『エピローグ』
「ぷはあっ……‼︎」
黒い髪が濡れて目元を覆う。
男の着用していた堅苦しい制服は大量の水を吸って、とても動きにくそうだった。
息苦しさに思わずコートを脱ぐ。
投げ捨てた傍には、緑の外套を羽織った白い髪の青年がぐったりとしていた。
「ええい、クソっ!」
青年は息をしていない。
この砂浜へ流されるまでに海水を飲み込んだのだろう。
黒髪の男は青年の鼻をつまみ、大きく息を吸い込んでから人工呼吸を行った。
肺へ空気を送り込む。
胸が何度か膨らんだ後、青年は口からケホケホと水を吐いた。
「……ヴェイン少佐」
「目覚めたか少年。やれやれ、俺はどうも……お前ぐらいの若者から苦労を押し付けられる星の元へ生まれたらしい。剣が流されてしまった」
「ここは?」
「北東方面に流された。この広大な白い砂浜を見るに、ホワイトサン付近だろう。俺たちは運が良かった――爆風に吹き飛ばされて、あの異質な魔術の渦に巻き込まれずに済んだ。拾ってやった事に感謝するのだな」
「爆風……ハーデンはッ⁉︎」
シリウスの意識はそこで無理矢理に目覚めた。
海上橋であった騎士団の男との戦闘。
彼女は最後――自分に逃げろと言って。
「うっ……うわあああああああああッッ‼︎」
次第に鮮明になっていく先の記憶を見て、シリウスは発狂する。
「……思い出したという調子だな。何があった?」
「私のせいで……ハーデンは死んだッ! 私のせいで、私のせいでッッ‼︎」
「そうか、先生は」
「私が魔術士になどならなければ、ハーデンは、今も死なずに……ッ」
あの丘の家で、普通の暮らしを送ることができていた。
目の奥に針を突きさされたような頭痛がシリウスを蝕む。
シリウスの心は罪悪感で一杯になった。
彼女を死に追いやったのは。
紛れもなく、自分のせい。
「私は、取り返しのつかないことを」
眩暈がし、上体の言うことが聞かなくなり砂地へと倒れこむ。
その間、ヴェインは特に宥めて落ち着かせるような事はしなかった。
彼もまた、アズールの暴走を止めることができず、結果的に恩師と敵を対峙させてしまった事を悔いていたのだ。
二人を苛む自責の念は晴れない。
それでも――水平線の向こうからは純粋無垢な陽の光が射し込み、後に残された者の朝は始まる。
「俺の責任だ。俺があの男を止めることが出来ていれば、こうはならなかった」
「があッ‼︎」
慰める言葉を掛けたヴェインへ、シリウスは掴みかかった。
胸倉を力任せに掴む。
そこから先はどうすば良いのかシリウスには分からなかった。
八つ当たりに地面を殴りつける。
白い砂が少しだけ舞い、ボスリと貧弱な音が鳴った。
「貴様のせいだ! 貴様が先生を守れていれば、貴様がもっと強ければッ‼︎」
「そうだ、その通りだ」
胸倉を掴んだままシリウスは怒りに満ちた形相で、ヴェインへと詰め寄る。
ヴェインはただ冷静に少年を見つめ返す。
その声は自身への失意が込められている。
「守れもしないくせに……! 何が軍人だ、何が魔術士だッ‼︎」
「全く以てその通りだ」
「力がッ。私に、もっと、力があれば……っ‼︎」
「…………」
最後の言葉について、ヴェインの返答は無かった。
シリウスの黄金色に輝く瞳には――大粒の涙が溢れ出していた。
人目も憚らず泣きじゃくる。
後悔、失望、自責、それらの感情が綯交ぜになった声は、翡翠色の光に輝く海へと流れていく。
グリーンレイの一件から一夜明けて。
シリウスは故郷と家族を失ったのだった。
「――少年、それはなんだ?」
ふと、ヴェインがある物に気付く。
シリウスの左手――何か黒い棒状の品が握られていた。
「はっ」シリウスも言われて、手の中のそれを見る。
先端に掛けて細く、根元が捻じれて層のようになっている。材質は不明。陽の下に晒すと黒曜石の輝きを放ってはいたものの、それ自体は石より遥かに軽く、形状からして明らかに魔術士の杖だった。
ブルーの言っていた事を思い出す。
自分の本質と向き合った時――杖はいつの間にか姿を現すのだと。
杖からは何も感じない。
「お前が握っていたのだから、持ち主は少年であることに間違いはない。ただそいつからは――何か嫌な気配がする」
ヴェインはジッと杖を見て訝しむ。
マナの流れを観察できるその青い瞳は、強力な思念を感じ取っていた。
「そうか。そういう事か」
唐突にシリウスは立ち上がる。
衣服に付いた砂が舞い、その表情もどこか、憑き物が落ちたような顔をしている。
「少佐。私は騎士団のあの男を追うことに決めた」
「アズール中佐をか? 目的は?」
「決まっている。ハーデンを殺したあの男を――私の手で殺す為」
「軍人の俺にそれを宣言して、見過ごしてもらえると思ってるのか……」
「いいや、少佐。アナタなら手伝ってくれるはずだ……必ずッ」
「随分と――良い眼をするようになったじゃないか。シリウス・ベルギア」
朝陽を背にした少年の顔は、ヴェインのよく知る復讐者の顔つきをしていた。
大戦末期――こんな哀れな人間を多く見た。
「なんだ……ッ」
ふいに、強烈な力の奔流を感じた。
ヴェインの観察眼が、シリウスの体内に巡るマナを見通す。
そこには以前の少年のものとは違う――三級魔術士にはまるで見合わない力が溢れていた。
黒い杖が、仄かに紅く光る。