問一 孤独な素数の目覚め
「――それは、数学に対する冒涜ですよ」
放課後の数学準備室。ある生徒の冷徹な声が、西日の差し込む部屋に突き刺さった。教壇に立っていたのは、数学教師・佐伯 誠。生徒の言葉に、彼は顔を真っ赤にして拳を震わせていた。
「君の才能は認めるが、その態度は何だ! 数学は単なるパズルじゃない。この美しい解法に至るまでの『努力の過程』を尊重すべきだと言っているんだ!」
「努力、ですか。先生のその『美しい解法』には、一点の意志も、宇宙の調和も感じられない。ただ公式を無機質に切り貼りしただけの、継ぎ接ぎだらけのしかばねです。これ以上、この教室で醜い数式を書き散らすのはやめていただきたい」
彼は机に広げていたノートを音もなく閉じると、激昂する佐伯を背景に、無感情なまま部屋を去った。ドアが閉まる直前、彼が呟いた言葉を、偶然通りかかった生徒が聞き取っていた。
「……不完全な人間が、不完全なまま数学に触れる。それ自体が、ひとつの罪だ」
夜勤明けの午前二時。街灯の青白い光が、アスファルトの上に警視庁捜査一課・戸田健二の長く伸びた影を落としていた。戸田はあくびを噛み殺しながら、コンビニで買ったぬるい微糖の缶コーヒーのプルタブを引き抜く。喉を通る安っぽい甘みが、捜査でささくれ立った神経をわずかに静めた。
その時だ。前方から、周囲の風景を完全に無視した足取りで歩いてくる影があった。ネクタイを緩めた制服姿の高校生。耳にはノイズキャンセリングの耳栓を深く押し込み、虚空を見つめながら口を忙しなく動かしている。
「……53、59、61、67……。いや、双子素数の出現率を考慮すれば、ここでの確率は……」
すれ違いざま、少年は戸田を避けようともせず、その肩をかすめて通り過ぎた。
「おい、危ねえぞガキ」
戸田の低い声は、少年の耳栓に跳ね返されたようだった。少年は一度も振り返ることなく、暗闇の奥へと消えていく。
「……近頃のガキは、どいつもこいつも割り切れねえツラしてやがる」
戸田は吐き捨て、残りのコーヒーを飲み干した。
戸田は、高校の屋上にある大時計の下で、佐伯誠が殺された事件の捜査をしていた。遺体は時計の長針と短針に縛り付けられ、短針がちょうど「6」を指す位置で固定されている。
「戸田さん、これを」
後輩の刑事が指し示したのは、遺体の足元に置かれた「道具」だった。コンパス、定規、分度器……。被害者の持ち物であろう六つの文房具が、一点の狂いもなく正六角形の頂点に配置されている。
遺体安置所へ運ばれていく教師の背中を見送りながら、戸田は聞き込みのメモを捲った。後輩刑事が、耳元で小声で告げる。
「……ホシの最有力候補です。数日前、被害者の解法を『死体の継ぎ接ぎだ』と罵倒し、取っ組み合い寸前の騒ぎを起こした生徒がいます。名前は、数凪 零」
「数凪……? 変な苗字だな」
戸田はその名前を口の中で転がした。どこかで聞いたような、あるいは見たような、妙な既視感が胸の奥で燻っている。
「数学オリンピックの金メダリストだそうです。学校側も持て余している変人で、今は三階の自習室にいるはずです」
戸田は階段を一段ずつ、重い足取りで上がった。三階の廊下は、警察の介入に怯える生徒たちの騒めきで満ちている。だが、突き当たりの自習室だけは、真空のように静まり返っていた。
扉を開けると、チョークの乾いた音だけが響いていた。大きな黒板の前に、一人の少年が立っている。背中を向けたまま、何かの計算に没頭しているようだった。
「……数凪零だな。警視庁の戸田だ。昨夜、君の担任が――」
少年の肩が微かに動いた。チョークを置く音が静寂を割る。少年がゆっくりと振り返った。
その瞬間、戸田の心臓が不自然なリズムを刻んだ。白皙の肌。感情を削ぎ落としたような冷徹な瞳。そして、その耳に押し込まれた、見覚えのあるノイズキャンセリングの耳栓。
(……あのアリ(歩きスマホ)のガキか!)
昨夜、暗い夜道ですれ違った幽霊のような少年。意味不明な数字を呟き、自分を避けようともしなかったあの不遜な態度。あの時、彼が呟いていた言葉が、霧の中から浮かび上がってくる。
『……素数か。いや、美しくないな……』
戸田は、無意識にポケットの中の空のコーヒー缶を握りしめていた。昨夜のニアミス。そして、今日のこの「完璧に配置された」死体。これらが偶然で片付くはずがない。
「昨夜、お前は学校の近くを歩いていたな。何をしていた」
戸田の低い問いに、数凪は表情一つ変えず、黒板に書いた数字の列に目を戻した。
「6ですね」
「……何だと?」
「6は、最初の完全数だ」
数凪は、戸田の問いを数式の一部であるかのように受け流し、黒板の一点を指差した。
「1と2と3。自分自身を除く約数をすべて足すと、元の6になる。ピタゴラスはこれを『調和と節度の象徴』と呼んだ。刑事さん。犯人は、あなたの言うような『殺意』で動いてはいない。彼は、不完全なこの世界に、数学的な秩序を書き込もうとしているだけだ」
数凪がこちらを向いた。その瞳には、犯人への恐怖も、恩師を亡くした悲しみもなかった。あるのはただ、解き甲斐のある難問に出会った時のような、残酷なほどの知的好奇心だけだ。
「昨夜、僕が歩いていた理由? 計算の途中で少し散歩が必要だっただけですよ。刑事さんのその、黄金比から3度ずれたネクタイの結び目と同じくらい、意味のない質問だ」
「この、ガキ……!」
戸田の怒鳴り声が自習室に響く。しかし、数凪はすでに興味を失ったように再び黒板に向かい、チョークを手に取っていた。この瞬間、戸田は悟った。この少年の「正解」を証明できるのは、自分の足を使った捜査なのか、それともこの少年の「異常な脳」なのか。




