彼女は悪女ではあり得ない
同シリーズ「悪女はお姉様ではあり得ない」の続編です。
お手数ですが、シリーズ一覧の前作からお読みください。
そのころ、私はなにもわからない、わかっていない小娘だった。
帰り道の馬車の中、泣き濡れながらあの日のことを思い出す。
私はオスマン伯爵マーレ家の次女、メリザンド・レティシア。
私は末の子で、上にはエドガール・アラン───エド兄様がいる。あとの二人は……同じ父親を持つ子であるというのは、そう。
第二王子妃、フェリシテ・シビル・イアサント・ド・ブラン=ル・ラヴォー殿下。
それから、フェレール男爵令息、セドリック・ギィ・アンブロワーズ・ド・ブラン。カルパンティエ侯爵ブラン家の分家で、侯爵の御嫡男の右腕。
どちらも、お父様の子であり、血縁上は姉と兄にあたる。けれど、彼らは私たちのことを、決して弟妹とは認めないだろう。
貴族社会において、格というものは非常に重要視されるもの。
私が十三歳のとき───フェリシテ殿下はお父様の手を離れ、伯父君であられるカルパンティエ侯爵の養子となり、第二王子ラファエル殿下のもとにお輿入れなさった。
その婚約発表のとき、自分たちがなんと言ったのか。
───脳裏にこびりついて、今でも消えることはないけれど。
王のお決めになられたご婚約だ。
それに対して、私は馴れ馴れしく『おねえさまのお祝いがしたかった』と呼びかけた。
お父様は『他家』の令嬢を、情のない悪女と罵った。
その先に待っていたのは、あっという間の凋落だった。
いま思えば当然だ。王が認めた令嬢相手に、なんと礼のない振る舞いか。
私は決まったばかりの婚約を破棄された。踊る前に、その場で避けられたほどの始末だったから経歴にその意味での傷はないけれど、婚約者に浮かれていた私の頬を白くするには十分なことだった。
お父様は交友を絶たれること幾度だろう。
貴族の交友関係をろくに持たないお母様は、それを支えることができなかった。
それでもそのころの私は、自分が何をしでかしたのかすらわからず、右往左往してばかりだった。
そんなある日のことだ。
爆発したのは、エド兄様だった。
この国の貴族は、十四歳になる年から学院に通うことになる。誕生日の早いエド兄様はもうとっくに十五歳になっていて、学院では二年生に上がったばかりのころだったはずだ。
当時の私にとっては婚約者を失った日、いまの私にとっては大失態を演じた日───そのころから、エド兄様はだんだんと無口になっていた。
その兄様の前で、母上は夕食を並べながら嘆いた。
「本当に、何がいけなかったのかしらねぇ」
ダン、という大きな音は、一瞬、なんの音かわからなかった。
ひどく乱暴に、兄様の両手がテーブルに叩きつけられた音だった。
「何がいけなかったって、何もかもに決まってる!!!!」
叫ぶエド兄様の怒気に、母はびくりと震えた。
「何もかもって、そんな」
「エド。母に向かってなんという言い草だ。謝りなさい」
エド兄様は炯々と目を光らせて、強く父を睨んだ。
「嫌だね。どうせ、僕がなんと罵られてるかも知らないくせに。知ってる? 学院で僕がどれほど蔑まれているか!!」
そう喚くエド兄様の言葉にだろうか、父はすこし怯んだようだった。
エド兄様の爆発は、まだまだ始まったばかり。
「優秀なセドリック卿の席を乗っ取った平民腹、無礼な父に無学な母のもとに生まれた男と嘲笑され、妹も不出来で可哀想にと笑われて、男爵の三男にすら事故物件扱いされて避けられて!!
わかる?! これがどれほど屈辱的か!! 僕は生まれを選んだ覚えなんてないし、セドリック卿を廃したのは父上だし、失態を犯したのもメリィと父上だ!! 僕が貴族のマナーについて無知なのは何にも知らない母上のせい!! なのに僕まで蔑まれる!!」
エド兄様が、またテーブルを叩いた。
「ああそう、この食卓だってそうだよ!! 貴族らしくない!! テーブルマナーがいらない食卓なんだ、大皿から料理を自分で取り分けて食べるなんて庶民しかしないのに、うちではいまだに母上が料理を作ってる!!
だから僕だって、テーブルマナーなんて通り一遍しかやってないんだ、なのに学院に出たらいきなりテーブルマナーを求められて、それすら教えられなかったのかと訝しがられて」
唸るように、声がだんだんと低くなって、父は居丈高に言い返す。
「覚えていなかったのはエド、お前だろう。言ってくれさえすれば家庭教師だって手配した! 言い返してやればいい、お前はできる子だ」
「どの口がそれを言う?! 最初は覚えていなかった僕が不出来だと思ったさ。うちでは母上が料理上手だからと、誇らしく思ったこともあった!!
でも違った!!
みんな各自の皿に盛り付けられたものを食べてたんだ、ずっと!! 生まれてからずっと、テーブルマナーを使って来てるんだ!!なのに僕は、学院に入るまでは一度も、そんなものが必要になったことなんてなかった!! 大皿から料理を取り分けるのが当たり前の環境から、外に出たことがなかったんだから!!」
「エド、大皿が当たり前だなんて、そんなわけがないだろう……!! レストランでの食事は違ったはずだ!!」
「でも咎められなかった、そうだろ!!」
「なんのために個室を選んだと思っている!! エドはまだしも、メリィはまだ小さいんだぞ!!」
「小さい? 十三だろ、来年の秋には学院だ」
エド兄様は鼻で笑った。
「挙げ句の果てに、メリィはあろうことか妃殿下に、気安く、目下から声をかけて、父上は養子に行った娘を実の娘扱いした挙句に面と向かって罵倒して、返り討ち!
結果、貴族にも商人にも次々縁を切られて、大ピンチ。残ってるのはわずかな領地収入と納税義務。
母上は母上で貴族らしく振る舞う努力をしてこなかったから、おんなじ玉の輿に乗った平民上がりの奥様たちしか知り合いがいない。その知り合いにもそっぽを向かれて、家どころか父上の支えにすらなってない。
ねえ父上。いまのことはさ、父上が母上を好きにさせて、メリィを甘やかして、僕にろくにものを教えてくれなかったからなんだよ。
呆れて何も言えないってこういうことでしょ?」
───しん、と夕食の席が静まり返った。
エド兄様は、苛立たしげに『なんか言ったらどうなの?』などと言ってくる。
私はそのとき、凄まじく衝撃を受けていた。
こんなに怒り狂うエド兄様は初めて見た。
私の知らない世界を語るエド兄様も。
「エドガール!! 父に向かってなんという口の利き方だ!!」
「父親だからなんだ、家長だからなんだ!! 僕の苦労は、全部父上が僕をこう育てたせいなのに!!」
エド兄様は食事に手もつけずに去っていく。お父様は座りなさいと怒鳴ったが、エド兄様は振り返りもしなかった。
私は怖くて涙が出た。わけのわからないことを言って怒り狂うエド兄様も、それを怒鳴りつけるお父様も、私にとってはいつだって優しい人たちだった。こんな怒鳴り声なんて聞いたこともなかった。
「メリィ、泣かないで」
囁きかけてくれたのはお母様。
「お父様はね、貴族の堅苦しい食卓より、こうしてみんなで食事をとるのが好きなんですって。だからね、これでいいのよ」
これでいい。
そう言われたのに、私はなんとなく、素直に納得できなかった。
わからないなりに、翌年に学院に上がるころには、エド兄様は帰ってこなくなっていた。貸与奨学金の手続きをして、寮に入ってしまったのだ。それでお父様はずっと不機嫌だったし、お母様はエドはいつになったら帰ってくるのかしらと、そればかり。
家で居心地が悪くなっただけではない。
私は、学院に入ったその日から、落ちこぼれとして扱われた。みんなと同じ平等な評価なんて、ありはしなかった。
居心地の悪い家、居場所のない学院生活。
最初は混乱したし、理不尽だとも思った。泣いたことも喚いたこともある。十四歳の、家の中でぬくぬくと甘やかされてばかりだった私には、ずいぶんと堪える日々だった。
けれどだんだん……そう、だんだん、わかってくる。貴族としての画一的な教育を施されれば、いやでもわかる。
貴族社会の階層性や、マナーへの厳しさ。この社会をわたっていくのが、どれほど難しくて厳しくて────我が家がどれほど、異常だったか。
あの日、どれほどとんでもないことをしたのか。
どれほど、お姉様───いいえ、フェリシテ妃殿下が屈辱に耐えてきたが、どれほど努力を重ねたのか。
それがようやく、学院という貴族子女の社会で揉まれて初めて、理解できた。
最初は、父の不倫の話が耳に入ったことだった。
────カルパンティエ侯の妹君を裏切ったオスマン伯爵。不出来な不倫の子。引き換え、裏切られたフェレール女男爵の嫡子たちは努力を重ね、地位を得たり見初められたり。なんと素晴らしい方々か。
エド兄様は不倫でできた子供で、そのころお父様には別の奥方がいたことすら、当時の私は知らされていなかった。前の奥方──いまのフェレール男爵のことは、私の耳には入らないようにされていたのだ。
お姉様はお姉様。お母様の産んだのではないお姉様。わたしにとっては本当にそれだけでしかなく、疑うことすらしたことがなかった。疑う要素を持たないようにされていた。
学院で噂話を聞いて、はじめて、私は私がどんなふうに産まれた子供だったのか、そして『お姉様たち』がどんな扱いをされてきたのかを、理解した。
お父様は、貴族の階級社会で許されないことをしでかしたのだ。
お姉様のことも、フェレール男爵のことも、セドリック卿のことも、あってはならないことだった。
背筋が震えた。
貴族籍があるから、学院に通い、貴族の資格を得られるのだ。セドリック卿は、父にそれすらも奪われていた。
彼は……不倫でできた弟がいたから、父親も、姉も、継ぐはずの家も、戸籍も、学院生活も、何もかもを奪われたのだ。
私は学院に入って、自分がどれほどひどいことをしたのか、どれほどおかしな環境にいるのかを自覚し始めていた。蔑まれ、出来損ないとして扱われ、まともな評価などない。そんな苦痛に満ちた学院であっても、ここに来なければ自分の家の異常性を知ることはなかったのだ。
でも、この「苦痛に満ちた学園生活」ですら、セドリック卿には許されていなかった。それをわかっていて学院に通い続け、好成績を修め続けたフェリシテ妃殿下は、どれほど辛かっただろう。
学院に通うことだけは、やめたくなかった。
毎日毎日、家に帰るたびに気が狂いそうだった。
貴族として、フェリシテ妃殿下は正しかった。
どこまでも正しかった。
彼女は五代前には王家の血をすら戴いた、本物のお姫様だったのだ。男爵の弟の娘でしかない私の母とは、文字通り世界が違う。格なんて火を見るより明らかだ。
実際に、私は学院で学んだ。同じ伯爵の子でも、名門侯爵家の夫人とその娘、男爵の姪とその娘で、同じ扱いをされることはない。それが血統であり、それこそが貴族の格だ。
────礼儀のなっていない不倫の子に、馴れ馴れしくお姉様と呼ばれる筋合いはなかっただろう。
尊い血を継ぐお姫様が、格下の娘のために、オートクチュールのドレスすら失う必要だって、どこにもなかったはずだった。
なのに自分は、ベルジュロン子爵家に遊びに行くのに連れて行けとわめいて、妹を置いて行くななどという父の訳のわからない台詞を諫めたこともなかった。
いまさら、自分の無作法さに涙が出た。
お父様は私に甘かった。いつでも味方をしてくれた。それは、お姉様のことはそうではなかったということ。フェリシテ、となじる声がどれほど理不尽だったか、私は知ってしまった。
お母様はお父様の不倫相手だった。母君を間接的に追い出し、弟君の人生を奪った人間の手料理を毎日振る舞われて、修めたテーブルマナーを使うことも許されないなんて、どれほどの屈辱だっただろう。
そして、おねえさま、と無邪気に甘えた私。
父にも、私にも、母にも、兄にも。
なにひとつ知られないままに、フェリシテ殿下は手を回してみせた。
全力で知られまいとしたはずだ。
─────だって、あんな振る舞いだった。あんなにひどかった。
許されていいはずがないくらいに。
その許されない振る舞いを、彼女は振り捨てるために、何ひとつ知られてはいけなかった。
誰にも知られず、手を回したフェリシテ殿下の手腕は、今になってみれば尋常でないものとわかる。
誰にも悟らせず、味方につけた貴族たちも離反させず、さりとて王太子殿下を退けることにもならないようにと、丁寧に策略は成されていた。
それだけではない。あの日まで、私は『もう一人の兄』───セドリック卿のことを知らなかった。
その復権を含めて、父の手を一切介することなく成し遂げるなんて、私では絶対にできなかったことだった。
それをやり切ったフェリシテ殿下の、私たちへの心象がどれほど悪かったことか。
あのときは何もわかっていなかった。
父親の惨さも、母親の無神経さも、なにひとつ。
貴族として正しかったのは、お姉様。
間違っていたのは、私たちだった。
それが、ひしひしとわかって、理解して、器からあふれたある日。
「すみません、あの、エドガール・アラン・ド・マーレに、面会を希望したいのですが」
「君の名前は?」
「メリザンド・レティシア……ド・マーレ、です」
夕暮れも終わろうとする時間。学院の表門は閉まり、もう外に出られる時間ではなかった。
私は男子寮の玄関にいた。寮監はひどく訝しげに私を見たが、取り次ぎはできる、と言った。
「ただ、エドガールからは、家の人が来ても会わないとは言われている。取り次ぎはするが、会えるかは分からない」
「わかり、ました……大丈夫です」
帰りたくなかった。家にいたくなくて、帰りたくなくて、私はつい学院に長居をして……門限を超えた。
それはすこしわざとで……そうしたらエド兄様も、帰り損ねた妹を哀れんで、少しは会ってくれるんじゃないかと思った。
冷え込み始めた空気は冷たく、私は学生らしいシンプルなドレスのまま、じっと座っていた。手に息を吐きかけて温めたいと思ったけれど、それは淑女の行いではない。
私は────変わりたかった。
ちゃんと、自分の肩に乗った責務にふさわしい自分に───貴族子女として誇れる淑女になりたかった。かつておねえさまと呼んだ、フェリシテ妃殿下のように。
おそらく、長く待っていたのだと思う。指先が冷えて眠たくなるころ、私の前に人が立った。
「……メリィ」
最後に聞いた、声変わりの直後の声よりもしっかりとした声。エド兄様だった。
「……、お兄様」
エド兄様、と呼ぼうとしてためらった。砕けすぎてはいまいか、どうなのか。掠れた声でお兄様と呼んだそれすら、自信がない。
「なんでここにいる? 門限は過ぎてるだろう」
「…………」
「メリィ?」
答えない私を見て、エド兄様は膝をついた。私の顔を覗き込んで、それから深々とため息をついた。
「何をしに来たんだ」
「……ごめん、なさい」
「門限は過ぎてるだろう。どうして残った?」
「…………かえりたく、ない」
エド兄様は眉を上げた。
「そう。なんで帰りたくない?」
「……、」
私はためらって、うつむいて、言葉を続けた。
「…………あそこにいたら、わたしは……またおかしくなる……」
淑女になりたい。
許してくださいなんて二度と言えない。言ってはいけない。でも。
あの人の妹は、なんと無様なこと、なんて、もう言わせたくないのだ。
父と母のことであの人は苦しんだ。私もまた、あの人を苦しめた。
せめてこれ以上、輝かしいあの方の足を引っ張りたくない。
社交界で、血縁の出来が悪いということが、どれほどのゴシップになるのかをようやく知った。妹があれでは、第二王子妃の子もあのようになるのではと、嘲弄する声を知った。
ひっそりと社交界から消えても噂は残る。たとえ汚点は消えなくても、成長した姿でしか払拭できないものはあるのだ。
私は、ようやくそれを知った。
「メリィ。メリザンド」
呼ばれ、はっと気づく。知らぬ間に手が震えていた。その手に重ねられたのは、エド兄様の手。
ふと目の前に視線を移して、ようやく気づく。
「気付いたんだね。あの家がおかしいこと」
「うん……、はい」
真摯な目で、エド兄様は私をじっと見て、それから抱きしめた。
「つらいね、メリィ。私たちはふたりきりだ。父も母もあてにならない。家と外の常識は違いすぎて、家にいると苦しくなるね。
でも、覚えておかなくてはいけないんだ。妃殿下には、こうして抱きしめ合う兄妹もいなかったこと」
「…………もう、わかっているわ。セドリック卿は、私のように抱きしめてはもらえなかったこと。私が、学院でどんなことを言われても……セドリック卿は、ここに来ることすらできなかったことも」
「そうだよ。そうだったんだよ……」
ぎゅう、と、エド兄様の腕に力がこもった。
私たちは知らないまま、あのひとをたくさん傷つけた。
私たちは四人家族で、いまだって兄妹がいる。
そしてあの人は当時、たった一人だったのだ。
それをいまさら、私は思い知った。
───メリザンドは、唸るように泣いた。
淑女は声をあげて泣いたりしない。それでもこぼれた声を必死に噛み殺して、兄の肩で泣いた。
*****
メリザンド・レティシアは────私は、学院を卒業してからしばらくして、結婚した。
学院はそれなりに良い成績で卒業したし、級友や教師たちの一部は私のことを見直した、と言ってくれて、交友もできた。逆に屋敷の中では、次第に両親とは没交渉になっていった。
なんとなく、昔のフェリシテ妃殿下もそうだったことを思い出して、なんとも言えない気持ちにもなった。
ただそれでも、夜会には出ることを命じられた。けれど当然ながら、あれほどの醜聞を持つ私に縁談なんてあるはずもない。それはもう十分にわかっていて、端に所在なく立っていたところに、声をかけてくれた人がいたのがきっかけだった。
その結婚相手は商人で、社交界や王宮への出入りもできるようなやり手の商会長だった。
もちろん、私の過去の悪評のことも知っていたけれども、それ以上に反省し、二度とフェリシテ妃殿下の足を引っ張るまいと志し、淑女になろうとした私の努力を認めてくれた。
そもそも、フェリシテ妃殿下やカルパンティエ侯爵家に睨まれることを覚悟で、私を嫁にと名乗り出る貴族家などあるわけがない。商人の男も、その両親も、もしもそうなったら、首都を離れて商売をしようと笑ってくれたから、嫁ぐことを決心できた。
そうして私は、貴族の位を手放した。
エド兄様は、あのあと官吏として城仕えになり、オスマン伯爵家とは実質縁を切っている。自分が跡を継いだら、爵位はその日に返上すると宣言して。
お父様は、まだオスマン伯爵の位に未練があるらしく、手放せていないとか。でももう、あの実家を手放すことを検討するほど、困窮しているそうだ。
まあ、そうだろうと思う。取引先にも、私が多少まともになっていても、実家はそうではないことは申し伝えてある。
その間、フェリシテ妃殿下と、セドリック卿の話は、色々と聞こえてきた。
逆境を叩き伏せた姉弟は、それぞれ確固たる地位を得たこと。フェリシテ妃殿下は息子と娘に恵まれ、王室に新たな子供たちをもたらした。どちらの時も王室から公布されて、ご懐妊の報が出た時は、私も教会で安産を祈った。
セドリック卿は王太子殿下、第二王子殿下どちらからも重用されているとか。こちらも子宝に恵まれたそうだ。
嫁いでから三年が経ち、私は二十三歳になった。
子供も産まれて、商売は軌道に乗り、私もあくせくと商家の女主人をやっている。身につけたマナーは取引の際に強みになったし、貴族たちについての記憶も役に立つ。
出来損ないの貴族として生きていくよりも、ずっとやり甲斐があるように思えた。
フェリシテ妃殿下は、今の私と同じ年齢まで耐え忍び、あれをやってのけたわけだが……いまになっても、自分にあれができる気はしなかった。私の身の丈は、商家の女主人でちょうどよかったのかもしれない。
貴族として生きる誇りを忘れたことはないけれど、完璧な立ち居振る舞いは、ついぞできた気がしない。
ただ、今日ばかりは緊張しながら、馬車のタラップを上がる。
今日は、付き添いの女性を二人連れて、王宮に行くことになっていた。
夫の商売が目に留まったとかで、ハーブティーを試したいという呼び出しだった。
それも、第二王子妃───フェリシテ・シビル・イアサント・ド・ブラン=ル・ラヴォー妃殿下のために。
過去に私はあれほどの無礼を重ねたにも関わらず、あちらからは、女性を遣すようにと指定されている。理由は、第二王子殿下が、自分のいない時に妃のそばに男を寄せるのを、ひどく嫌がられるから。そんなことを言われては、こちらも否とは言えなかった。
そうなれば、商会長の妻が出るのがフォーマルである。特に貴族出身で、学院を卒業しているなら尚更だ。
だからどれほど嫌でも緊張しても、私は今日ばかりは、商会の女主人として、鞄を持ち、王宮に行かねばならない。
十年前まで、あれほど傷つけた妃殿下に会うために。
「奥様、その、……きっと大丈夫ですから」
「……いいえ、合わせる顔がないの。もうずっと」
「…………」
現在の姿だけを知る彼女たちはそう言ってくれるが、私がいま怯えているのは、過去なのだ。どれほど慰められても、罪は消えない。
十年が経ち、背筋を伸ばして、指先を揃えて、馬車の中でどれほど美しく座れるようになっていても、憂いが褪せることはなかった。
王宮の入り口をくぐり、招待状を衛兵に見せる。案内されてゆく行先は、敷地内の離宮の一つのようだった。
心臓が早鐘を打ちそうになるのを、必死に宥めて深呼吸をする。ほんのすこし震える手を、付き添いの女性がそっと握ってくれた。
「……ありがとう」
「いいえ……」
馬車が止まり、扉が開けられる。
私は震えそうな足を叱り飛ばしてタラップを降り、招待状を渡す。そのまま、こちらへ、と案内された。
馬車留めがあり、その奥は回廊になっていた。つまり玄関ホールが遠く、大勢をもてなすための作りではないことがわかる。
美しい庭園が見える回廊を抜けると、その奥に瀟洒な離宮本館がある。あまり広くはなさそうで、こぢんまりとしていた。
規模的に、この本館に住み込みで働いている使用人は多くなさそうだ。おそらく、本宮や別棟から通っている者も多いのだろう。……そんなことが脳裏をよぎって、それを察せたことに、すこしは成長できたような気分になった。
「エルメス夫人、こちらへ」
「はい」
館内に招き入れられ、ああ、と思う。
なんとなく、飾られた花が懐かしい気がした。フェリシテ妃殿下のご趣味かもしれない。
「三日後には公布されますので、殿下からは先に伝えて良いと申しつかってございます」
「はい、……?」
「妃殿下におかれましては、めでたくもご懐妊あそばしておられます。
つきましては、御典医から、悪影響のあるものは控えるよう指示がございました。通常の紅茶や、いくつかのハーブもそこに含まれておりますので、こちらの表をお渡しいたします」
「そ、れは、おめでたいことで……」
───そんなタイミングで、私を呼んだの?
案内の侍従からリストを渡される。聞いたことのないものはほとんどなく、使われていないハーブティーも、手元にはもちろんたくさんあった。
貴族相手なら、子供を産まなくてはいけない夫婦相手の商売はもちろん増える。そうなれば、妊娠を望む夫婦や、気づいていないほど早い週数の妊婦に悪影響を及ぼすようなお茶は避けたほうが良い。それが避けてあるものが多いのもあって、このハーブティーは人気を博しているのだから。
けれど、しかし、それを求めてかつての加害者を呼び出していいのか。
「エルメス夫人。妃殿下は、お怒りではございません。どうぞ、お心を安らかに。
こちらの部屋で妃殿下がお待ちです」
身だしなみを整える三十秒のあと、容赦のないノックが響く。
内心で三秒数えてから、ゆっくりと、内側から開けられた扉の向こうに踏み込む。
ソファにぴしりと座る、美しい人がいた。
目を合わせないよう、カーテシーをした。
たぶん、人生でいちばん、意識を張り詰めたカーテシーだった。
「……顔をあげて、楽に」
わずか二秒。かつてよりも、やや掠れた声がした。
指示通りに顔を上げると、わずかに微笑んだ、フェリシテ妃殿下と視線が合った。
「ごめんなさいね、こんな姿で。調子がすぐれないものだから。エルメス夫人、と呼んでもよろしいかしら」
「もちろんでございます、妃殿下。メリザンド・レティシア=エルメス、御心に添えますよう、最大限を尽くさせていただきたく存じます」
「…………ありがとう。……説明は聞いたと思うけれど、お腹に子がいるの。この子に良いお茶を探しています」
ゆったりとしたドレスは、どうやら部屋着のようだった。そっと下腹部を撫でる仕草は、優しげで、幸せそうだった。
声の掠れは、おそらく悪阻のせいだろう。
いま、自分が、それを陰らせていないことに、心から感謝した。
私はそのあと、いつも通りに、でもいつもよりもずっと緊張して、神経を使って、フェリシテ妃殿下に……『お姉様』に、失望されないように必死に振る舞った。
フェリシテ妃殿下は、五種類のハーブティーをお買い上げになることが決まり、私は辞去に合わせて、もう一度カーテシーをした。
「……エルメス夫人」
呼ばれて、視線を上向ける。カーテシーをしたまま、フェリシテ妃殿下と目が合った。
「カーテシーが、上手になりましたね」
「……───おそれ、いります」
喉を引き絞るようにして、なんとか、そう答えた。
覚えている。否、思い出した。
最後にお会いしたあの夜会で、妃殿下は言ったのだ。
───『わたくし、カーテシーやボウ・アンド・スクレイプのお上手な方から話しかけられたいの。分かってくださる?』
その妃殿下が、カーテシーが上手くなったと、褒めてくださった。
ふらふらになりそうになりながらも部屋を出て、案内通りに離宮を離れる。遠くで子どもの声がした。妃殿下の───第二王子夫妻の子どもたちの声だろうか。なんの陰りもなさそうな、元気な子供の声だった。
なんとか回廊を抜けて、馬車が見えた瞬間、かくん、と膝が崩れ落ちた。
「奥様、大丈夫ですか!?」
十年、耐えて、努力して、変わろうと必死になった。貴族も辞めた。
二度と、お姉様などと呼ぶことはない。
けれど彼の方はまさしく、『憧れのお姉様』のままだった。
所作の一つ、言葉の一つ、思い返せば、最上の手本だった。学院に入ったあと、実家を離れて努力する中で、何度も思い出してはそれを目指した。
あの美しいカーテシーに近づくのが、夢だった。
「ええ、ええ。……大丈夫よ」
抱き起こされても、馬車に乗っても、涙が溢れて、止まらなかった。
前作へのご感想、ありがとうございました。
多分あと一本、頑張れたら長編(フェリシテの学園編)が出ます。
(書きかけてはいます)
執筆についてのあとがきは割烹に。




