断罪と告白
母の部屋を片付けた日から、一週間が経った。
公爵様は、少しずつ変わり始めていた。
朝、出かける前に私に声をかけてくださるようになった。夜は執務室ではなく、居間で茶を飲むようになった。時折、母の思い出を語ってくださることもあった。
「旦那様の表情が柔らかくなりましたね」
ある朝、セバスチャンがそう言った。
「あなたが来てから、この屋敷は変わった。旦那様も、屋敷も」
「私は、ただ片付けをしているだけです」
「それだけではないでしょう」
セバスチャンは穏やかに微笑んだ。
「あなたは、旦那様の心も整理してくれた。十年間、誰にもできなかったことです」
その言葉が、嬉しかった。
ここに来て良かったと、心から思えた。
* * *
異変が起きたのは、その日の午後だった。
玄関に馬車が止まる音がして、私は窓から外を覗いた。
王家の紋章が入った馬車。そして、そこから降りてきたのは——
「エドワード様……?」
しかも、王家の衛兵を数名引き連れている。
嫌な予感がした。
私が玄関に向かうと、セバスチャンが既に対応していた。
「これはカーライル伯爵。本日は、どのようなご用件で」
「公爵はいるか」
「旦那様は軍務で——」
「そうか。なら、丁度いい」
エドワード様の視線が、私を捉えた。
その目に、暗い喜びが浮かんでいる。
「リーナ・ホワイト。王家の名において、お前を拘束する」
「……は?」
「お前が公爵家の機密書類を盗み、他国に売り渡そうとしていたという告発があった」
息が止まった。
「な……何を言って……」
「とぼけるな。証拠はある」
エドワード様が、一通の手紙を取り出した。
「お前が書いた手紙だ。他国の商人に宛てて、公爵家の軍事機密を売ると持ちかけている」
「そんな手紙、書いた覚えはありません!」
「筆跡鑑定の結果、お前のものと一致した。言い逃れはできんぞ」
衛兵たちが、私に近づいてくる。
「お待ちください!」
セバスチャンが声を上げた。
「リーナがそのようなことをするはずがありません。何かの間違いです」
「黙れ、老いぼれ。没落した子爵家の娘だ。金に困って機密を売ろうとしても、不思議はなかろう」
エドワード様が嘲笑った。
「やはり、こうなると思っていた。卑しい身分の者を雇うから、こういうことになるのだ」
「私は何もしていません……!」
「連れていけ」
衛兵の手が、私の腕を掴んだ。
「待ってください、私は——」
「リーナ!」
セバスチャンが駆け寄ろうとしたが、衛兵に阻まれた。
引きずられるように玄関を出る。
視界が涙で滲んだ。
(どうして……)
私は何もしていない。
あの手紙は偽物だ。誰かが、私を陥れようとしている。
(エドワード様だ)
直感的に分かった。
あの人は、私を貶めるためにこんなことを——
「放せ」
低い声が響いた。
振り返ると、公爵様が立っていた。
軍服姿のまま、馬から降りたばかりなのだろう。息を切らせている。
「旦那様……!」
セバスチャンが叫んだ。
「公爵。丁度いいところに来た。お前のところの侍女が——」
「黙れ」
公爵様の声が、エドワード様の言葉を遮った。
その銀の瞳が、凍てつくような光を放っている。
「その女から手を放せ。今すぐにだ」
「何を言う。この女は機密漏洩の——」
「聞こえなかったか」
公爵様が一歩踏み出した。
その気配だけで、衛兵たちがたじろぐ。
「その女は俺の婚約者だ。侮辱は許さん」
空気が、凍りついた。
「……こん、やくしゃ?」
エドワード様が、目を見開いた。
「り、リーナが? この没落令嬢が、公爵の婚約者だと?」
「ああ。つい先日、正式に申し込んだところだ」
公爵様が私の傍に来て、衛兵の手を払いのけた。
「だ、だが、機密漏洩の証拠が——」
「その手紙か」
公爵様が、エドワード様の手から手紙を奪い取った。
一瞥して、鼻で笑う。
「稚拙な偽造だな。リーナの筆跡とは似ても似つかない」
「なっ……鑑定士が——」
「鑑定士? お前が金で買収した鑑定士のことか?」
公爵様の目が、鋭くエドワード様を射抜いた。
「カーライル。お前、随分と俺の屋敷に出入りしていたな」
「そ、それは商談で……」
「商談? 違うな。お前は、リーナを陥れる機会を窺っていたのだ」
公爵様が、懐から数枚の書類を取り出した。
「これは、お前の財務記録だ。興味深いことが書いてある」
「な……どこでそれを……」
「半年前、ホワイト子爵家に莫大な借金を負わせた取引。その裏で糸を引いていたのは——お前だな、カーライル」
エドワード様の顔から、血の気が引いていく。
「子爵家の財産を狙い、婚約者として近づいた。だが、没落させた後は用済みとばかりに婚約を破棄。それだけでは飽き足らず、今度は俺の屋敷で働くリーナを見つけ、機密漏洩の濡れ衣を着せようとした」
「ち、違う……」
「まだある」
公爵様の声が、さらに冷たくなった。
「お前は、王家への納品で不正を働いている。品質を偽り、差額を着服している証拠も掴んでいる」
「そ、それは……」
「軍需物資の横領は、国家反逆罪に相当する。知っているな?」
エドワード様の膝が、がくりと折れた。
「ま、待ってくれ……公爵……」
「衛兵」
公爵様が、冷ややかに命じた。
「この男を拘束しろ。王家への横領、および虚偽告発の罪で、取り調べが必要だ」
「は、はい!」
衛兵たちが、今度はエドワード様に向かっていく。
「や、やめろ……俺は伯爵だぞ……こんな没落令嬢のために……」
「黙れ」
公爵様の一喝が、エドワード様の言葉を断ち切った。
「お前が没落させたのだ。お前が陥れようとしたのだ。その報いを受けるのは、当然のことだろう」
エドワード様が、衛兵に引きずられていく。
その顔は蒼白で、もはや先ほどまでの傲慢さは跡形もなかった。
「覚えてろ……公爵……」
「ああ、覚えておく。お前の末路を、しっかりとな」
馬車が去っていく。
その音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。
* * *
「……公爵様」
ようやく声が出た。
「あの、婚約者というのは……」
「ああ」
公爵様が、真っ直ぐに私を見た。
「勝手に言って悪かった。だが、嘘ではない」
「え……」
「リーナ。お前が来てから、この屋敷は変わった。俺も変わった」
公爵様が、私の手を取った。
その手は温かかった。
「お前は俺の心を整理してくれた。十年間、誰も開けられなかった扉を開けてくれた」
「公爵様……」
「俺の傍にいてくれ。侍女としてではなく、妻として」
心臓が、激しく鳴っていた。
「……本当に、よろしいのですか。私は没落した子爵家の——」
「そんなことはどうでもいい」
公爵様が、私の言葉を遮った。
「お前が何者であろうと関係ない。俺が欲しいのは、お前だ。リーナ・ホワイトという、一人の女だ」
涙が溢れた。
止められなかった。
「……はい」
声が震えた。
「私で、よければ……喜んで」
公爵様の腕が、私を包み込んだ。
「ありがとう」
その声が、耳元で響いた。
「お前に出会えて、良かった」
私は公爵様の胸に顔を埋めた。
温かかった。
この腕の中が、私の居場所だと思った。
背後で、セバスチャンが静かに涙を拭っているのが分かった。
屋敷に、風が吹き抜けていく。
もう、埃の匂いはしなかった。




