禁じられた部屋
屋敷の片付けを始めて、二週間が過ぎた。
玄関ホール、廊下、執務室、客間、書庫——少しずつ、公爵邸は本来の姿を取り戻しつつあった。窓から差し込む光が埃に遮られることもなくなり、廊下を歩くたびに床板が軋むこともない。
「見違えるようですね」
朝の掃除を終えた私に、セバスチャンが穏やかな声をかけた。
「リーナが来てから、この屋敷に光が戻ってきた。料理人のマルタも、庭師のハンスも喜んでいますよ」
「皆さんのおかげです。私一人では、とてもここまで——」
「謙遜しなくていい。あなたの加護と働きぶりがあってこそです」
その言葉が、素直に嬉しかった。
その日は、東棟の倉庫を片付ける予定だった。
昼を少し過ぎた頃、セバスチャンが足早に私のもとへやってきた。
「リーナ、お客様です」
「お客様?」
公爵様は今日も軍務で不在だ。来客の対応など、私の仕事ではないはずだが。
「カーライル伯爵家のエドワード様が、旦那様に商談があるとのことで……」
その名を聞いた瞬間、心臓が凍りついた。
「旦那様がお戻りになるまで待つとおっしゃっています。茶の用意を頼めますか」
「……はい」
声が震えそうになるのを、必死で堪えた。
* * *
客間に足を踏み入れると、見覚えのある金髪の青年がソファに腰かけていた。
エドワード・カーライル。
私の、元婚約者だ。
「やあ、久しぶりだね。リーナ」
エドワード様は優雅に足を組んだまま、私を見上げた。その唇には、嘲りを含んだ笑みが浮かんでいる。
「……お茶をお持ちしました」
「ありがとう。しかし驚いたよ。まさか君がここで侍女をしているとは」
私は黙ってカップをテーブルに置いた。
視線が、私の頭から爪先までを舐めるように這う。
「子爵令嬢だった君が、今は他人の屋敷で雑巾がけか。随分と落ちぶれたものだね」
心臓を直接握られたような痛みが走った。けれど私は表情を変えなかった。変えてたまるものか。
「他にご用がなければ、失礼いたします」
「待ちたまえ」
立ち去ろうとした私を、エドワード様の声が引き留めた。
「そう急ぐことはないだろう。久しぶりに会ったんだ、少しくらい話をしようじゃないか」
「……私は仕事がありますので」
「仕事? 掃除のことかい?」
エドワード様が笑い声を上げた。
「元婚約者に茶を淹れてもらうなんて、なかなかできない経験だ。ああ、でも君は昔から気が利いたからね。侍女には向いているのかもしれない」
拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
「……失礼します」
「まあ待て。一つ聞きたいことがある」
エドワード様が立ち上がり、私に近づいてきた。
「公爵は、君のことをどう思っているのかな。まさか、没落した子爵令嬢を憐れんで拾ってやったとでも?」
「……公爵様は、私を使用人として雇ってくださっています。それ以上でも、それ以下でもありません」
「そうかい。なら安心だ」
エドワード様の顔が、不意に私の耳元に近づいた。
「君のような女が、身の程を弁えずに公爵に取り入ろうとしているのではないかと心配していたのでね」
息が止まりそうだった。
屈辱と怒りで、視界が滲む。
「……失礼いたします」
私は振り返らずに客間を出た。
廊下に出た途端、膝が震えた。壁に手をついて、必死に呼吸を整える。
(泣くものか)
あの人は、私が子爵令嬢だから傍にいたのだ。家が没落した瞬間に、手のひらを返した人だ。今さら何を言われても、傷つく必要などない。
——そう、頭では分かっているのに。
「リーナ?」
廊下の向こうから、セバスチャンの声が聞こえた。
「大丈夫ですか。顔色が悪い」
「……大丈夫です。少し、外の空気を吸ってきます」
「無理はしないように」
セバスチャンの心配そうな声を背に、私はふらふらと廊下を歩いた。どこへ向かっているのかも分からなかった。ただ、あの客間から少しでも遠くへ行きたかった。
(私は、所詮ただの侍女だ)
公爵様が私の仕事を認めてくださっても、この身分が変わるわけではない。
気がつくと、見慣れない廊下に立っていた。
(ここは……)
西棟だ。薄暗い廊下の突き当たりに、一つの扉があった。
近づくな、と公爵様は言っていた。
分かっている。分かっているのに——
私の手は、無意識に扉の取っ手に伸びていた。
軋んだ音を立てて、扉が開く。
「……っ」
息を呑んだ。
部屋の中は、時が止まったかのようだった。
優美な天蓋付きのベッド。窓際に置かれた化粧台。壁には色褪せた花の絵。どれも埃をかぶり、蜘蛛の巣に覆われている。
けれど、散らかっているのではなかった。ただ、長い長い間、誰にも触れられていないだけだ。
化粧台の上に、一枚の肖像画が置かれていた。
黒髪に銀の瞳——公爵様によく似た、美しい女性。
(この方は……)
「何をしている」
背後から、低い声が響いた。
振り返ると、公爵様が立っていた。その銀の瞳が、凍てつくような冷たさを湛えている。
「あ……公爵様、これは」
「入るなと言ったはずだ」
声には感情がなかった。それがかえって恐ろしかった。
「申し訳ございません、私——」
「出ろ」
「公爵様……」
「今すぐ出ろ!」
初めて聞く、公爵様の怒声だった。
その声に弾かれるように、私は部屋を飛び出した。
背後で扉が閉まる音がした。
私は廊下に膝をつき、震える手で口元を押さえた。
(私は、取り返しのつかないことをしてしまった——)
あの部屋は、きっと公爵様のお母様の部屋だ。
触れてはいけない場所。開けてはいけない扉。
それを私は、自分の弱さから、踏み荒らしてしまった。
涙が頬を伝った。
今度こそ、堪えることができなかった。




