問三 友愛という名の呪縛
深夜のベイエリア。二十八階建てのタワービルの下で、戸田は激しく葛藤していた。先ほど、警察車両の後部座席から、数凪零を「逃がした」ばかりだ。署に戻るという指示を無視し、戸田は自分の私用車に数凪を押し込み、この現場へ連れてきた。
「いいか、ガキ。お前は今、署を脱走した重要参考人だ。俺もこれが見つかればクビどころじゃ済まねえ。……だが、上の連中は今回の件を別件だと突っぱねてやがる。お前の『予言』が当たったことを、奴らは握りつぶすつもりだ」
戸田は、自分の警察手帳を数凪の首にかけ、その上から作業用のジャンパーを羽織らせた。
「俺の『同行者』として通す。一言も喋るな。顔は伏せてろ。……お前の目に、何が見えるか教えてくれ」
数凪は、耳栓を一つ外し、感情の読めない瞳で戸田を見つめた。
「……刑事さん。あなたは論理より、生存本能を優先すべきだ。だが、その非合理な賭け、乗ってあげましょう」
戸田は警備の目を「鑑識の応援だ」と強引に突破し、数凪を最上階のラウンジへと引き入れた。
現場は、死臭さえも高級な芳香剤で塗り潰されたような清潔感に満ちていた。被害者は投資コンサルタント、肥後橋。彼は二十八本のヴィンテージワインのボトルを円陣のように並べられた中心で、安楽椅子に深く腰掛けたまま絶命していた。
「……管理官は、この件を肥後橋の恨みによる単独犯だと突っぱねている」
現場の隅で、戸田は数凪に低く囁いた。
「被害者には殺害予告が届いていた。上はそれを理由に、第一の事件との関連を否定している。何より、容疑者であるはずのお前の言葉が当たったなんて認めちまったら、メンツが丸潰れだからな」
「別件? これを見て、そう言えるのは盲人だけだ」
数凪は白い手袋をはめた指先で、ワインボトルの配置を虚空でなぞった。
「配置の角度、ボトルのラベルの向き。すべてが二十八の約数から導き出された幾何学模様の一部だ。佐伯先生の時が『静』なら、今回は『動』。だが、根底に流れる論理は同じだ」
その時、現場の規制線の外側を、二人の清掃作業員が通り過ぎようとしていた。戸田は本能的に警戒し、二人を呼び止めた。
「おい、そこ。止まれ。鑑識が終わるまで待機と言ったはずだぞ」
眼鏡をかけた物腰の柔らかい男――友部が、足を止めて丁寧に一礼した。隣には、一回り小柄な男、愛川が沈黙したまま立っている。
「申し訳ありません、刑事さん。一階の詰め所へ戻る途中でした」
友部の言葉は、あまりに理路整然としていた。現場の惨状を見ても眉一つ動かさず、まるで天気の解説でもするかのような淡々とした響き。
「凄惨な事件ですね。被害者の肥後橋様は、このビルのオーナーとも親しかったと伺っております。……投資の世界は、ゼロサムゲームだと聞きますが、命まで失う計算にはなっていなかったのでしょうね」
「....もういい、下がってろ」
「失礼します」
友部は丁寧に一礼し、愛川と共に歩き出した。
その時、数凪の身体が、微かに震えた。彼は去りゆく二人の背中を、射抜くような視線で見つめている。
「……刑事さん。あの二人だ」
「は? 清掃員か? あいつらは今朝からずっと監視カメラに映ってたって報告があったぞ」
「見なかったのか、あの歩幅を」
数凪の声は、冷たい氷を噛み砕くようだった。
「前を歩く男と、後ろの男。その距離は常に一定で、二人の歩幅の比率は常に『1対1.618』……黄金比を維持していた。意識的に行わなければ、あんな不自然な幾何学を歩行の中に作り出すことはできない」
「黄金比? 何を言って――」
「彼らは、互いを参照点にして生きている。片方が変化すれば、もう片方も瞬時に計算を合わせて補完する。……一人じゃない。二人の『完全数』が、自分たちの世界を完成させるために、ここを汚したんだ」
戸田が数凪の言葉を飲み込もうとした瞬間、後輩刑事が血相を変えて駆け寄ってきた。
「戸田さん! 大変です! 肥後橋の投資被害者の中に、とんでもない男がいました! 九条蓮、十九歳。かつて数凪君と競い合った数学の天才で、現場のボトルの裏から、彼の指紋が出ました!」
「九条……だと?」
戸田が数凪を振り返る。数凪の顔から、温度が消えた。
「……九条蓮。僕のライバルだった男を、ここで変数に組み込むか」
数凪は、友部たちが去っていった暗い廊下を見つめた。
「面白い。犯人は僕たちの『論理』を先読みしている。……これは捜査じゃない。僕と、彼らとの、どちらがより美しい証明を完成させるかの――殺し合いだ」




