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素数たちの公約数  作者: さる
第二問 フィボナッチの罠
7/10

問七 黄金の数列

 市立植物園の温室は、熱を孕んだ重苦しい緑の匂いに満ちていた。数凪零は、整然と並ぶ大輪のひまわりの前にしゃがみ込み、無機質な瞳でその中心部を凝視していた。眼鏡の奥の瞳は、まるでスキャナーのように花びらの奥に潜む「秩序」を読み取っていく。


「……34、55。やはり、この個体も完璧だ」


 ひまわりの種が描く右回りと左回りの螺旋。その本数は必ず「34」と「55」のように、隣り合ったフィボナッチ数になる。宇宙が設計した、最も効率的で最も美しい配列。数凪にとって、この場所は人間が作り出したどの美術館よりも価値のある場所だった。彼は指先でそっと空中に円を描く。頭の中では、黄金比 1: 1.618 の螺旋が無限に広がり、都市の喧騒や人間の醜い感情をすべて数学的調和で塗りつぶしていく。


 だが、その至福の静寂を、砂利を噛んだような無遠慮な足音が踏みにじった。


「……おい。お前、何してんだ、こんなところで。学校はどうした」


 聞き覚えのある、砂利を噛んだような低い声。数凪が視線だけを向けると、そこにはヨレヨレのトレンチコートを羽織り、場違いなほど鋭い眼光を放つ男――戸田健二が立っていた。


「刑事さん。……あなたこそ、数学の聖域を汚しに来たんですか」

「汚しに来たんじゃねえ。この近くでガキの財布のひったくりがあってな。犯人がこの温室の方へ逃げ込んだって目撃情報があったんだよ。まったく、お前は相変わらず数字以外には興味なさそうだな。地面に這いつくばって、虫の相談でも受けてんのか?」


 戸田は忌々しそうに首筋を掻き、周囲を見渡した。温室の蒸せ返るような空気のせいで、彼の使い古されたトレンチコートは一層くたびれて見える。彼は去り際、数凪の目の前にある大輪のひまわりを適当に指差した。


「なんだ、その花。一つだけ、真ん中の種が変な色してるぞ。病気か何かか? 枯れかかってんじゃねえのか」


 数凪の意識が、一瞬でひまわりの中心部へと収束した。戸田が指差した一点。三四本と五五本の螺旋が交差する完璧な幾何学模様の中に、一つだけ「白く」塗りつぶされた種があった。それは、自然が描く対数螺旋の調和を、傲慢な意志で叩き潰すような「異物」だった。数凪の思考が加速する。ひまわりの種の配列は 137.5° という「黄金角」を維持することで、隙間なく埋め尽くされる。だが、その白い点は、その角度からわずか数ミリだけ、意図的にズレていた。


「刑事さん。……動かないでください」

「あ? 何言ってやがる、俺は犯人を――」

「財布の犯人などどうでもいい。……今のあなたの指摘は、黄金比よりも正確な正解かもしれない」


 数凪の声は、絶対零度まで冷え切っていた。彼は懐から取り出した精密ピンセットで、慎重にその白い種に触れた。硬質な感触。それは植物の種ではなく、精巧に作られたプラスチックのダミーだった。


 その瞬間、温室の四隅に設置された放送用スピーカーから、ノイズ混じりの電子音が響いた。


『――見つけてくれましたね、数凪君。そして、不運な刑事さん』


 加工された合成音声が、熱帯植物の巨大な葉を揺らす。数凪は白い「異物」を凝視したまま、微塵も表情を変えずに言葉を返した。


「数列を汚したのは、あなたですか」

『美しすぎるものは、一度壊さなければならない。フィボナッチの螺旋は、増殖し、広がり、やがて都市を飲み込む。……その最初の一歩が、今、あなたの目の前で始まります。それは、調和への供物です』


 白い種の奥で、赤いLEDが心臓の鼓動のように微かに明滅した。数凪は瞬時に判断した。これは単なる爆弾ではない。回路の接点だ。そして、温室全体を包み込む「何か」のスイッチだ。


「刑事さん、伏せて! 全速力で出口へ!」


 数凪が戸田の腕を掴み、力任せに引き倒すと同時だった。ひまわりの中心部から、目も眩むような鮮光が弾けた。


 ドォォォン!


 爆発自体は小規模なものだったが、それが引き金となり、温室の天井に張り巡らされていた自動散水システムが暴走を始めた。降り注ぐのは水ではない。鼻を突く強烈な刺激臭――腐食性の薬剤だ。


「ぐわっ……! なんだこれ、酸か!?」


 戸田は数凪を自分のコートの中に抱え込み、降り注ぐ雨から守るようにして温室を飛び出した。背後では、つい数秒前まで「黄金の調和」を保っていたひまわりたちが、瞬く間に黒く焼け爛れていく。




 降り注ぐ酸の雨を避け、温室の外へ転がり出た二人の足元に、一枚の焦げたカードが落ちていた。そこには、血のような赤色でこう記されていた。


『 F (5) = 5:調和の喪失 』


 数凪はそのカードを凝視し、震える声で呟いた。


「…… F (5) 。フィボナッチ数列の第5項。犯人は、この植物園を5番目の舞台に選んだんだ」

「5番目だと? 1から4はどうした。そんな通報、どこにも入ってねえぞ!」


 戸田が怒鳴る。数凪は、脳内でこれまでの数日間に起きた「些細な違和感」を高速で検索した。


「……刑事さん、思い出してください。昨日、一昨日に起きた、警察が『事件性なし』と判断した小さな騒ぎを」


 戸田の顔が引き攣った。


「1丁目のゴミ捨て場のボヤ、1番窓口への生卵投げつけ、2番街の噴水の落書き、3か所の街灯の同時球切れ……。まさか……あの程度のいたずらが、全部こいつに繋がってんのか?」

「そうです。犯人は、誰にも気づかれないように数列を育てていた。そして今日、5番目の『5』で、初めて明確な殺意を顕にした。……指数関数的に、被害は拡大していくはずです」


 数凪は空を見上げた。その計算の先にある、次の数字。


「次は、第6項……『8』。刑事さん、8に関わる場所を探してください。それも、この植物園から黄金螺旋を描いた先にある場所を」

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