御屋敷?汚屋敷?
「……これは、屋敷ではなく廃墟ですわね」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
目の前に広がる光景は、王都随一の名門と謳われるヴァルトシュタイン公爵家の屋敷とは到底思えないものだった。
玄関ホールには埃が積もり、壁際には開封されていない木箱が山と積まれている。階段の手すりには蜘蛛の巣が張り、窓ガラスは曇って外の光をほとんど通さない。
かすかに漂う饐えた匂いは、どこかで食べ物が腐っているのだろう。
「お恥ずかしい限りです」
隣に立つ老執事が、深く頭を垂れた。白髪を綺麗に撫でつけた、背筋の伸びた老紳士だ。
「私はセバスチャンと申します。本日より、あなたの教育係を務めます」
「リーナ・ホワイトです。よろしくお願いいたします」
「ホワイト……先日没落した子爵家の」
「……はい」
セバスチャンは少し目を伏せ、それから穏やかな声で続けた。
「事情は存じております。ですが、ここでは私が上司としてあなたを指導する立場になります。元のご身分に関わらず、使用人として扱わせていただくことをお許しください」
その言葉に、私はむしろ安堵した。
憐れみの目で見られるより、ずっといい。
「はい、そうしていただけると助かります」
「では改めて。リーナ、この屋敷での仕事について説明します」
私、リーナ・ホワイトは、今日からこの屋敷で侍女として働くことになっている。
元は子爵令嬢だった。けれど半年前、父が残した莫大な借金によって家は没落し、屋敷も爵位も全て失った。
(あの日、エドワード様は私に言ったのだ)
『没落した家の娘など、妻にはできない。婚約は破棄だ』
三年間、婚約者として尽くしてきた。彼の好みに合わせて髪型を変え、彼の話に耳を傾け、彼の望む淑女であろうと努力した。
けれどそれは、私が子爵令嬢だったから成り立っていた関係に過ぎなかったのだ。
(もう泣かない)
私は唇を引き結んだ。
涙は、あの夜に全て流し尽くした。今の私に残っているのは、自分の力で生きていくという決意だけだ。
「セバスチャンさん。この屋敷は、いつからこのような状態に?」
「……十年ほど前からでしょうか」
セバスチャンは苦しげに目を伏せた。
「奥様が亡くなられてから、旦那様は屋敷のことに関心を失くされました。使用人も次々と辞めていき、今では私と、料理人、庭師の三名だけで何とか……」
「三名で、この広さを?」
「はい。とても手が回らず、この有様です」
その時、奥から低い声が聞こえた。
「おい」
振り返ると、書類の山の向こうから人影が現れる。
無精髭を生やした男だった。
黒髪は乱れ、シャツの襟元は歪んでいる。だが、その整った顔立ちと鋭い銀色の瞳は、隠しようもない気品を湛えていた。
「旦那様。新しい侍女のリーナです」
「……リーナ・ホワイトと申します。本日より、こちらでお世話になります」
私は深く頭を下げた。
この方が、『氷の公爵』と呼ばれるアレクシス・ヴァルトシュタイン公爵様だ。若くして軍で数々の武功を挙げ、その冷徹な采配から氷の異名を持つ。
けれど今、目の前にいるのは——
(……ただの、疲れ切った青年に見える)
公爵様は書類の山を乗り越え、私の前に立った。そして、値踏みするように私を見下ろす。
「前の侍女は三日で逃げた。その前は一週間。お前はどれくらい持つ?」
「……逃げるつもりはございません」
「ほう」
公爵様の眉が僅かに上がった。
「この屋敷を見て、まだそう言えるのか」
「はい」
私は背筋を伸ばし、公爵様の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「私には、『整理整頓』の加護がございます。物の『あるべき場所』が見える力です。どれほど散らかっていても、必ず片付けてみせます」
沈黙が落ちた。
公爵様は無表情のまま、私を見つめている。その銀の瞳に、何が映っているのかは分からない。
「……セバスチャン」
「はい、旦那様」
「この娘に屋敷を任せろ。お前は補佐につけ」
「かしこまりました」
セバスチャンが恭しく頭を下げた。その横顔に、微かな安堵が浮かんだように見えたのは、気のせいだろうか。
公爵様は踵を返した。
「好きにしろ。ただし——」
足を止め、肩越しに振り返る。
「西棟の奥にある部屋には近づくな。あそこだけは、誰にも触らせん」
その声には、有無を言わせぬ冷たさがあった。
私は黙って頷く。公爵様はそれ以上何も言わず、廊下の闇へと消えていった。
「……リーナ」
「はい」
「あの部屋のことは、気にしなくていい。旦那様には、旦那様のお考えがあるのです」
セバスチャンの声は静かだったが、どこか悲しげでもあった。
「分かりました」
私は頷き、改めて玄関ホールを見渡した。
窓の隙間から差し込む光が、舞い上がる塵を照らしている。
手のひらに力を込めた。
加護が静かに目覚め、視界の端々で淡い光が瞬く。積み上げられた木箱の一つ一つが、あるべき場所を私に教えてくれている。
「セバスチャンさん。早速ですが、明日から片付けを始めてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん。私も、できる限り手伝いましょう」
老執事の目に、小さな光が灯った。
(この屋敷を、立て直す)
没落した令嬢。捨てられた婚約者。
けれど今の私には、この手と、この力がある。
さあ、仕事を始めよう。
* * *
——こうして私は、散らかり放題の公爵邸での日々を始めたのだった。
この時はまだ知らなかった。
この屋敷の散らかりが、公爵様の心の傷と深く結びついていることを。
そして私が片付けることになるのは、屋敷だけではないということを。




