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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

浮気ついでに井戸に投げ捨てられた私ですが、毎晩あなたの飲む水に混じって、喉の奥からご挨拶に伺いますね。

作者: 四宮 あおい

 辺境伯領は、王都の喧騒から遠く離れた、穏やかで実り豊かな土地だった。

 その地を治める辺境伯の妻、エレナは、領民たちから深く敬愛されていた。彼女の慈悲深さは、まるで春の陽光のように遍く領地を照らし、人々は心から慕っていた。名門公爵家の生まれである彼女は、その出自に驕ることなく、常に民の暮らしに心を寄せ、施療院に足繁く通っては傷病者の手を取り、孤児院の子供たちには自ら物語を読み聞かせた。彼女の周りには、いつも穏やかで温かい空気が流れていた。


 エレナの人生は、誰もが羨むほどに幸福に満ちていた。辺境伯ルーウェンとの結婚は、元を正せば貴族社会にありがちな政略結婚であった。しかし、初めて顔を合わせたその日から、二人の間には確かな引力が働いた。

 実直で、辺境の厳しい自然のように雄々しいルーウェンと、理知的で、内に深い情熱を秘めたエレナ。異なる性質を持つ二人は、互いの欠けた部分を補い合うように惹かれ合い、やがてその関係は真実の愛へと昇華された。

 辺境伯の武骨な指が、エレナの細くしなやかな指に絡むとき、そこには政略など入り込む余地のない、確かな愛情が育まれていた。


 二人にはお気に入りの場所があった。屋敷の中庭に佇む、古い石造りの井戸の前だ。

 苔むした石組みは長い年月を物語り、その深く暗い水面は、夜になると空の月を静かに映し出した。

 ある満月の夜、ルーウェンは井戸に映る揺らめく月を指さし、エレナの肩を強く抱き寄せてこう誓ったのだ。


「エレナ、私の愛しい妻。見てくれ、あの月を。この井戸が枯れ果て、天の月が地に落ちることがあっても、私の心が変わることはない。生涯、君だけを愛し続けると、この月に誓おう」


 その言葉は、ルーウェンの瞳のように真っ直ぐで、エレナの心の最も深い場所まで染み渡った。

 彼女は夫の胸に顔を埋め、この幸福が永遠に続くことを信じて疑わなかった。この井戸は、二人にとって愛の神聖な祭壇そのものだった。


 しかし、その完璧な幸福に、じわりと影が差し始めるのに、そう長い時間はかからなかった。

 季節が巡り、収穫を祝う宴が屋敷で催された夜のことだった。広間に現れた一人の女性に、人々の視線が、そして何よりもルーウェンの視線が釘付けになった。

 シルビア。最近になって屋敷に出入りするようになった、下級貴族の娘だった。


 彼女は、エレナが持つ気品や慈愛とは全く異質の輝きを放っていた。黒檀のように艶やかな髪、挑発的に輝く柘榴石のような瞳、そして、しなやかな猫を思わせる肢体。彼女のドレスは胸元が大きく開き、歩くたびに甘く濃厚な香油の匂いが辺りに立ち込めた。

 その存在は奔放で、刺激的で、退屈という言葉を知らないかのように生命力に満ち溢れていた。シルビアは臆することなく有力な貴族たちと軽口を叩き、その蠱惑的な笑みは、男たちの理性をいとも容易く麻痺させた。


 エレナは、隣で夫の変化を冷静に、しかし胸のざわめきを抑えながら見つめていた。ルーウェンの視線が、自分を通り越し、シルビアという一点に焼き付いている。

 彼女が他の男と楽しげに話せば、その眉間には微かな苛立ちが刻まれ、彼女がふとこちらに視線を向ければ、その表情は少年のような純粋な熱を帯びた。

 今までエレナだけが知っていた、夫の独占欲と情熱の炎が、今や別の女のために燃え上がっている。その事実が、冷たい刃のようにエレナの胸を突き刺した。


 その夜を境に、屋敷の空気はゆっくりと、しかし確実に変わっていった。

 ルーウェンが書斎に籠る時間は増え、エレナとの会話は次第に途切れがちになった。交わされる愛の言葉は虚ろに響き、二人の間には、見えない壁があるかの様だった。

 そして何よりエレナを苦しめたのは、夫の衣服から微かに漂ってくる、あのシルビアが身にまとっていた甘い香油の匂いだった。それはエレナの穏やかな日常に染み込んだ、裏切りの香りだった。


 エレナは気付かぬふりを続けた。貞淑な妻として、夫を信じなければならない。これは一時の迷いなのだと、自分に言い聞かせた。

 だが、日に日にやつれていく自身の顔を鏡で見るたびに、心に巣食った不安の虫は、その体躯を肥大させていく。

 思い出の井戸の前に一人で佇み、水面に映る自分の顔を見つめる。そこに映るのは、かつて愛を誓われた幸福な女の顔ではなく、疑念と孤独に苛まれる、憔悴した女の顔だった。

 ルーウェンが誓ったはずの月は、雲に隠れてその姿を見せなかった。幸福な日々の記憶が、まるで遠い昔の物語のように色褪せていくのを、エレナはただ無力に感じていた。



 ~~~ 



 ルーウェンの寝室での不在は、もはや常態化していた。書斎で政務に追われている、という彼の言葉を、エレナはとうの昔に信じなくなっていた。夫の心は、この屋敷のどこにもない。

 言いようのない孤独と不安に突き動かされ、エレナは薄い寝間着のまま、音を立てないように寝室を抜け出した。ひんやりとした石の廊下が、火照った足の裏に心地よかった。


 足は、まるで引き寄せられるように中庭へと向かっていた。かつては愛を語らうために訪れたその場所へ、今や恐ろしい真実を確かめるために歩を進めている。自分の愚かさを嘲笑したい気持ちと、それでもなお残る僅かな希望が、胸の中でせめぎ合っていた。

 月明かりが、中庭の草木を銀色に染め上げている。そして、あの古い石造りの井戸が、黒々とした口を開けて静かに佇んでいた。


 エレナは、井戸の手前にある大きな樫の木の陰に身を潜めた。心臓が、肋骨を内側から激しく打ち付けている。息を殺し、闇に目を凝らす。すると、まさにその場所で、愛を誓い合ったはずの神聖な井戸のすぐ脇で、信じがたい光景が繰り広げられていた。


 月光に照らし出されていたのは、寄り添い、もつれ合う二つの影だった。逞しい男の背中、それは紛れもなく夫、ルーウェンのものだった。

 そして、彼の腕の中で甘い声を漏らし、その首に白い腕を絡ませているのは、シルビアだった。

 甘ったるい香油の匂いが風に乗って届き、エレナの嗅覚を、そして魂を汚していく。二人のひそやかな睦言と熱い吐息が、静寂な夜の空気を切り裂き、エレナの耳にこびりついた。


 ルーウェンが、かつてエレナにだけ囁いた愛の言葉を、今はシルビアの耳元で繰り返している。その光景は、エレナの中で大切に育んできた全てのものを、根こそぎ破壊するのに十分だった。

 涙さえ流れなかった。感情は凍りつき、ただ、目の前の現実を焼き付けることしかできなかった。愛を誓った祭壇は、今や不貞の舞台と成り果てた。

 エレナは音もなくその場を離れ、幽鬼のように自室へと戻った。冷え切ったベッドの中で、彼女は夜が明けるまで一睡もせずに、ただ虚空を見つめていた。


 翌朝、鏡に映る自分は、血の気の引いた青白い顔をしていたが、その瞳には凍てつくような決意の光が宿っていた。

 彼女はルーウェンの書斎を訪ねた。ノックもせずに扉を開けると、そこには昨夜の情事の疲れも見せず、涼しい顔で書類に目を通す夫の姿があった。


「あなた、お話がございます」


 エレナの声は、自分でも驚くほど静かで、それでいて震えていた。


 ルーウェンは億劫そうに顔を上げた。


「なんだ、エレナ。見ての通り、忙しいのだが」


「昨夜、中庭にいらっしゃいましたね。シルビア様とご一緒に」


 その言葉に、ルーウェンの動きが止まった。彼の顔から表情が消え、冷たい能面のような無感動さが浮かび上がる。エレナは続けた。


「あの井戸は、あなたが私に永遠の愛を誓ってくださった場所です。それなのに……、なぜ、あのような場所で、あのような真似を……」


 言葉が詰まる。怒りよりも、深い、深い悲しみが胸を締め付けた。


 ルーウェンはしばらく黙っていたが、やがてペンを置き、椅子に深くもたれかかった。そして、信じられない言葉を口にしたのだ。悪びれる様子など微塵もなかった。


「見たのか。ならば話は早い」


 彼の声には、侮蔑の色さえ滲んでいた。


「エレナ、お前は完璧な妻だ。慈愛深く、領民にも慕われている。辺境伯夫人としては、これ以上ないほどにな。だがな、男には……、情熱が必要なのだよ」


「情熱……?」


「そうだ。シルビアは俺に、お前が決して与えることのできない種類の情熱をくれる。彼女の奔放さが、彼女の野性が、俺を生き返らせるのだ。お前との生活は、穏やかで、満ち足りてはいるが……、正直に言えば、退屈なのだよ」


 退屈。その一言が、エレナの心を粉々に砕いた。彼女が築き上げてきた家庭、守ってきた平穏、捧げてきた愛、その全てが、夫にとっては退屈なものだったのだ。

 絶望が、冷たい霧のように彼女の全身を包み込んでいく。もはや、この男に何を言っても無駄なのだと悟った。

 エレナは何も言い返さず、静かに頭を下げて書斎を後にした。背後で、ルーウェンが安堵のため息をつくのが聞こえたような気がした。


 その日から数週間、エレナは抜け殻のように過ごした。しかし、そんな絶望のどん底で、彼女は自身の体に起きた小さな変化に気づいた。周期的なものが遅れている。そして、時折こみ上げてくる吐き気。まさか、と思いながらも、侍医を密かに呼び寄せた。


 診察を終えた老侍医は、厳粛な面持ちで、しかしどこか喜びを滲ませて告げた。


「奥様、おめでとうございます。ご懐妊でございます」


 懐妊。その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように思えた。

 お腹の中に、ルーウェンとの子が宿っている。この子こそが、冷え切り、壊れてしまった夫婦の絆を繋ぎ止める、最後の希望になるかもしれない。この子の存在が、夫の目を覚まさせて、あの女から引き離してくれるかもしれない。


 エレナは震える手で、まだ平らな自分のお腹をそっと撫でた。この小さな命を守らなければ。この子のために、もう一度立ち上がらなければ。


 僅かな希望を胸に、エレナはルーウェンに妊娠の事実を告げた。食事の席で、努めて穏やかに。


「あなた、申し上げたいことがございます。私、あなたのお子を身ごもりました」


 その瞬間、ルーウェンの顔に浮かんだのは、喜びではなかった。一瞬の動揺と、すぐにそれを隠すかのような、計算高い冷たい光だった。彼はエレナの顔をじっと見つめ、そして、その視線はすぐにシルビアが座るであろう空席へと向けられた。


 エレナは悟った。この子の誕生は、希望の光などではなかった。それは、夫とあの女の凶行を後押しする、破滅への引き金になってしまったのだということを。

 正妻が世継ぎを身ごもれば、離縁することは、この国の法では極めて難しくなる。シルビアが辺境伯夫人の座を手に入れるためには、エレナと、そのお腹の子の存在そのものが、最大の障害となるのだ。



 ~~~ 



 エレナの懐妊を知ったシルビアの反応は、迅速かつ狡猾だった。彼女にとって、エレナが世継ぎを産むことは、自らの野望の完全なる終焉を意味した。辺境伯の愛人という立場には満足していなかった。彼女が欲していたのは、権力と地位、そして辺境伯夫人という唯一無二の称号だったのだ。


 その夜、シルビアはルーウェンの寝室で、絹のような肌を彼の体に寄せながら、毒を含んだ蜜のように囁いた。


「ルーウェン様、奥様のご懐妊、おめでとうございます。でも……、このままでは、私はどうなるのかしら。世継ぎを産んだ正妻と、あなたは決して離縁できない。私は永遠に日陰の身……」


 彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。それは計算され尽くした、男心を操るための武器だった。


「そんなことはない、シルビア。私はお前を愛している」


 ルーウェンは焦って彼女を抱きしめるが、その心は乱れていた。エレナへのわずかな罪悪感と、シルビアを失うことへの恐怖。そして、世継ぎの誕生という領主としての責任。それらが彼の頭の中で渦を巻いていた。


 シルビアは、彼の胸に顔を埋めたまま、決定的な一言を口にした。


「ねえ、ルーウェン様。もし……、もし、奥様がいなくなったら? 不慮の事故で、お腹の赤ちゃんと一緒に、星になってしまわれたら……? 悲しいけれど、そうなれば、あなたは自由になれる。そして、私があなたの隣で、あなたを支え、新しいお子を授けることもできるのよ」


 ――いなくなったら。

 その言葉は、悪魔の誘惑のようにルーウェンの心に深く突き刺さった。

 そうだ、エレナがいなければ、この煩わしい問題は全て解決する。シルビアを手に入れ、彼女との情熱的な日々を続けることができる。領主としての体面も保たれる。

 彼の心の中で、わずかに残っていた良心は、シルビアへのどす黒い情欲によって、いともたやすく飲み込まれていった。

 二人は顔を見合わせ、その瞳には同じ冷酷な光が宿っていた。エレナを、この世から消し去る。そのための計画が、静かに練り上げられていった。


 数日後の夜、ルーウェンは殊勝な態度でエレナの部屋を訪れた。その手には、彼女が好きだった白い百合の花束が抱えられている。


「エレナ。今まで、すまなかった。君が私たちの子供を身ごもってくれたと聞いて、私は目が覚めた。私が間違っていたんだ」


 彼はエレナの前に跪き、その手を恭しく取った。

 その芝居がかった仕草に、エレナは警戒心を抱きながらも、心のどこかで彼の言葉を信じたいと願う自分がいた。お腹の子のために、夫が改心してくれたのかもしれない、と。


「生まれてくる子のために、もう一度、二人でやり直したい。どうか、私を許してくれないか。そして、話がしたいんだ。私たちの思い出の場所で。あの井戸の前で、もう一度、君に誓いを立てたい」


 ――思い出の場所。

 その言葉を聞いた瞬間、エレナの胸に冷たいものが走った。あの場所は、もはや裏切りの象徴でしかなかった。しかし、ルーウェンの瞳は真剣そのものに見えた。そして、お腹の子の未来を思えば、ここで彼を拒絶することはできなかった。僅かな、あまりにも儚い希望を胸に、エレナは彼の差し出した手を取った。


「……わかりました、あなた。参りましょう」


 中庭は、あの夜と同じように、静まり返っていた。ただ、今夜は月が雲に隠れ、辺りは深い闇に包まれている。ルーウェンが持つ松明の炎だけが、二人の足元を頼りなく照らしていた。井戸の前に立つと、ルーウェンはエレナを優しく抱きしめた。


「エレナ、本当にすまなかった」


 その声は、心からの悔恨のように聞こえた。エレナが安堵の息をつきかけた、その瞬間だった。


 夫の腕の力が、急に強くなった。それは愛情のこもった抱擁ではなく、獲物を捕らえるための拘束だった。そして、耳元で悪魔の囁きが響いた。


「――本当にすまない、エレナ。お前と、その腹の子が邪魔なのだ」


 ぞっとするような冷たい声。エレナが驚愕にその紫の目を見開いた時には、もう遅かった。

 ルーウェンの腕が、彼女の体を力任せに突き飛ばした。


「きゃあ!」


 短い悲鳴が、夜の闇に吸い込まれる。エレナの体は、いとも簡単に宙を舞った。

 抵抗する間もなかった。一瞬の浮遊感の後、背中に走る激しい痛みと共に、彼女は井戸の石組みに打ち付けられ、そのまま暗く冷たい水の中へと落ちていった。


 鈍い水音が響く。


 冷たい水が、一瞬にしてエレナの全身を包み込んだ。衝撃で肺から空気が漏れ、声にならない叫びが泡となって水面に消える。手足の感覚が麻痺し、重いドレスが鉛のように体にまとわりつき、彼女を容赦なく底へと引きずり込んでいく。


 必死にもがこうとするが、体は思うように動かない。闇。冷たさ。そして、圧倒的な息苦しさ。


 薄れゆく意識の中で、様々な光景が走馬灯のように駆け巡った。領民たちの笑顔、両親の優しい顔、そして、かつて愛し合ったルーウェンの姿。

 お腹の子を守らなければ。その一心で腹部をかばうように体を丸めるが、冷たい水は命の温もりを無慈悲に奪っていく。


 水面に映る、歪んだ光が見えた。ルーウェンが掲げる松明の光だ。

 彼は、井戸の上から、冷徹な目で見下ろしている。その瞳には、憐憫も、罪悪感も、何一つ映っていなかった。ただ、邪魔者を排除する者の、冷え切った満足感だけが浮かんでいた。


 ああ、この男は、本気だったのだ。


 愛は、どこにもなかったのだ。


 エレナの心は、絶望を通り越し、燃え盛るような憎悪に変わった。


(ルーウェン……、シルビア……、許さない……)


(絶対に……)


 水面に浮かんでいた彼女の体が、やがて完全に動かなくなるのを、ルーウェンは松明の光で照らしながら、じっと見届けた。エレナの黒髪が、水面に不気味に広がり、やがてゆっくりと水底へと沈んでいく。


 全てが終わったことを確認すると、彼は満足げに深い息をついた。

 彼は、まるで何もなかったかのように、その場を静かに立ち去った。中庭には、ただ、死のように静まり返った井戸だけが残されていた。



 ~~~ 



 惨劇の夜が明け、空が白み始めた頃、ルーウェンは信頼できる二人の手下だけを連れて、再び中庭の井戸へと向かった。

 昨夜の出来事を不慮の事故として処理するためには、エレナの遺体を密かに引き上げ、人目につかない場所に埋葬する必要があった。

 彼の心に罪悪感はなかった。あるのは、計画を完遂するための冷徹な計算だけだった。シルビアとの未来のため、これは必要な犠牲なのだと、彼は自分に言い聞かせていた。


「いいか、誰にも見られるな。静かに引き上げ、用意した袋に入れるんだ」


 手下たちに小声で命じ、ルーウェンは自ら井戸の中を覗き込んだ。夜明け前の薄明かりが、井戸の底をぼんやりと照らしている。彼は、水面に浮かぶか、あるいは底に沈んでいるであろう妻の亡骸を探した。


 しかし、次の瞬間、ルーウェンは自らの目を疑った。


「……いない?」


 水面は静かに揺らめいているだけで、そこにエレナの姿はなかった。手下の一人が松明を近づけ、光が井戸の底まで届く。澄んだ水が、底の石畳をはっきりと映し出していた。だが、そこに沈んでいるはずの遺体が、影も形もなくなっていた。


「馬鹿な……! 確かにここに沈めたはずだ!」


 ルーウェンの声が苛立ちに震える。


「旦那様、あるいは昨夜のうちに、誰かが……?」


「ありえん! この中庭には私以外誰もいなかった! 井戸の底から、死体が消えるなど……」


 まるで、昨夜の惨劇そのものが、全て幻だったかのようだ。エレナを突き落とした時のあの感触は、確かにこの手に残っている。

 混乱と、得体の知れない恐怖が、じわりと彼の背筋を這い上がってきた。手下たちも顔を見合わせ、不気味な沈黙がその場を支配した。結局その日、捜索してもエレナの痕跡は何も見つからなかった。


 辺境伯夫人エレナは、公式には行方不明として処理された。

 悲しみに暮れる夫を装い、ルーウェンは大規模な捜索隊を組織させたが、それはあくまで領民や他の貴族たちの目をごまかすための形式的なものだった。

 ろくに捜索もされないまま、数週間も経つと、エレナの話題は人々の口に上らなくなり、やがてシルビアが新しい女主人として、当然のように屋敷に君臨し始めた。

 彼女はエレナのドレスを身に纏い、その宝石を飾り、辺境伯夫人として振る舞うことを心から楽しんでいた。


 ルーウェンの地獄は、そんな平穏を装った日常の中で、静かに始まった。


 ある日の午後、政務の合間に喉の渇きを覚えた彼は、書斎で侍女が用意した冷たい水を、銀の杯で一気に呷った。水が喉を通り過ぎ、乾いた体に染み渡る。その瞬間だった。


『あなた……』


 声は、耳から聞こえたのではない。彼の喉の奥深く、まさに今水が通り過ぎたその場所から、直接、脳に響き渡った。冷たく、湿った、怨嗟に満ちた声。


 ルーウェンは驚いて杯を取り落とし、ガシャンという大きな音を立てて床に転がった。彼は自分の喉を押さえ、激しく咳き込む。気のせいだ。疲れているのだ。そう自分に言い聞かせた。


 しかし、その日から、怪異は彼の日常を侵食し始めた。


 喉の渇きを覚えて水を口にするたび、必ず声が響くのだ。


『今宵のお水は、どんな味がしますか? 私が沈んだ、あの井戸の水は美味しいですか?』


 声は囁きかけるように優しく、しかしその奥には底知れない憎悪が渦巻いていた。ルーウェンは水が恐ろしくなり、代わりにワインを飲むようになった。しかし、ある晩餐会で、彼が注がれた深紅のワインを口に含んだ途端、それは芳醇な味わいを失い、生臭く、鉄錆びたような味に変わった。

 グラスの中の液体は、どす黒く粘り気を帯びた、本物の血にしか見えなかった。彼は悲鳴を上げてグラスを叩きつけ、その場にいた者たちを唖然とさせた。


 食事も、もはや安息の時間ではなかった。熱いスープをスプーンですくうと、その中から、一本の長く濡れた黒髪が、とろりと絡みついてくる幻覚を見た。それはエレナの美しい黒髪だった。彼は皿をひっくり返し、厨房の者たちを怒鳴りつけたが、他の誰の目にも、そんなものは見えていなかった。


 夜ごと、彼は悪夢にうなされた。井戸の底から無数の白い手が伸びてきて、彼の足首を掴んで引きずり込もうとする夢。水中で、その紫色の目を見開いたままのエレナが、膨れ上がった腹を抱きながら、恨めしそうに彼を見つめている夢。


「やめろ……、やめてくれ、エレナ!」


 彼は寝汗びっしょりで飛び起き、暗闇に向かって叫んだ。


 急速にやつれ、目の下に濃い隈を作り、常に何かに怯えるようになったルーウェンの姿に、苛立ちを隠せなかった。


「あなた、しっかりしてちょうだい! まるで亡霊でも見たような顔をして。彼女はもう居ないのよ」


 彼女の甲高い声が、ルーウェンの疲弊した神経をさらに逆撫でする。彼の目には、シルビアの姿に、エレナの姿が重なり、にたりと笑っている様に見えていた。

 ルーウェンの精神は、確実に、そして急速に蝕まれ始めていた。復讐は、まだ始まったばかりだった。



 ~~~ 



 ルーウェンが日に日に狂気の淵へと追いやられていく一方で、彼女は辺境伯夫人の座を確かなものにした満足感に浸っていた。

 彼女はエレナの豪華な衣装部屋で、絹や宝石に囲まれ、鏡に映る自分の姿に酔いしれていた。ルーウェンの奇行は気になったが、それはエレナを突き落とした後ろめたさからくる一時的なものだろうと高を括っていた。彼女は、自分には何の災いも降りかからないと信じていたのだ。


 しかし、呪いは、その夜から静かに、しかし確実に彼女の体を蝕み始めた。


 眠りについた彼女は、体中を締め付けるような、不快なこわばりで目を覚ました。

 最初は寝違えたのかと思ったが、こわばりは一向に収まらず、次第に手足の関節に鉛を流し込まれたような重さに変わっていった。朝になり、ベッドから起き上がろうとした彼女は、体に力が入らないことに気づいた。


 指の一本一本が思うように動かない。ドレスに着替える簡単な動作さえ、侍女の手を借りなければままならず、その動きはまるで壊れかけの操り人形のようだった。

 どんな治療を施しても、どんな名医を呼んでも、その症状は一向に改善せず、むしろ日ごとに悪化していった。


 さらに彼女を絶望させたのは、髪の変化だった。黒檀のように艶やかで、ルーウェンを虜にした自慢の黒髪。それが、銀の櫛を通すたびに、ごっそりと抜け落ちていく。

 最初は数本だったものが、やがて束になり、枕やドレスの上には、おびただしい量の抜け毛が散らばるようになった。かつての輝きは失われ、髪はパサパサに乾燥し、まるで枯れ草のようになってしまった。



 彼女は、この異変の原因が、あの井戸水にあると直感した。水。あの子が沈んだ、あの井戸の水。


「水……、水よ……!」


 彼女はヒステリックに叫び、屋敷中の水差しを叩き割り、井戸から水を汲むことを固く禁じた。

 体を洗うことも、飲み水を口にすることも、恐怖でできなくなった。渇きと汚れ、そして失われていく美貌が、彼女の精神を猛烈な速さで追い詰めていった。


 かつて情熱を交わした二人の関係は、今や憎悪と罵り合いに満ちていた。


「あなたのせいよ! あなたが、井戸に突き落としたから、こんな呪いにかかったんだわ!」


 抜け毛を隠すためにターバンを巻き、金切り声でアルフレッドをなじった。


「うるさい! お前が唆したんだろうが! お前さえ現れなければ、エレナは生きていた! 全てお前のせいだ!」


 ルーウェンも、常にエレナの幻聴と幻覚に苛まれ、正気の縁をさまよっていた。

 彼はシルビアの醜く変わり果てた姿を侮蔑の目で見つめ、かつて彼女に感じていた魅力など、もはや一片も残っていなかった。

 二人は互いの存在そのものが、呪いの象徴であるかのように憎しみ合った。


 屋敷の雰囲気は、完全に淀みきっていた。主たちの狂気と不和は、使用人たちにも伝染した。

 誰もが井戸に近づくことを恐れ、夜な夜な中庭から聞こえる女のすすり泣きの噂や、廊下を歩くびしょ濡れの貴婦人の目撃談を囁き合った。

 かつては賓客で賑わった広間は閑散とし、埃が積もり、蜘蛛の巣が張っている。手入れをされなくなった庭は雑草に覆われ、美しい花々は枯れ果てた。


 水への恐怖は、生命そのものへの恐怖と同義だった。

 乾ききった喉で互いを罵り合う二人の姿は、まるで地獄で永遠の責め苦を受ける罪人のようだった。

 そして、中庭の井戸だけが、全ての元凶でありながら、何も語らず、ただ静かにその深い水面に闇を湛えていた。



 ~~~ 



 辺境伯領に冷たい雨が降り続く季節が訪れた。

 ルーウェンの狂気は、もはや誰の目にも明らかだった。彼は食事も睡眠もほとんど取らず、痩せこけた体で屋敷の中を幽鬼のように徘徊した。現実と幻覚の境界はとうに失われ、彼の耳には四六時中、エレナの囁き声が響き続けていた。


『あなた……、喉が渇きませんか……?』


『冷たくて、美味しいお水がここにありますよ……』


『さあ、こちらへ……、二人の思い出の場所へ……』


 その声は、かつての優しさを装いながら、抗いがたい力でルーウェンを井戸へと誘っていた。彼は何度も、ふらふらと中庭へ向かい、数少なくなった使用人たちによって、力ずくで屋敷に引き戻された。


 運命の夜は、嵐と共にやってきた。激しい風雨が屋敷の窓を打ち付け、雷鳴が轟く。まるで、天がこれから起こる悲劇を嘆いているかのようだった。その夜、ルーウェンの狂気は頂点に達した。


「エレナ……、エレナが、私を呼んでいる……!」


 彼は虚空に向かって叫ぶと、寝室の扉を蹴破り、豪雨の中へと飛び出していった。薄い夜着一枚のまま、泥濘に足を取られながら、彼は一直線に中庭の井戸を目指した。


 雨に打たれ、ずぶ濡れになった彼の目には、もはや嵐の景色など映っていなかった。彼の瞳が捉えていたのは、井戸の水面に揺らめく、信じられないほど美しい光景だった。


 水面には、雨にも関わらず、穏やかな空と満月が浮かんでいる。そして、その月光を浴びて、エレナが立っていた。

 それは、殺される前の、妊娠さえする前の、最も輝いていた頃の若く美しいエレナの姿だった。彼女は純白のドレスを身に纏い、ルーウェンに向かって優しく、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。彼女はそっと手を差し伸べ、その唇が動いた。


『さあ、ルーウェン。やっと来てくださったのですね』


 幻の声が、嵐の音を突き抜けて、ルーウェンの心に直接響く。


『もう一度、月にかけて誓ってください。永遠の愛を……』


「エレナ……、ああ、エレナ……!」


 ルーウェンの顔から、狂気と恐怖の色が消え、恍惚とした表情が浮かび上がった。

 彼はまるで恋する少年のように、その幻影に魅入られていた。彼は、エレナの美しい幻影こそが現実であり、これまで苦しめられてきた日々が悪夢だったのだと信じ込んだ。


「許してくれ、エレナ……! 私の、ただ一人の妻よ……!」


 彼は両手を広げ、愛しい妻の胸に飛び込むように、叫んだ。


「エレナ、今行くよ……!」


 その言葉と共に、ルーウェンは狂ったような、しかし幸福に満ちた笑みを浮かべながら、その暗い水底へと身を投げた。


 重い水音が、雷鳴の合間に響き渡った。


 水面には一瞬大きな波紋が広がったが、すぐに元の静けさに戻り、ただ激しい雨が水面を叩き続けるだけだった。ルーウェンの姿は、一瞬にして闇に飲み込まれた。


 辺境伯の死後、呪われた屋敷は急速に寂れていった。

 主を失い、財産は散逸し、残っていた使用人たちも蜘蛛の子を散らすように去っていった。

 屋敷から逃げ出した彼女のその後の行方を知る者は、誰もいなかった。

 ある者は、どこかの街で正気を失った乞食になったと噂し、またある者は、結局あの井戸に引き寄せられ、ルーウェンの後を追ったのだと囁いた。


 歳月が流れ、辺境伯の屋敷は、蔦に覆われた完全な廃墟となった。そこは、幽霊が出る呪われた場所として、誰も近づこうとはしない。


 ただ、打ち棄てられた中庭の奥深く、苔むした古い石造りの井戸だけが、昔と何一つ変わらぬ姿で、静かに水を湛え続けていた。


 晴れた夜には、その深く暗い水面が、空に浮かぶ月を静かに映し出す。水面は、まるで復讐を終え、心からの満足を得たかのように、穏やかに、そして静かに揺らめいていた。

























 『エレナ』は、辺境伯の財産のうち、持てるだけのものを持って、馬車に乗っていた。

 抜け毛を隠すためにターバンを巻いたエレナ。彼女の体はより不自由なものになりつつあった。



 ~~~ 



 あの日、指先に壁から垂れ下がる太い蔦の感触に気づいたエレナは、最後の力を振り絞り、その蔦を掴んだ。手足は痺れ、思うように動かなかったが。それでも、一ミリずつ、また一ミリずつ、濡れた壁を爪が剥がれるのも構わずに這い上がった。

 死闘の末、ついに彼女は井戸の縁に指をかけ、崩れ落ちるようにして地上に転がり出た。


 夜の闇に紛れ、彼女は森の奥深くにある、誰も知らないであろう狩人の廃屋に身を隠した。そこで数週間、熱に浮かされ、悪夢にうなされながら、ただひたすら生き永らえた。流産してしまった我が子の亡骸を、森の奥深くに手で掘った穴に埋めた時、彼女の涙は完全に枯れ果てた。代わりに、その紫色の瞳には、地獄の業火のような復讐の炎が宿っていた。


 体力が少しずつ戻る中、エレナは計画を練った。幸い、辺境伯領の地理も人々の動きも、彼女は知り尽くしていた。

 そして、彼女には一つの確信があった。

 シルビアと自分は、意外にもよく似ているのだ。艶やかな黒髪、紫色の瞳。そして、背格好もほとんど変わらない。


 エレナは、シルビアが人目を忍んで乗馬を楽しむための、森の奥の崖道を知っていた。ある霧深い午後、エレナは待ち伏せた。シルビアが一人で馬を歩かせているところに、亡霊のように現れる。


「エレナ……!? なぜ、あなたが……」


 シルビアの顔が恐怖に歪む。エレナは何も言わず、ただ凍てつくような憎悪の視線を向ける。


「来ないで! 化け物!」


 シルビアが悲鳴を上げて後ずさった。その瞬間、彼女の足はぬかるんだ崖の縁を踏み外し、短い絶叫と共に霧の底へと吸い込まれていった。

 エレナは、冷ややかにその一部始終を見届けた。エレナは崖下に降り、シルビアの亡骸を二度と見つからないよう谷川に流すと、彼女が乗ってきた馬の手綱を取り、静かにその場を去った。

 そして、シルビアが着ていた服をまとい、身振りをまね、彼女になりすまして屋敷に戻った。


 エレナの目論見通り、誰も、ルーウェンでさえシルビアが偽物であることに気づかなかった。シルビアになりすましたエレナは、ルーウェンのそばで様子を見ながら、ルーウェンへの復讐方法を考えていた。


 しかし、彼女は井戸の底で頭を打った後遺症として、体の自由がうまく効かなくなってきていた。朝、ベッドから起き上がるのが億劫になり、指先は常に微かに震え、かつてのように滑らかに動かすことができなくなった。


 加えて、呪いが、ルーウェンとエレナを蝕み始めた。

 ルーウェンは急速に正気を失っていった。水を見るたびにエレナの幻影に怯え、食事に混じる黒髪の幻覚に嘔吐し、夜ごと悪夢にうなされ叫び声を上げた。

 その呪いは、エレナにも牙を剥いた。エレナは髪が抜け落ち始めた。艶やかな黒髪が、櫛を通すたびにごっそりと抜け落ちていく。枕やドレスに散らばるおびただしい抜け毛を見るたび、エレナは言い知れぬ恐怖に襲われた。

 これは、きっと井戸の底で死んだ我が子の呪いなのだ。母である自分さえも許さない、無垢なる魂の怒りなのだと。

 しかしそれも、エレナにとっては都合が良かった。ルーウェンは日に日に醜くなっていくエレナに興味を示さなくなり、そして、度々井戸に吸い寄せられる様になった。


 復讐の方法はもはや一つだ。


 嵐の夜。ルーウェンはついに完全に正気を失い、井戸へ向かった。


 ルーウェンに追いついたエレナは、幻の自分に両手を広げる彼の体を、力任せに突き飛ばした。






 夏のホラー企画で書いてみました。ホラージャンルを書くとは、まったく思っていなかったので、おかしなところがあるかもしれませんw


 読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!


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― 新着の感想 ―
ホラーというか、サスペンスなオチにビックリ。 ジャンジャンジャーン と火サスの曲が流れ始めるかのようだ。 誰も、誰ひとりとして幸せになれない浮気、ヨクナイ。 旦那がちゃんとエレナひとりを見続けていたら…
流行り物とお題をうまく噛ませててよかった。個人的に実はエレナの復讐だったというパートは賛否両論だなーと思いました。あのまま霊として取り殺してたというのでも良かったんじゃないか、という。しかも今作は一応…
うーん! うまい! なぁ。
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