好きな料理ばかりだった。
「……」
眠い目をこすりながら、
こんな手間のかかるものを作ったのか……?
母は笑顔だったが顔色はあまり良くない。
……こんなもの作らないで寝てればいいのに
申し訳ないと思いつつも、昨夜のことで
どうしても素直になれない。
「飯はいらない」
それだけ告げるとリュックを背負って
玄関へ向かう。
「え? 待ちなさい、雄二!」
――バンッ!
追いかけてくる声を背に乱暴に玄関の
扉を閉めた――
****
マンションの駐輪場でマウンテンバイクを
引き出して、歩道まで押していったとき。
チャリーン
ポケットから鍵が落ちた。
「……ったく」
拾おうとしゃがんだとき、横から手が伸びてきた。
見知らぬ誰かの手が、地面の鍵を拾い上げる。
「はい、鍵」
顔を上げて少し驚いた。
いつの間にかすぐ近くに俺と同い年くらいの
男が立っていた。
背が高くて、やたらと人懐こそうに笑っている。
「あ……ど、どうも」
鍵を受け取って、サドルにまたがった。
さっさと行こうとしたら
男が声をかけてきた。
「それ、マウンテンバイクだろ?
かっこいいな。自分で買ったのか?」
「いや……親が買ってくれたけど」
「へえ。いい親だな。これ、高かっただろ?」
確かに高かった、と思う。
高校入学祝いに母親からプレゼントされた。
「……そうかもな」
どこの誰か知らないが、
初対面なのにやたらとフレンドリーだ。
敬語も使わないので俺もタメ口で返す。
「なら感謝しないとな」
ニコニコ笑いながら、相手は言ってのけた。
何となく気に障って、
返事をせずにペダルを踏もうとしたとき。
「ええ? もう行くのか? まだ七時だぞ」
「ああ、学校……遠いからな」
「その制服、青葉高校だろ?
それに乗れば二十分もかからないだろ」
男の言葉に驚いて、振り返った。
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
「この辺じゃ有名な進学校だからな。
それにしても凄いな。
あの青葉高校に通ってるのか」
感心したように言われると悪い気はしない。
その時。
ぐぅ~……。
俺の腹が派手に鳴った。
朝飯を食べずに飛び出してきたからだ。
「飯、食ってないんだろ。
俺も腹減ってるんだ。今から食いに行こうぜ」
男は、ぱっと顔を輝かせた――
****
気づいたら、駅前のファーストフード店の
席に座っていた。
目の前では男が楽しそうに
モーニングセットのハンバーガーを食べている。
俺の前にも同じセットが置かれていた。
「あの……俺、自分の分は払うからな」
「まあいいから食えって。
年上の言うことは聞いておけよ」
「年上? 俺の年齢知ってるのか?」
「そのネクタイの色、二年だろ。
俺は十八だ。一つ年上じゃないか」
「一歳しか変わらないだろ」
「こういう時は素直に奢られとけって」
どこまでも能天気な男だ。
でも不思議と嫌な感じはしない。
そうだ……せめて名前だけでも。
「ところで、お前何て名前だ。
俺は河合雄二だ」
「俺か? 俺は雄一だよ。
奇遇だろ、名前似てると思わないか」
雄一……。
この男が名乗った瞬間
なぜかひっかかるものがあった。
でも何かは分からなくて、
俺はそのまま流した。
「……そうか?」
「そうだって。雄二に雄一、いい名前じゃないか」
その時。
「あれ? お前、河合じゃないか」
不意に声をかけられた。
振り向くと、そこにいたのは見知った二人。
飯田と長谷川だった。
バイト先でかつて一緒に働いていた先輩で、
今は籍がない二人だ。
「……おはようございます」
嫌な気持ちが込み上げてくる。
この二人がバイトをクビになったのは、
俺が原因だった。
禁煙箇所での喫煙と、
棚からの窃盗を社長に報告したからだ。
それ以来、俺は二人から恨みを買っている。
「奇遇だなあ。
ちょうどお前に会いたいと思ってたんだよ。
俺たちの席に来いよ」
飯田が命令口調で言う。
長谷川は、その後ろでニヤニヤ笑っていた。
相手にしてもろくなことはない。
「俺は話すことないんで……」
「はあ? てめえ、俺たちの言うことが
聞けないのか?」
俺の胸倉を飯田が掴んだ、その瞬間——
「痛ってえ!」
奴が叫んだ。
雄一がいつの間にか飯田の背後に回り込んで
腕をねじ上げていたのだ。
「おいおい。俺が雄二と
メシ食ってるのが見えないのか」
雄一の声は穏やかだったが、
その目は笑っていなかった。
「は、放せよっ!」
「てめ! 放せ!」
長谷川が雄一の顔面を殴りつけようとした——
が、雄一はそれを片手で軽く受け止めた。
パシッ!
乾いた音が響き、長谷川の動きが止まった。
「騒ぎたいなら外に出るか?
俺は一向に構わないけどな」
雄一がにやりと笑う。
その笑みを見て、長谷川が青ざめた。
飯田もねじ上げられた腕の痛みで顔を歪めながら、
必死に首を振っている。
「……わ、分かった。
何もしないから……は、放してくれ」
「ふん」
雄一は鼻を鳴らすと手を放した。
「くっ……!」
飯田はうずくまり、長谷川が慌てて駆け寄る。
そんな二人を雄一は一瞥した。
「今度また雄二に絡んだら、
その時は腕を折らせてもらうからな」
笑顔ですごいことを言ってのける。
そんな雄一に恐れをなしたのか、
二人は顔面蒼白のまま
逃げるようにその場を去った。
雄一は何事もなかったように席に座ると
食べかけのハンバーガーを手に取った。
「さ、続き食べようぜ」
「あ、あぁ……」
こいつ……こんなに強かったのか……?
目の前でうまそうにハンバーガーを食ってる
雄一に少しだけ恐れを感じた――
****
その日を境に、俺は度々雄一と顔を
合わせるようになった。
雄一は神出鬼没な男だった。
学校への途中で立ち寄るコンビニで、
ふと顔を上げると雄一がいる。
バイトの帰り道。
夜の住宅街をマウンテンバイクで走っていると
向こうから歩いてくる。
どこに住んでいて
何をして暮らしているのか一向に教えてくれない。
「ミステリアスな男の方が
気軽に話せるだろ」
そう言って雄一は笑った。
俺も深く追及するのをやめた。
なぜかと言えば、
雄一は喧嘩の強さが半端じゃなかったからだ。
あの動きは素人じゃない。
ひょっとするとヤバい世界に
足を踏み入れている男なのかもしれない。
詮索するのは得策ではないと思ったからだ。
雄一と話すのは、不思議と楽だった。
学校の友人とは少し違う。
友人には見せない弱い部分を、
雄一の前では自然と口にできた。
自分でも理由は分からなかった。
もしかすると雄一が俺の話を面白がったり、
馬鹿にしたりせずに、
聞いてくれるからなのかもしれない。
だが……気になることは
いくつかあった。
それは雄一がいつも一人だったということ。
偶然コンビニで会っても、
ファーストフード店で会っても
友人や家族と一緒にいる姿を
一度も見たことがなかった。
ああいう陽気な男だから友人は多いはず。
なのに、いつも一人。
それにどんな生活をしているのかも
分からなかった。
学校へ通っているのか、それとも働いているのか。
本当に謎に包まれている男だった――
****
――ある夜。
バイトの帰りに偶然出会った雄一と、
缶コーヒーを買って公園のベンチに
並んで座った。
十二月の夜空は澄んでいて、
星がはっきりと見えた。
「お~やっぱり冬の夜空は奇麗だなぁ。
ほら。あれ、オリオン座じゃないのか?」
雄一が空を指さした。
「へ~すごいな。雄一は星座が分かるのか?
それじゃ、他にどんな星座が見えるんだ?」
「いや、分からん。
オリオン座しか知らないからな」
ハハハと笑う雄一。
「何だよ、それ」
俺は肩をすくめた。
今なら雄一のことを何となく聞けそうな気がする。
「なぁ雄一。お前……家族はいるのか」
雄一はしばらく空を見ていた。
「……いるよ、母親がな」
「父親は?」
「いない」
短い答えだった。
それ以上聞けなかった……
聞いてはいけない気がした。
「俺もいないよ、父親。母親と二人暮らしだ
父親は、小五の時に出ていった」
「……そうか」
俺たちは互いに夜空を見上げたまま。
「寂しくなかったって言えば嘘だけど……
今は別にどうでもいい」
ポツリと言ったが……嘘だ。
本当は、俺……。
「どうでもよくはないだろ」
雄一が俺を見た。
「お前は母親のこと、ちゃんと見てるじゃないか。
夜勤ばかり入ってる理由も。
疲れた顔してること も、全部分かってるんだろ」
「……」
答えることが出来なかった。
そんな俺に雄一が続ける。
「分かってるのに素直になれないんだろ?
そういうヤツに限って、
ちゃんと親のことを考えてるんだよ」
「……うるさい」
「はは、図星か」
笑う雄一。
返事をしなかったが、否定もできなかった。
しばらく二人で黙って空を眺める。
寒かったけど、なぜか動くになれなかった。
「なあ雄一、お前の家は?
どこで寝てるんだよ」
ふと気になった。
「どこでも寝られるよ」
「そんな答えあるかよ」
一体何言ってるんだ?
「ははは」
雄一はまた笑うと、立ち上がった。
「又な」
「ああ」
夜の公園を出ていく雄一の後ろ姿を見送りながら、
ふと思った。
あいつ……コートも着ていないのに
寒くないんだろうか――と。
****
また別の夜。
バイトの休憩時間、雄一が倉庫近くの
駐車場に現れた。
俺は缶コーヒーを渡しながら母親のことを話した。
前日、母親と再び口論したからだ。
「それでさ、いい加減バイト
辞めろって言うんだよ。
小遣いが足りないならもっとやるって……
全く、人のことガキ扱いしやがって」
「まあ、それだけ心配なんだろ」
雄一は缶コーヒーを受け取とり、
プルタブを開けた。
「そうか? 俺にはそう思えないけどな。
自分の都合で勝手に離婚して
片親にさせておいて。
自分は立派に子育てしてると
世間に見せたいだけじゃないか」
「まあそう言うなって。
お前だって、きっと子どもができれば
親の気持ちが分かるだろ。
それに最近は夜勤から帰ったあとも、
雄二が学校へ行く時間には起きてくるんだろ」
「……まあな」
「夜勤明けで疲れていても起きてるんだろ?
お前と一緒に朝飯食いたいからじゃないか?」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
夜勤明けで眠いはずなのに、
わざわざ朝食を作って俺を待っている。
あの日のオムレツや焼き鮭のことを思い出した。
「……分かったよ」
「素直になれよ、たった二人の親子なんだから」
雄一は飲み終えた缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。
「じゃあ、またな。バイト、頑張れよ」
「お、おう」
雄一は背を向けると去って行く。
「……妙に物分かりのいいこと言うし……
本当に謎に包まれた奴だな」
気付けばポツリと呟いていた――
****
十二月もそろそろ終わりの夜。
今夜もリビングで母と再び口論になってしまった。
「雄二、やっぱりバイトは辞めなさい。
この間の学校からの電話だって……」
「うるさい、ほっといてくれよ!
関係ないだろ!?」
気がついたら怒鳴っていた。
母が傷ついた顔をするのが分かっていても、
止まれなかった。
「何だよ! そんな顔して……!
もう口出ししないでくれよ!」
椅子を鳴らして立ち上がると、
部屋に閉じこもった。
結局この夜も部屋から一歩も出なかった。
母親から何度も声をかけられたにも関わらず――
――翌朝。
起きると母が朝食を作って待っていた。
「起きたのね、雄二。一緒に朝ごはん
食べましょう」
「……分かった」
向かい側に座り、飯をたべるも互いに無言。
母親は俺の様子をチラチラ見ている。
話しかけたくても、話しかけられない。
そんな様子だ。
だったら、こっちから話しかけるか……。
これでも少しは罪悪感があるからな。
「今日、仕事は」
食べながら話しかけた。
「え? 仕事?
今日は休みを取ったのよ。
出掛ける用があったから」
俺に話かられたのが嬉しいのか、
笑顔で答える。
「ふ~ん……出掛けるって、どこへ?」
「え? それは……ちょっとね」
言葉を濁す母に、また苛立ちが募る。
「何だよ、どこへ行くか言えないのか?」
「別に、そういうわけじゃないけど……」
ガチャン!
茶碗に箸を叩きつけて、席を立った。
「雄二!」
「学校行く」
行先を告げようとしない母親に自分でも
分からないくらい腹が立っていた。
「まだ食べ終わってないじゃない!」
「食欲ない」
それだけ言うと、玄関へ向かった。
「雄二! 待ちなさい! お弁当は!?」
バタンッ!
乱暴に扉を閉めて家を出た。
呼びかける母親を無視して――
****
昼飯を買うため、近所のコンビニによると
偶然雄一に出会った。
「おはよう、雄二!」
「……おぅ」
ぶっきらぼうに返事をする。
「どうした、機嫌悪そうだな」
「実は母親が今日どこかに出かけるらしいんだよ。
どこか聞いたら言わないし。
疲れた顔してるんだから、家で休んでりゃいいのに」
「……そうか」
返事をする雄一はいつもと少し違って見えた。
何かを考えているような、少し遠い目をしている。
「なぁ、雄二。あまり冷たい態度取るなよ。
たった二人の家族なんだろ?」
「うるさい。ほっといてくれって言ってるだろ!」
今日は雄一の言葉にもなぜか苛立ってくる。
カツサンドとカレーパンを掴んでレジに向かった。
「おい、雄二?」
背後で名前を呼ばれるも、
振り返らずに学校へ向かった――
****
――その日の夕方。
俺はいつものようにバイトに入っていた。
一緒にバイトをしている山本が近づいてきたのは
二時間ほど経った頃だった。
「河合、先輩社員が第五倉庫の
片付けを手伝ってほしいって呼んでるんだけど……」
妙に顔色が悪かった。
「分かった、行ってくるよ。
それより山本、顔色悪いぞ。大丈夫か?」
「あ、大丈夫……たぶん」
「ふ~ん……分かった、なら行ってくる」
何か言いたそうな顔だったが、
それ以上聞かずに第五倉庫へ向かった。
****
第五倉庫はもともと物置として
使われていた場所で、滅多に出入りすることはない。
扉を開けて中に入ると、ひっそりと静まり返っていた。
「先輩? 手伝いに来ましたけど……?」
だが返事がない。
倉庫の奥まで進んでいくと、明かりが一つだけ
ついていた。
「先輩……?」
その時——
ガッ!
鈍い音とともに背中に衝撃が走った。
背後から勢いよく蹴られたのだ。
「うあっ!」
ドサッ!
前のめりに床に倒れ、
激しく打ちつけた手と膝に激痛が走る。
「ウッ!」
立ち上がろうとした瞬間、
今度は背中を思い切り踏まれた。
「ガハッ……!」
激しい衝撃で咳き込みながら顔を上げると、
頭の上で聞き覚えのある笑い声が聞こえた。
「よぉ、河合。久しぶりだな」
「ようやくお前に会えたぜ」
それは飯田と長谷川だった。
「今夜はここに下っ端の
社員しかいないんだよ。
みんな俺たちの言いなりさ。
さて、バイトをクビにされた恨みと、
この前の店での仕打ち、晴らさせてもらうぞ」
飯田が俺の髪をグイッと掴んで顔を持ち上げた。
「っ!」
痛みで目を細めながら飯田を見る。
その顔は、怒りというよりも、
楽しんでいるように見えた。
まさか……?
「もしかして、山本を脅迫して……?」
「黙れ!」
いきなり拳が顔に飛んできた。
痛みというよりも、感じたのは熱さ。
……それからのことは、あまりよく覚えていない。
何度も蹴られた。
踏まれた。
蹴り飛ばされて倉庫の床を転がる。
ドカッ!
バキッ!
殴られたり、蹴られたりするたびに
声にならない悲鳴が出る。
やがて……徐々に俺の意識は薄れていった――
****
「う……」
気がつくと、周りは異常な程熱かった。
焦げ臭い匂い。
オレンジ色に揺れている視界。
棚が、段ボールが燃えている。
煙が天井に充満して
息をするたびに喉が焼けそうだ。
「ゴ、ゴホッ!」
逃げなければ、と思うのに身体が動かない。
激しい暴行のせいで全身の痛みが
酷くて起き上がれない。
徐々に煙が濃くなっていき、
さらに熱気が増していく。
――死ぬかもしれない……。
悲し気な母親の姿が脳裏に浮かぶ。
俺が死んだら……母さんは一人きりに……。
何もかも諦めて瞼を閉じたその時――
「雄二っ!」
すぐそばで声がした。
「しっかりしろ!」
目を開けると雄一がいた。
「な、なんでここに……?」
……どうして俺がここにいると
分かったんだ……?
「話は後だ! 立てるか?
こっちはまだ炎が少ない今のうちに逃げるぞ」
グイッと身体を起こされると全身に激痛が走る。
「うっ! あ、足が……」
こんな状態で逃げられるとは思えない。
だが、雄一は諦めていないようだった。
「大丈夫だ! 俺が支える。掴まれ!」
雄一が俺の腕を肩に回させて、一緒に歩き始めた。
煙の中、ゴウゴウと音を立てる炎の間を
縫うようにして進む。
熱さと痛みで意識が朦朧としてくる。
「うっ……はぁ……はぁ……」
それでも雄一の声だけは、はっきり聞こえた。
「もう少しだ、頑張れ」
バキバキッ!!
棚が崩れる音がした。
天井の一部が音を立てて落ちてきた。
「危ない!」
雄一が俺を引っ張って、かわした。
ゴウッと熱い風が吹き上げる。
「あっちだ、まだ燃えていない場所がある!」
雄一にほぼ引きずられるように歩いていると
出口の光が見えた。
もう少しだ……。
その時、雄一が立ち止まった。
「雄二」
突然声が変わる。
さっきまでの、急き立てるような声じゃなかった。
その声はとても穏やかだった。
何故立ち止まるんだ?
尋ねようとしたとき――
「あの人によろしく伝えてくれ」
「え……?」
あの人って……?
「あの人によろしくって……誰だよ……」
思わず雄一の顔を見た。
炎に照らされた顔は、笑っていた。
「もう充分だって、伝えてくれ」
どういうことだ……?
「ちゃんと素直になれよ。二人きりの家族なんだから」
「雄……」
ドンッ!!
次の瞬間、強く突き飛ばされた。
出口の外に転がり出て、
冷たい夜の空気に全身を包まれる。
雄一……。
そこで意識が完全に途切れた――
****
どれくらい時が経過しただろうか……。
「う……」
自分うめき声で意識が戻って来た。
ゆっくり目を開けると白い天井が見える。
やがて周囲の状況が飲み込めてきた。
消毒液の匂い……腕に刺さる点滴の管。
頭の奥に鈍い痛みがある。
ここが病院だ、と気づくのに
少し時間がかかった。
「雄二!? 目が覚めたのね!?」
すぐ傍で声が聞こえ、顔を向けると母親がいた。
椅子に座ったままこちらを見る目は、赤い。
泣いていたのだと分かった。
「母……さ、ん……」
自分で驚くほどに弱々しい声。
「よかった、目が覚めたのね……!」
母が俺の手をそっと握る。
その手は小刻みに震えていた。
「丸一日意識が戻らなかったのよ?
でも、本当に……良かった……」
声を詰まらせる母を改めてじっと見る。
今まで気にしていなかったけど、
随分と痩せた気がする。
目の下のクマが夜勤と昼の生活の両立が
どれだけ大変なのか物語ってる。
「い……飯田と長谷……川は……?」
殴られたせいで口が腫れているのか、
うまく話が出来ない。
「警察が話を聞いているって。
たばこの不始末で火事になったみたい。
……雄二に暴行したことも含めてと調べを
受けているそうよ。でも未成年ではないから
火事も含めて、有罪判決になるのは
間違いないわね」
「そう……か……」
「雄二……ごめんなさい」
手を離すと、突然母が謝ってくる。
「アルバイトを怒った時、
ちゃんと話を聞いてあげなかった。
何でバイトしているのか、
ちゃんと聞けばよかった。
学費を貯める為だったのでしょう?
雄二のバイト先の社長が言ってたわ。
あなたの気持ちを知ろうともせず……」
再び涙ぐむ母。
今なら素直になれる……。
「母さん……俺こそ……ごめん。言いすぎ……た」
「雄二……」
「離婚のこと……責めるような言い方をして……
ごめん……」
「……っ!」
母の目に涙がたまった。
そこでふと、雄一のことを思い出した。
「そうだ……雄一は?
あいつが……俺を助けてくれたん……だ。
炎の中から……出てきて、俺を……
あいつが突き飛ばして……くれなかったら
俺は出口まで……辿り着けなかった……
どこにいる……?」
母の表情が変わる。
「え? 雄一、って……」
「俺の友達だ。……最近よく会ってたんだよ……
年は一つ上で……」
「雄二、貴方は一人で倉庫から出てきたのよ?
火事で駆けつけてきた人たちが、そう証言してるの」
その話に耳を疑う。
何だって……?
「そんな訳……ない。
雄一が肩を貸してくれて……あいつが俺を突き飛ばして……」
「ちょうど駆けつけてきた消防士の人達も話してる。
貴方は一人で出口の外に倒れていた。
中には誰もいなかったと」
「う、嘘……だ。雄一は……一緒にいたんだ……。
炎の中から来て、俺を……」
そんな話、信じられるはずがない。
「それで……あの人によろしくって……」
「雄二」
母の声が変わった。
まるで何かをこらえているような……そんな声だった。
「もう一度教えて。
その人の名前と……最後に何て言ったか」
「あの人によろしく伝えてくれ、って……
もう充分だって」
その後にも何か言ってた気がするが……
覚えていない。
すると母が青ざめた。
椅子に座り直して、俺の手をもう一度握った。
今度は力強く。
「あなたに、話さないといけないことがあるの……」
母が話し始めた――
俺には本当は兄がいた。
俺が生まれる二年前、母は妊娠した。
雄一という名前まで決めていた。
だが……死産だった……。
「ずっと言えなかったの……。
私も思い出すと辛くて……
ちゃんと生んであげられなかったことが
申し訳なくて。
話すタイミングも見つけられなくてね」
月命日には欠かさず一人で
お寺へお参りに行っていた。
休みを取って出かけようとしていたのも、
その命日だったという。
「雄一って名前を聞いた瞬間から……
もしかしてって、思った」
「……」
俺は何も言えなかった。
雄一……あいつは俺の兄だった。
生まれてこられなかった兄が、
喧嘩ばかりしている俺と母を心配して
現れたのかもしれない。
「あの人によろしく伝えてくれ」というのは、
母へのメッセージだった。
「もう充分だ」というのは……もう大丈夫だ、
という意味だったのかもしれない。
「……っう……」
いつしか俺は泣いていた。
涙が止まらなかった。
多分……もう二度と、雄一には会えない。
そんな気がしてならなかった。
「母さん……」
「なに?」
母の目にも涙が浮かんでいる。
「今まで……ごめん。
俺……ずっと素直になれなくて」
「いいのよ……私こそごめんなさい。
あなたの気持ち、何も考えてあげられなくて。
今まで……一人にさせてごめんなさい。
ずっと……謝りたかった」
「そんなの……もういいよ」
母の手を握り返した。
「これからは……ちゃんと母さん孝行するよ
「何よ、突然変な子ね」
母は泣き笑いの顔で俺を見た。
雄一……ありがとう。
お前のおかげで命を救われたよ。
これからは、お前の分まで親孝行するからな。
空の上から見ていてくれ。
するとどこかで雄一の笑い声が
聞こえた気がした——




