心の整理
あの日から、三日が経った。
私は与えられた仕事を淡々とこなしていた。掃除、洗濯、食事の配膳——けれど、公爵様とは一度も目を合わせていない。
公爵様も、私を避けているようだった。
朝は私が起きる前に出かけ、夜は執務室に籠もったまま出てこない。食事も、部屋に運ぶよう言いつけられた。
「リーナ」
廊下で、セバスチャンに呼び止められた。
「少し話をしましょう」
使用人の休憩室で、セバスチャンは私に温かい茶を淹れてくれた。
「……あの部屋のことですね」
「ええ」
セバスチャンは静かに頷いた。
「あなたを責めるつもりはありません。ただ、あの部屋がどういう場所なのか、知っておいてほしいのです」
私は黙ってカップを握りしめた。
「あれは、先代の奥様——旦那様のお母様の部屋です」
「……やはり」
「奥様は、旦那様が十歳の時に亡くなられました。流行り病でした」
セバスチャンの目が、遠くを見つめる。
「旦那様は、奥様をとても慕っておられた。優しく、聡明で、旦那様にとっては世界の全てだったのでしょう。けれど……」
「けれど?」
「先代の旦那様——現公爵様の父君は、奥様を亡くされた悲しみから、幼い旦那様を責めたのです」
息を呑んだ。
「奥様は、旦那様の看病をしている最中に病をもらわれた。だから、お前のせいだと」
「そんな……」
「理不尽なことです。けれど先代は、そう言い続けた。旦那様が成人するまで、ずっと」
胸が締め付けられた。
幼い公爵様が、どれほど苦しんだか。愛する母を亡くし、その上父親から責められ続けた十年間を想像すると、涙が出そうになった。
「先代が亡くなられた後も、旦那様はあの部屋に近づこうとはされなかった。開けることも、片付けることも、誰にも許さなかった」
「……だから、あんなに」
「ええ。あの部屋は、旦那様にとって——触れることのできない傷なのです」
私は唇を噛んだ。
自分の軽率さが、どれほど公爵様を傷つけたか。今更ながら、思い知らされた。
「私……謝らなければ」
「そうですね。ただ——」
セバスチャンが、少しだけ微笑んだ。
「旦那様は、あなたを解雇するとは言っていません。本当に許せないなら、すぐにでもそうしていたはずです」
* * *
その夜。
私は意を決して、執務室の扉を叩いた。
「……誰だ」
「リーナです。少しだけ、お話しさせてください」
長い沈黙の後、扉が開いた。
公爵様は疲れた顔をしていた。
無精髭はさらに伸び、目の下には隈ができている。この三日間、ろくに眠っていないのかもしれない。
「……入れ」
促されるまま、私は執務室に足を踏み入れた。
整理された棚、磨かれた窓——私が片付けたこの部屋だけが、静かに公爵様を迎えている。
「申し訳ございませんでした」
私は深く頭を下げた。
「禁じられていたのに、あの部屋に入ってしまいました。言い訳はいたしません」
「……顔を上げろ」
言われるままに顔を上げると、公爵様が窓際に立っていた。
その背中が、ひどく小さく見えた。
「なぜ、あの部屋に入った」
「……っ」
嘘はつけなかった。
「元婚約者に……会いました。侍女に身を落としたと、嘲笑われて」
「カーライルの小僧か」
「はい。心が乱れて、気づいたらあの廊下に……申し訳ございません」
公爵様は振り返らなかった。
しばらくの沈黙の後、低い声が響いた。
「……俺は、母を殺した」
「え?」
「俺が病にかかり、母が看病をした。そして母は、俺の病をもらって死んだ。俺のせいだ」
「そんなこと——」
「父にそう言われ続けた。お前が殺したのだと。母が死んでから、父が死ぬまでの十年間、毎日のように」
公爵様の声は平坦だった。
けれどその肩が、微かに震えているのが分かった。
「あの部屋には、母の全てがある。香りも、温もりも、俺を愛してくれた記憶も。——だから、触れられなかった」
「公爵様……」
「触れれば、全てが消えてしまう気がした。母が本当にいなくなってしまう気がして、怖かった」
私は一歩、公爵様に近づいた。
「公爵様」
「……なんだ」
「整理整頓は、過去を捨てることではありません」
公爵様がゆっくりと振り返った。
その銀の瞳が、私を見つめる。
「大切なものを、大切な場所に置くこと。それが整理整頓の本質です」
私は真っ直ぐに公爵様を見つめ返した。
「お母様の思い出は、消えたりしません。埃に埋もれさせておくより、きちんと整えて、いつでも手に取れる場所に置いておく方が——お母様も喜ばれるのではないでしょうか」
公爵様は何も言わなかった。
ただ、その瞳が揺れていた。
「……リーナ」
「はい」
「お前は、俺の心まで整理する気か」
その声は、責めているようには聞こえなかった。
「……はい。それが私の仕事ですから」
公爵様が、小さく息を吐いた。
それが笑いなのか、溜息なのか、分からなかった。
「……明日」
「はい?」
「明日、あの部屋を——母の部屋を、お前に任せてもいいか」
私は目を見開いた。
「俺一人では、どうしていいか分からない。だが、お前となら……」
公爵様の声が、かすれた。
「お前となら、向き合える気がする」
胸の奥が、熱くなった。
私は深く頭を下げた。
「……はい。お任せください」
* * *
翌日の午後。
公爵様は軍務を休み、私と共に西棟へ向かった。
あの扉の前に立つと、公爵様の足が止まった。
「……十年ぶりだ」
「大丈夫ですか」
「ああ」
公爵様が扉を開けた。
埃っぽい空気が流れ出す。
けれど今日は、窓から柔らかな光が差し込んでいた。
「まず、窓を開けましょう」
私は窓を開け放ち、新鮮な空気を部屋に入れた。
それから、加護を発動させる。
淡い光が、部屋中の物を照らし出した。
衣装箪笥の中のドレス、化粧台の上の香水瓶、本棚に並んだ詩集——どれも、あるべき場所を静かに教えてくれている。
「公爵様、この化粧台は窓際に移しましょう。お母様は、きっと光の中でお化粧をされるのがお好きだったのでは」
「……ああ。母は、朝日を浴びながら髪を梳かしていた」
少しずつ、部屋を片付けていった。
埃を払い、蜘蛛の巣を取り除き、物を本来の場所に戻していく。
その過程で、公爵様は少しずつ思い出を語ってくれた。
母が好きだった花のこと、一緒に読んだ絵本のこと、庭で遊んだ日々のこと——。
「これは……」
衣装箪笥の奥から、一冊の革表紙の本が出てきた。
「日記、でしょうか」
公爵様が、震える手でそれを受け取った。
ページをめくる。
「……っ」
公爵様の目が、見開かれた。
「公爵様?」
「……母の、日記だ」
公爵様は、一点を見つめたまま動かなかった。
「どう、されました」
「……ここに、書いてある」
かすれた声で、公爵様が読み上げた。
「『今日、アレクシスが熱を出した。心配でたまらない。どうか、この子が元気になりますように。私の命に代えても、この子を守りたい』」
公爵様の声が、震えた。
「『アレクシスは私の宝物。この子が生まれてきてくれて、私は世界で一番幸せな母親だ。愛している。誰よりも、何よりも、愛している』」
最後の言葉は、ほとんど聞き取れなかった。
公爵様が、日記を胸に抱きしめた。
その肩が震え、嗚咽が漏れる。
「母は……俺を、恨んでなど……」
「ええ」
私は静かに言った。
「お母様は、公爵様を愛しておられた。それだけが、真実です」
公爵様が泣いていた。
氷の公爵と呼ばれたこの人が、子供のように泣いていた。
私は何も言わず、ただ傍に立っていた。
十年分の涙が止まるまで、ずっと。
窓から差し込む光が、二人を包んでいた。
埃は消え、部屋は静かに息を吹き返していた。




