朝
朝。
窓から差し込む光は、実家の部屋を淡く照らしていた。
真は目を開けたまま、しばらく動かなかった。
夢を見ていた気がするが、思い出そうとすると霧のように消えていく。
静かな朝だった。
けれど、昨日までの朝とは何かが違った。
心の奥に、ひとつ、小さな“輪郭”のようなものが浮かんでいた。
それはまだ言葉にはならなかったけれど、確かに「自分の気持ち」だった。
午前11時、寮に戻る予定だったが、真は駅のホームで立ち止まった。
通り過ぎていく電車の音を背中に受けながら、スマホを取り出す。
内定先から届いていたメールに返信する。
短い文章だった。
>「本日から一週間、お休みをいただけますか。少しだけ、自分の時間を持ちたいと思っています。」
送信ボタンを押したあと、深く息を吐いた。
特に勇気が要ることではなかった。
それでも、ほんの少しだけ、背筋が震えた。
午後、大学近くの図書館に立ち寄る。
陽菜が前に「好きだった」と話していた児童書の棚を、なんとなく眺める。
背表紙に手を伸ばして、一冊、手に取った。
ページをめくる。
読んでいるうちに、幼いころ、ノートに鉛筆で描いた物語の断片が、次々と蘇ってきた。
色、匂い、登場人物、そして、当時の自分の息づかいまでも。
帰宅後、机に向かった。
大学受験の頃に使っていたノートを取り出し、白紙のページを開く。
ペンを握る。
手は少しだけ震えていた。
でも、その震えを止めようとは思わなかった。
1行、書いた。
>「高架下のベンチに、雨宿りの少女が座っていた。」
意味のある文章かどうかはわからない。
でも、これは真が「誰のためでもなく」書いた、自分の言葉だった。
「始まったかもしれない」
声には出さなかったが、心の中でそう呟いた。
夜、部屋の灯りを消して、ベッドに入る。
これまでの人生で、今日ほど「何もしていない」日はなかったかもしれない。
でも、それなのに、胸の中は少しだけ、あたたかかった。