『黒い杖』
「うっ……あ、あぁ」
頭の中で反響し続ける耳鳴りに体のバランス感覚を失う。
橋の縁でシリウスはもがきながら、うわ言のようにハーデンの名を呼び続けた。
彼女はどこか。
「ハーデン……!」
少し後方、バラバラの木片になった馬車の傍で横たわっている。立ち上がろうとしたけれど、足へ思うように力が入らない。体を強く打ち付けた後遺症がまだ残っていた。
「騎士団の盟約――汝が国、教会、臣民へと降り掛かる災禍の因子を断ち切りて、汝が盟約と慈悲深き主に対する使命を果たせ」
仰々しい言葉を連ねながら、男はシリウスに歩み寄る。
傲岸不遜な声。
感情の掴めない表情。
清浄の色に染まる衣装。
島の端で戦っていたはずのアズールが、何故かそこに立っていた。
降り注ぐ火球の正体はアズールの魔術だったらしい。
海上橋は衝突の余波で、全体が青い炎に包まれている。
「なぜ、貴様がここに」
「逃げられないと言ったはずだ」
「少佐は……っ」
朦朧としていたシリウスの目が見開く。
アズールが右手に引きずっていたのは、体中から白い煙を噴き上げ、すでに意識を手放したヴェインの姿だった。ここへ来るまでの間に敗北したという事実に、シリウスは驚きを隠せなかった。
「殺したのか」
「まさか。組織は違えど我が同胞である――反抗する態度が見られたので少しばかり折檻した」
「そんな……少佐ほどの男が……」
「お前の実力は推し量るまでもない。大人しく同行してもらおう」
ドサリと、ズタ袋でも放り投げるかのように地面へとヴェインを落とし、アズールは右手をかざす。
手には例の炎が起こる予兆すらない。
シリウスを相手に本領すら発揮する必要はないという意思の表れだった。
「うがッ」
唐突に、首が圧迫される。
体へ直接、魔術操作をされていた。
無理矢理に起立させられ、じわじわとアズールの元へ引き寄せられる体はゆっくりと地面を離れた。シリウスは無抵抗のまま宙を漂い、かざした手の中に収まっていく。暗い眼窩がシリウスを見ていた。口元は笑っているが、眼に感情の色がまるで無い。およそ人間味を感じない形相に恐怖を覚える。
「お前は人間か? それとも作られた人形か?」
「訳の分からない事を……!」
「大戦末期――新たな兵力を補充するべく、皇国も共和国も同じ方法に頼った。それは何か? まだ年端もいかない少年兵に戦闘教育を施し、来たる最終作戦に備え着々と準備を進めたのだ。ウル魔法皇国はいち早く戦力の低下を予想し、各国にアカデミーを立ち上げ、若い魔術士を捻出した。そこに居るヴェイン・アンブルもその産物だ。一方のアカーシャ共和国は一手遅かった――戦線を大陸南部の奥深くまで押された結果、皇国のように育成機関を設置する事が叶わなかったのだ。だが、最後の戦いには間に合った。何故だと思う?」
「なんの、話だッ」
「これは歴史の授業だ、シリウス・ベルギア。その答えは最終作戦にある――アカーシャが戦地に投入した新たな兵士たちは、どれも齢十歳にも満たない幼子ばかりだった。にも関わらず、彼らは戦場で猛威を振るった……熟達した術士のように。彼らはどのようにして作られたか? まだその方法は明らかになっていない。おおよそ人道的な方法は一切無視されたのだろう」
話の内容はほとんど頭に入らない。
アズールが語った事について考える余裕など無かった。
「がはぁっ!」
首を絞めつけていた力が解放される。
アズールの足元へ倒れ込んだシリウスは、必死に呼吸を整えながら、どうにかして逃げられないかと考えた。
一瞬の隙を見て橋を渡るか。
海へ飛び込むか。
しかしどれも、アズールによって阻止されるのは明白だった。
この男から逃亡するイメージが全く沸かない。
「近頃、アカーシャの残党が南部に潜み、反乱の計画を企てている。そこで再び見つかったのがマナドールだ」
「マナドール……?」
「戦闘兵器として作られた幼子たちの総称だ。意思の無い人形、生まれながらにして強力な魔術を扱える存在。シリウス・ベルギア、お前はどうなのだと聞いている」
「私は人形ではないッ!」
「その意思すらも作られたものかもしれない」
「世迷言を」
「重要な事はただ一つ! ただ一つだッ‼︎」
アズールの雰囲気がガラリと変わった。
その瞳が狂気で満たされていく。
「我が主は人形の製法を知りたがっている――!」
シリウスの眼にはアズールという男が、得体の知れない化物のように映った。
血が凍りついていく。
怖い、怖い、怖い。
胸の内側が一瞬にして恐怖で満たされた。
この男に捕まれば最後――生きては戻れない。
「うあああああああッ‼︎」
死に直面した小動物が決死の思いで噛みつくように、シリウスはその手に魔術を発現させようと叫んだ。
死にたくないという本能が発露となる。
体の内をマナが巡り、体の外では激しく火花が散った。
「フフッハッハッハ! そうだ、お前の力を見せてみろッ!」
「私に近寄るなあァァッッ‼︎」
赤い火の玉が発現した。
それは最初に起こした火よりもずっと大きなものだった。
術を練り出した傍から、アズールめがけて撃ち出す。
至近距離からの攻撃はよく狙うまでもなく、アズールの体を捉え、直撃した。
火の玉は心臓部を抉るようにして激しく渦を巻く。
しかしアズールは平然としていた。
「なんと……弱い火だ……」
落胆したようにぼやく。
「な、に」
目の前の敵はもろに攻撃を受けていたにも関わらず、至って平静だった。
全く効いていない。
火はすぐに勢いを失くし、虚しく鎮火していった。
アズールは致命傷を負うどころか、その純白の衣装には焦げ痕一つすら付いていない。
歴然とした力の差に、シリウスの気力は折れた。
「――期待外れだ。グリーンレイ襲撃事件の報告書にあったような爆発的なマナの脈動が無い。あれはただの偶然か、それとも失敗作か」
海からの黒い風にアズールの外套が翻る。
「魔術とはこうする」
シリウスは死を直感した。
顔の前へと大きく広げられた手。
火花が散り、次に熱を肌に感じ、冷たい色をしたアズールの火は膨れ上がっていく。
「瀕死の所で生かしておく。まだ女との交渉に使えそうだ」
間近に見るその火はとても冷たい色をしていた。
シリウスはそれをぼんやりと見つめるしかなかった。
「――いいや、腐敗した国との交渉など有り得ない」
「ッ⁉︎」
アズールに一瞬の隙があった。
足元のそれに気付き、後方へ回避しようと飛び退く前に――石畳へと発現した高熱のマグマ溜まりが火炎を吐いた。
噴き上がる炎の柱が轟々とアズールの全身を焼く。
呆然としていたシリウスは我に返り、声のある方を見た。
「さあ立って。諦めるのは死んだ後にしなさい」
「ハーデンっ……どうして?」
そこには衰弱していたはずのハーデンが自分の足でしっかりと立っていた。体の周囲には――仄かに発光する粒子が絶えず舞い、どこか普通の状態ではない。シリウスはその姿に――ブルーの杖に漂うマナの結晶を連想した。
不安が過る。
隣に立ったハーデンからは、何故か、今にも消え入りそうな雰囲気を感じた。
「話している暇はない。私が抑えていられるのは、ほんの僅かな時間だけ」
「ハーデンはどうするのだ⁉︎」
「私は一緒に行けない……ここでお別れだ……」
「そんなの絶対に嫌だッ! 奴なら死んだかもしれない、だから一緒に行こう……!」
聞き分けのない幼子のようにシリウスは喚く。
ハーデンは静かに頭を振った。
彼女だけはまだ、その気配を感じ取っていたのだ。
「それは叶わぬ願いだ」
「……っ‼︎」
紅い炎が振り払われ、青炎と共に五体満足のアズールが姿を現す。
術をモロに受けたにも関わらず、外傷はほとんど無い。
体の周りに逆巻く炎から見て、より強い術でガードしたのだろう。
アズールは息つく暇もなく、即座に仕掛けてきた。
小手調べと言わんばかりに大量の火を発現させ、シリウスたちを襲う。
「後ろへッ!」
自分の背後にシリウスを下がらせ、ハーデンが応戦する。
「――ベール」と短く詠唱し、空中に薄い布を広げた。ベールに衝突した連弾はその滑らかな表面に方向を逸らす。ベールを潜り抜けてきた弾も幾つかあったが、同程度の火で相殺し、全ての攻撃を難なく捌き切る。ハーデンはそこで一呼吸置くことはしなかった。
「激情する灼熱の息吹よ――アータルアシャ・ピラー」
今度は術の詠唱にやや時間を掛けた。
アズールを包囲するように、四つのマグマ溜まりが現れ、炎を噴き上げる。
射出する角度を斜めに付けたことで攻撃の範囲が広がり、アズールの退路は断たれた。轟々と燃える柱が交差する。最初の一撃よりも目に見えて威力が高く、アズールの影が見えなくなる程に炎は激しい光を放つ。
こんな力を秘めていた事に、シリウスは目を丸くした。
争いとは無縁の生活を送っていた。
そもそもハーデンは戦える体ではない。
杖を失った魔術士は――心臓を失ったも同然であるからだ。
だからこそ、不安が押し寄せてくる。
ハーデンは一体、何を犠牲にマナを練り上げているのかと――。
「フッフッフッフ……とてつもない使い手だ。ハーデン・ベルギア」
「これでもか……!」
紅い炎が内側から青く侵食されていく。
アズールを中心に火の竜巻が発生し、ハーデンの術を押し退けた。
「同じ属性の魔術ならば、使い手の力量で勝負は決まる」
一切の手加減もないハーデンの大技を持ってしても、アズールが発現する魔術の威力、質、純度には敵わないということだった。
その額には汗の一つもかいていない。
どころか、ハーデンの魔術士としての力量を測る余裕すらある。
「お前程の術士を相手にするのは久しい。術の詠唱短縮による即時展開、それよりも速射性のある無詠唱の魔術。更には威力を増幅させる為の準詠唱――大方の予想通り、戦争帰りの魔術士か」
「ご名答。こんな事もできる」
と、ハーデンは号令を出す要領で、右手を地面へと振り下ろした。
橋がくぐもった音を出す。
ハーデンの後方の石畳がメキメキとせり上がり、一人でに石を積み上げ、一門の大砲へと形を変えた。
咆哮する獅子を模った石の筒。
その大きな口に火を溜め込み、爆音と共に特大の火球を放った。
容赦なく、アズールの上半身を吹き飛ばそうと突進する。
意表を突いての攻撃だったが、火球は直撃の前に鋭利なもので切断され、空中で細切れになり消滅していく。
「設置型の魔術か。炎の柱といい、威力の傾向を見るに得意分野はそれか」
アズールの周囲には再び、無数の炎の触手が現れた。
青い炎で作られたクラーケンが男を守る。
「お利口さん。若いのに目敏いな」
「姿を隠さずに暮らしていた事を鑑みるに、かつては皇国側の魔術士であったのだろう。ならば何故、陛下の一助となる情報を秘匿する?」
「アンタが家へ訪ねてきた時にも断ったはず。私はこの――腐敗した皇国の利益になるような事は死んでもしない。アカーシャの亡霊共と取引するつもりも無い。私たちはどこにも属さない」
「ハーデン・ベルギアよ。お前を殺すのは国にとっても損失だ。その子も失いたくはないだろう、何を意固地になる」
「貴様らはまた戦争を起こす気なのだろう! 魔術士共を使ってッ!」
「フッフッフ……完全なる世界の為だ」
「実に傲慢だ!」
「これは責務だ。我が皇国は人々を三千世界へ導くという大いなる使命がある。それに――今度は戦争すら起きまい」
何を見通しているのか。
アズールはくつくつと愉快そうに笑う。
その表情はハーデンの逆鱗に触れた。
「暗黒の世界に帰してやるッ‼︎」
今一度ハーデンはマナを練り上げ、魔術の詠唱を始める。
ふと、彼女は振り返った。
その時の表情は、温かな眼差しをした母の顔に変わっていた。
「シリウス。私が次に魔術を撃ったならば、振り返らずに対岸へ走れ」
「……だけど」
「俯くな。それではちゃんと走れない」
「死ぬつもりなのだなッ⁉︎」
「そうだ、命に代えても守ってみせる。アナタが居てくれたおかげで私の人生は救われた。この火はシリウス――アナタから受け取った光」
ハーデンがかざした両手の中に柔らかな火が灯る。
「ム……」と、アズールの表情が初めて曇った。
火は――今までに繰り出した魔術とはどこか様子が違い、荒々しさはなく、とても穏やかに揺れている。
まるで攻撃の意思を感じられない。
静かな魔術だった。
アズールは身構えた。
恐れを抱き、警戒している。
「これが最後の魔術」
手の中の火が翼を広げたように周囲へと拡大していく。光の粒子が舞い、ふわりとした紅く燃えるベールが揺蕩う。どこまでも広がり、やがて島と大陸とを渡す海上橋を包み込むほどの巨大なフィールドを形成した。天上の星と同じ燦然の輝きを持った小さな粒は。とても暖かく、それに触れたシリウスの心を落ち着かせた。
不思議な魔術だった。
「初めて見る……なんだ?」
向かい合うアズールもまた、ハーデンの作り出した光の粒子に触れている。
肉体へのダメージが無い。
一体何に干渉する術なのかすぐには分からなかった。
けれど、彼にとっての異変はすでに起きていた。
「俺の炎が消えていく……!」
流星が落下した余波で一帯を炎上させていたアズールの青い火が、その柔らかな光に触れた途端――跡形もなく消え去ったのだ。
「元素同士の対滅……いや違う、もっと異質な」
アズールは考察する。
「融和か――‼︎」
「青ざめたな」
「たった今理解した。お前はここで消しておかねばならない、ハーデン・ベルギア」
ここにきてアズールが武器を取る。
腰に差す鞘から抜き出したのは、刀身が長く黒い剣。この長剣こそアズール・リアトリスが所有する杖だった。
「お前の手の中にあるそれは……皇国に災禍をもたらす!」
足元から小さな火が立ち昇る。
二人を生かしたまま捕らえ、マナが尽きるまで封殺に徹する算段を立てたアズールだったが、ハーデンの魔術を見た瞬間に眼の色を変えた。
今はもう捕らえようなどと考えてはおらず、殺気を剥き出しにしている。
「デア・ラス・ファフニール」
短く詠唱した。
アズールの体の周りに火が這いずり回る。
とぐろを巻きながら次第に全長が大きくなり、やがて二つの頭を持つ大蛇へと姿を変えた。
片方の蛇が牙を剥く。
標的を丸呑みにしようと頬の無い口を大きく広げた。
巨体には見合わない速さで鱗をシャラシャラと鳴らしながら猛然と向かっていった。
ハーデンはその場から動かない。
蛇は易々と彼女の元まで接近したが、ハーデンの火から放たれる粒子に触れた途端、顔面の先から消滅していく。みるみる内に削られ、頭部を失ったその体は地面をのたうち回り、やがて動かなくなる。
油断は禁物だった。
もう片方の蛇の頭がコチラをジッと見て威嚇している。
「威力では無理か。ではこれはどうか?」
アズールは剣をゆっくりと振るう。
時計回りに円を描き続けると、上空に炎の雲海が出現した。
「アグ・ニス・ヘヴィレイン」
縦に一閃、剣を振り下ろす。
雲が明滅し、大量の火の矢がハーデンへと降り注ぐ。
「質量でも無駄だッ‼︎」と、空に手をかざした。
傘を広げるようにしてベールを上空へと展開し、数えきれないほどの矢の雨を受ける。
ハーデンの魔術は一つたりとも矢を通さない。
「なんという浅ましい術――!」
空からの攻撃に一瞬、ハーデンの意識が向けられたのをアズールは見逃さなかった。
生き残っていた大蛇を操り先陣を切る。
後ろから続き、一太刀浴びせようと波状攻撃を仕掛けた。
「魔術の本質とは純度ッ! 最後に立っていられるのは、純粋な力を有した魔術士だけだッ‼︎」
狂牙が激突する。
対になるもう片方の頭の力が集約されたのか、蛇は粒子に触れても形が崩れることなく、しばらく食い下がっていた。その間も上空からは火の雨が降り注ぐ。ハーデンは両手を突き出し、それぞれの方向からの攻撃に耐え続けていた。
剣先を向けたアズールが今度こそ仕留めようと疾走する。
「行きなさいシリウス!」
その時、ハーデンが決死の思いで叫んだ。
目と目が合う。
ごく短い時間での出来事だったが、シリウスはハーデンの様々な想いを受け止めた。
溢れんばかりの愛情。
胸を締め付けられるような悲痛。
混ざり合う感情がその瞳を通じて、シリウスの内側へと流れ込む。
「――――!」
戦火の中にハーデンの声を聞いた。
「ぐうゥッ‼︎」
その声に背中を押され、シリウスは一心不乱に走った。
「それでいい……っ」
黒剣の先が心臓へと突き立てられる。
杖とは魔術士の力の象徴。
故に純度が高く。
ハーデンの融和の魔術は破られた。
背中越しに、大きな力が消失していくのをシリウスは感じた。
思わず振り返る。
視界を埋め尽くすその光景に――眼を奪われた。
衝突したアズールの火と共に、鮮血のような紅い炎が、火花が、飛び散る粒子が、温かな光が――彼女が立っているであろう地点から夜空へ向かって飛沫を上げる。紅い火は暗闇の中で燦然とした輝きを放ち、黒い海へと降り注いだ。
「うあああああああああああァァッッ‼︎」
凄惨な声が辺りに響く。
シリウスはハーデンの死を感じ取った。
膝から崩れ落ち、ただ泣き叫んだ。
光はやがて消滅していった。
「これはおよそ未完成の魔術だ」
刀身が赤く染まる。
「がふッ……あ……‼︎」
切り裂かれた内部からドクドクと血が溢れ、ハーデンは口からも激しく出血し、息ができなくなった。
「融和の魔術――どんな原理か定かではないが、皇国の歴史上類を見ない魔術だ。しかし、杖を持たない魔術士など恐れるに足らないッ! お前の死を以て封印させてもらおう。これは陛下の喉元に届きうる卑しい魔術だッ!」
剣が心臓を抉り、絶命の一撃を与える。
「終わりだな――」
言って、アズールが剣を体から引き抜こうとした。
だが剣は、強い力で握ってもビクともしない。
見れば、すでに死に絶えたはずのハーデンが黒剣を握りしめていた。
「なん、だ……この女ッ」
「融和……と、お前は表現したが……あれは、シリウスから受け取った光そのもの、だ――」
紅い瞳がアズールを凝視する。
目の前の女から発せられたドス黒い殺気に、全身が怖気立つ。
「シリウスの持つ光がお前を打ち倒したのだ。そしていずれ……可愛い我が子が、その手に魔術を制する――それまで、お前の心を連れていく……‼︎」
「この力はッ⁉︎」
天上に輝いていたはずの星たちが姿を消した。
肌に纏わりつくような微風が流れ、海面には一つの揺らぎさえ無くなった。
空と海が静止する。
深淵の闇の中にあるような景色だった。
「私はその昔、自分の杖を破壊してこの黒い海へと破片を蒔いた――」
すると、水面に一つの波紋が走った。
それは一つ、また一つと浮き上がり、無数の輪を作り出していく。
得体の知れない何かが――暗い水の底に居る。
「杖は破壊すると元の形を保てなくなる。私は魔術士の力を憎悪し、二度とこの手の中に杖が戻らないことを願った。けれど――私の中に蠢く闇の力がそれを許さなかった。バラバラに砕かれた破片はこの黒い海を何年も彷徨い、私がもう一度、闇に触れるのを待ち続けていた。それが今この瞬間に成就される!」
「何をする気だッ! これはまるで、人智を超えた――」
「サラゼアール・エヴ・ゲイン」
黒死術。
剣が吸い上げた血液がアズールの全身を浸食していく。
水面には無数の黒い煤が浮遊していた。
それはかつてハーデンが自ら破壊した杖の破片だった。
波紋を立てながらフワフワと浮かび、主の命令を待っている。
「私の命とお前の心……この二つを媒介にして、アチラの世界から杖を呼び戻す」
「こんな馬鹿げた儀式ッッ! させてなるものかァッ‼︎」
アズールはまだ自由になっている片方の手に青い炎を発現させ、闇の魔術の発動を止めようと必死に抗う。
でたらめに力を注いだ炎が二人の全身を燃やす。
死なば諸共。
アズールの魔術が再び、致命の一撃を繰り出そうと炎上する。
「もう遅い」
「はっ⁉︎」
ハーデンとアズールを中心として、海から這い出た煤たちが渦を巻く。
二人の血と肉体はすでに癒着し――黒死術は発現した。
「おのれハーデン・ベルギアァァッッ‼︎」
憎悪に満ちた叫びが残響した。
紅い血。
青い炎。
黒い煤。
それらが合わさり、強力なマナの奔流を生み出す。
「……ハーデン」
失意の中でシリウスは最愛の人の名前を呼ぶ。
立ち上がる気力は無かった。
視界が痛いほどに白んでいく。