『青い星の下』
浮遊する杖は、人の命を吸った魔術士の杖である。
自らを燃やして次の世代の種を蒔くフレイムリーフの樹木。その新芽だけで編まれた上質な品は、先端が三日月のように弧を描いた形に加工され、欠けた月の中心には紅い石がはめ込まれている。
敵を打ち倒すためだけに作られた杖は今――持ち主の手によって破壊されようとしていた。
「ハーデン……何も燃やすことないだろう?」
「いいえ、ムラオサ様。こんな物があるから世界には争いが絶えず、悲しみばかりが広がっていくのです。私たち魔術士が悪意に満ちた代物を持っているばかりに……ただ懸命に生きていただけの人たちは成す術もなく戦火へと飲み込まれていきました。暮らしを奪われ、唐突に死んだのです。ここに帰ってきてからの私は、自分が……力を振るうだけの醜い暴者に思えてならないのです!」
女は悲痛な声を上げながら、手に持っていた紙の束をビリビリと破いていく。
紙面に書かれている文章が読めなくなるほど細切れにすると、それを目の前の海へと放った。
風に乗って、夜の中に消えていく。
「もう思い詰めることはない。ハーデンよ、楽になれ。戦争は終わったんだ」
「はい。皇国の勝利によって」
「ならばもう、拳にある力を解きなさい。いいではないか、ほんのひと時だけ、忘れようと努めても。それすら許されないのであればあまりにも……」
「できるはずありませんッ!」
男が慰めの言葉をかけた時、彼女は声を荒げた。
叫びに反応して――杖が発火する。
杖は轟々と音を立てて、一瞬の内に赤い炎へと包まれた。
煙を吹きながら、凄まじい熱によりみるみる内に煤へと変わっていく。周囲の闇を払う火の光は、目の前に立つハーデンと呼ばれた女の影を激しく揺らした。
「むうぅ……!」
顔にぶつかる熱風にムラオサがたじろぐ。
一方のハーデンは燃え盛る炎に臆することすらしない。
ただジッと、杖が消滅する様を見つめていた。
瞳からは涙が溢れ落ちている。
「私は自分の意志でたくさんの人を殺しました! 皇国への忠誠心や、故郷のみんなの安寧を想って戦ったのは最初の戦場だけ――すぐに目の前の敵を討つことに夢中になって、それから、自分は死にたくないとだけ思うようになりました。私は酷い殺人者ですッ!」
「お前のような力ある者がやらねば、我らは死んでいたのだ。務めを果たしただけの事ッ!」
「そうでしょうか……本当にそうなのでしょうか?」
炎の勢いは徐々に弱くなり、辺りには杖だったものの火の粉が舞う。
潮の匂いの中に、吸い込むとむせかえるような焦げが混じり、それすらも消えてなくなると、二人の間には宵の静けさが戻った。
「魔術士の――この特異な力は、破壊をもたらすだけのものではなかったはずなのに」
「ハーデンっ! 何をッ」
「せめてもの罪滅ぼしを」
ハーデンは身に纏う外套の内ポケットから、銀のナイフを取り出す。
何に使うのかは明白だった。
彼女がやろうとしている凶行に気付いたムラオサは、すぐにナイフを振り払おうと詰め寄る。
だが直前で足が止まった。
男の額には大粒の汗が滲んでいる。
全身に殺気をぶつけられていたのだ。
「感じますか? 私の内から発せられる黒いものを――死が迫ると勝手に反応してしまう程に、私の心は醜いもので一杯になってしまった」
「ハーデンよ……一体何に……!」
「魔術士です。黒く冷たい闇を私たちは皆持っています。この闇こそが魔術士たる証」
「いかんっ! 飲み込まれてはならない!」
ナイフの先は正確に心臓部へと向かっていく。
ムラオサは地面を這いながら剣の柄を止めようとしたが、届きそうにもない。
「教えてください……この心にあるものは、一体何の為に存在するのです?」
「止めろ……ッ!」
掠れた声で叫ぶ。
ハーデンの肌に鋭い痛みが走り、白いブラウスの上に血が滲んだ。
次にくる決死の痛みに備え、自身の感覚をあえて鋭くさせた――けれど、次に彼女の意識を奪ったのは、胸に刺さろうとするナイフの感触ではなく、どこからか聞こえてきた違和感のある音だった。
この場には、というよりも――ここにあるのが不自然な声。
視線を手繰り寄せると、岸壁の傍になぜかポツンとカゴが置かれていた。
その中には小さな赤ん坊が入っていた。
「なんだ⁉︎」
「……赤子が、どうして」
甲高い声は、緊迫した状況を一瞬の内に解きほぐした。
カゴの中の赤ん坊は泣いているでもなく、はたまた笑うでもなく。
小さな体に内包されたエネルギーを一生懸命に伝えようとして、モゴモゴと甘い声を発していた。
ハーデンの頭に疑問が生じる。
「何も無かった筈なのに」
目の前の事態に、ハーデンは思わずナイフを引く。
活発に、未成熟な言葉でうにゃうにゃと話を続けるその子を見つめ、氾濫した感情の濁流はいつの間にか消えていった。
「ハーデン! カゴを拾い上げろッ!」
「え?」
目を奪われていると、ムラオサが叫び声を上げた。
唐突な焦りの声に思わず、彼を見る。
「違う、カゴだっ! 崖が崩落しかかっておる‼︎」
真っ先に異変に気付いたのはムラオサだった。
カゴの置かれた付近。
崖が崩れかかっている。
全身にのしかかる震えをムラオサは押し退けて、赤ん坊の元へと向かった。
「むゥォーーっ⁉︎」
が、彼はすぐに動きを止めた。
止まってしまったと表現する方が、適切かもしれない。
「こ、こんなときに」腰を抑え、ムラオサは力なく顔から倒れこむ。
「ギ、ギックリ腰だとォォぉ~‼︎」
「私の力の影響……赤ちゃんがっ!」
ハーデンが状況を理解し、駆け寄った頃には、波打ち際へとせり出した地面が裂け、崩れ落ちていくところだった。
ナイフを夜の帳に放り投げる。
崩落の真ん中に置かれた赤ん坊の入ったカゴは、まるでハーデンへと惨い仕打ちでもするかのように、鋭利に削られた崖下の石へと滑り落ちていく。
頭が真っ白になり、熱くなった。
自分の行いを悔やみながら、無我夢中に赤ん坊の元へと走る。
私のせいで、あの小さな命は――。
そう思いながら、前のめりに、上体のほとんどを崖へと放り投げるようにして懸命に手を伸ばす。
「だめ……!」
カゴを握ろうとしたハーデンの手の平が、虚空を掴む。
心臓の音が、けたたましく、耳元で鳴る――。
広げた指の先には何もなかった。
「間に合わなんだか」
無念さに、男の眉間に寄せられていた力がじんわりと失われていく。
「いいえ。ムラオサ様――」
諦めかけたとき、ハーデンが落ち着いた様子で呟いた。
彼女が虚空に放った手の平の先、ふよふよと浮遊するカゴが崖下から現れた。
掴めはしなかったものの、ハーデンはカゴの方へと魔術を込めることで、無事に赤子を救い出すことができていた。
二人はようやく安堵して息を吐く。
「むあ、むあ、もおお~」
崩落の恐れが無い場所まで戻り、ハーデンは赤ん坊を抱きかかえる。
パッチリと開いた目が彼女をまじまじと見ていた。
ハチミツのような黄金色の瞳がキラキラと輝いている。
生まれて数ヶ月、だろうか。
落ち着きが無いのか、小さな手足が常に動く。
「ムハハ! 何があったかも知らずに、元気なものだのう! なあ?」
「ええ……」
腕の中にすっぽりと収まった小さな命は、とても柔らかく、赤ん坊の暖かさはハーデンの身に染み渡っていった。
「しかしまあ、どこから来たというのだ? この子はまるで――夜の中から突如として生まれてきたみたいだ。何とも不思議だよ」
「本当に、一体どこから。私の力でさえ……現れるまで分からなかったもの」
指で赤ん坊のうぶ毛を撫でる。
陽だまりの匂いがして、ハーデンの鼻をくすぐった。
彼女の中でその暖かな匂いは広がり、ハーデンの緋色の瞳からは止めどなく、涙が溢れ出した。
間違いをしてしまった子供のようにポロポロと泣きじゃくる姿を見て、彼女は狂気を思い留まってくれたのだとムラオサは確信し、肩の力を抜く。
「これは――ワシらには理解することのできない何かからの御達しやも知れぬな……しかしハーデンよ。一つだけ言えることもある」
ムラオサは息をたっぷりと吸った後、そして安心させるように言葉を継いだ。
「生きてもよいのだ。死せるべきならば、いずれ向こうからやってくるだろう。お前はまだ生きててもいいんだ」
「……はいっ」
魔術士の暗い心には、一粒の小さな光が灯っていた。
それは目の前の老いた男にも、腕の中でいつの間にか眠りについた赤子の中にもあるものだった。
夜の天井では、一際大きな――青い光を放つ星が彼女たちを見下ろしている。
星の名はシリウス。
それは古くから、人々の心に希望を灯す象徴として、世界の始まりと共に生まれたとされている星だった。