信頼の始まり
公爵邸での生活が始まって、三日が経った。
公爵様は現役の軍人だ。夜明け前に屋敷を出て、軍の詰め所へ向かう。戻られるのは日が暮れてから。屋敷で過ごされるのは、夜の数時間だけだった。
「旦那様は昔から、じっとしていられない性分でしてね」
朝食の片付けを手伝いながら、セバスチャンが教えてくれた。
「軍務に没頭されるのも、この屋敷にいたくないからかもしれません」
「いたくない……?」
「ここには、旦那様にとって辛い思い出が多いのです」
それ以上は語らなかったが、セバスチャンの目には深い悲しみが宿っていた。
(公爵様の過去に、何かあるのだ)
詮索すべきではない。今の私にできるのは、目の前の仕事に集中することだけだ。
日中、公爵様が不在の間に片付けを進める。これは好都合だった。人目を気にせず、思う存分作業に集中できる。
私はまず、玄関ホールから手をつけることにした。加護を発動させると、視界に淡い光が浮かび上がる。木箱は倉庫へ、花瓶は窓辺の棚へ、絨毯は洗濯してから敷き直し——物たちが「ここにいたい」と訴えかけてくるのだ。
「リーナ、こちらの木箱はどうしますか」
「中身は食器ですね。光が……東棟の食器棚を指しています。そちらへお願いできますか」
「分かりました」
セバスチャンは文句一つ言わず、重い木箱を運んでくれた。六十を過ぎているとは思えない働きぶりだ。
「セバスチャンさん、無理はなさらないでください」
「なに、この屋敷が元の姿を取り戻すのなら、この老骨など惜しくはありません」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
セバスチャンは十年もの間、たった三人でこの屋敷を守り続けてきたのだ。
埃を払い、床を磨き、蜘蛛の巣を取り除く。
地道な作業だった。けれど、一つ片付けるごとに屋敷が息を吹き返していくようで、不思議と苦にはならなかった。
「……ずいぶん変わったな」
四日目の朝、出かける支度をされていた公爵様が玄関ホールで足を止めた。
「ありがとうございます。まだ玄関だけですが」
「いや、十分だ。ここがこんなに広かったとは知らなかった」
皮肉なのか本気なのか分からない口調だった。けれど公爵様の銀の瞳が、磨かれた床や整頓された棚を静かに眺めていたのは確かだ。
「次は廊下と居間を片付ける予定です。その後、執務室にも手をつけてよろしいでしょうか」
「執務室?」
公爵様の眉が僅かに動いた。
「あそこは書類が多い。下手に動かされると困る」
「ご安心ください。書類の中身には触れません。ただ、分類と整頓だけをさせていただきます」
私は真っ直ぐに公爵様を見つめた。
「公爵様が必要な書類を、必要な時にすぐ取り出せるようにいたします。それが整理整頓の本質ですから」
沈黙が落ちた。
公爵様は腕を組み、何かを考え込むように目を伏せる。
「……軍務の書類は詰め所に置いてある。屋敷にあるのは領地関係だけだ。それも、まともに手をつけられていないが」
「では、お留守の間に整理を進めてもよろしいでしょうか。お戻りの際に確認していただき、問題があれば直します」
「……好きにしろ」
それだけ言って、公爵様は足早に出ていかれた。
その背中を見送りながら、セバスチャンが小さく息をついた。
「旦那様が執務室を任せるとは……驚きました」
「そうなのですか?」
「ええ。あの部屋は、誰にも触らせなかったのです。私でさえ、掃除を許されませんでした」
* * *
執務室に足を踏み入れた時、私は思わず立ち尽くした。
(これは……)
玄関ホールなど、まだ序の口だった。
床は書類で埋め尽くされ、机の上には羊皮紙の山が幾重にも積み重なっている。本棚からは本が雪崩れ落ち、椅子の上にまで資料が散乱していた。
「旦那様……このような場所で、仕事を……」
セバスチャンが言葉を失っていた。
よく見ると、机の片隅だけ僅かに空間があった。腕一本分ほどの場所で、そこだけインクの染みが新しい。
ここで無理やり書類を処理していたのだろう。必要な資料を探すだけで、どれほどの時間を費やしていたことか。
(大丈夫。私にはできる)
私は深呼吸をして、加護を発動させた。
途端、視界が光で満たされる。一枚一枚の書類が、あるべき場所を教えてくれていた。領地北部の報告書は棚の上段へ、南部は中段へ、税収関係は引き出しへ、未処理案件は机の上——。
「セバスチャンさん、手伝っていただけますか」
「もちろん」
まず書類を全て隣の空き部屋に運び出した。それから床と棚を掃除し、本来の配置を整える。その後、分類した書類を一つずつ戻していく。
公爵様が夜にお戻りになる前に、その日の作業分を片付ける。翌朝、お出かけになってから続きに取り掛かる。
一週間、その繰り返しだった。
* * *
「……これが、同じ部屋なのか」
七日目の夜。
執務室の入り口で、公爵様が立ち尽くしていた。
床には一枚の書類も落ちていない。本棚には背表紙が揃えられた本が整然と並び、机の上には未処理の書類だけが置かれている。窓は磨かれ、廊下のランプの灯りが部屋全体を柔らかく照らしていた。
「領地北部の報告書は左手の棚の上段に、南部は中段に、税収関係は机の右引き出しに分類してあります。未処理案件は机の上に、処理済みは奥の書庫にまとめました」
私は一つ一つ説明していく。公爵様は無言のまま部屋を歩き回り、棚を確認し、引き出しを開けた。
「……去年の収支報告書は」
「左手の棚、上から三段目です」
公爵様が棚に手を伸ばす。指先が迷いなく一冊の帳簿を引き抜いた。
「…………」
公爵様は帳簿を手に、しばらく動かなかった。
その横顔に、どんな感情が浮かんでいるのかは分からない。
「あの、お気に召しませんでしたか」
「いや」
公爵様は静かに首を振った。
「この報告書を、俺は半年探していた」
「半年……」
「どこに埋もれたか分からなくなって、もう一度領地に問い合わせようかと思っていた」
公爵様が振り返る。
その銀色の瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「リーナ」
名前を呼ばれて、心臓が小さく跳ねた。
「……はい」
「茶を淹れてくれ。この部屋で飲む」
「かしこまりました」
私は一度部屋を出て、茶器を用意した。丁寧に茶葉を蒸らし、香りを確かめてからカップに注ぐ。
執務室に戻ると、公爵様は窓際の椅子に腰かけていた。
「どうぞ」
「ああ」
公爵様はカップを受け取り、一口含んだ。
それから、窓の外の暗闇に目をやる。
「この部屋で茶を飲むのは、何年ぶりだろうな」
「……そうなのですか」
「散らかりすぎて、椅子に座ることすらできなかった。軍務から戻っても、書類の山を見るだけで疲れ果てて、結局何も手をつけられない夜ばかりだった」
公爵様の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
ほんの一瞬のことだった。けれど私は確かに見た。氷の公爵と呼ばれるこの方の、穏やかな笑顔を。
「公爵様」
「なんだ」
「執務室の次は、書庫と客間に取り掛かろうと思います。よろしいでしょうか」
「ああ、任せる」
公爵様は再びカップに口をつけた。
「……俺は」
「はい?」
「俺はこの屋敷を、わざと荒らしていたのかもしれんな」
独り言のような呟きだった。
私は何も言わず、ただ静かに立っていた。
公爵様はそれ以上何も言わなかった。けれどランプの灯りの中で、その横顔は少しだけ穏やかに見えた。
(公爵様……)
この方は何かを抱えている。この屋敷を荒れるに任せてきた理由が、きっとあるのだ。
私の脳裏に、初日の言葉がよぎった。
西棟の奥にある部屋には近づくな——あの、冷たい声。
(あそこには、何があるのだろう)
胸の奥で、小さな疑問が芽生えていた。




