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水陸両用の名将:戚継光⑯

〇「女たちの大逆襲(だいぎゃくしゅう)──万暦三年、将軍の受難(じゅなん)」


万暦(ばんれき)三年──西暦1575年。


「ふぅ……」


戦場でも見せぬような重い溜息(ためいき)を、戚継光(せき・けいこう)は家の中で吐いていた。


そう、この年。彼の正妻が長い病に伏し、天へと旅立ったのだ。


「……妻よ、お前が逝(い)ってから、この家の静けさが怖い」


冬の風が、すうっと障子を鳴らす。兵士としての顔ではなく、一人の男としての顔が、寂しさに曇る。


だが。


その静けさは、次の瞬間、盛大にぶち破られるのであった。


「たっだいま〜♡ 継光さまぁ〜ん♡ 会いたかったでしゅ〜!」


ズバァァン!


障子がすべて木っ端微塵(こっぱみじん)に砕け、飛び込んできたのは、もと側室の一人・“おねだり甘えん坊”な彼女。着物がピンク。声もピンク。


「ちょっとアンタ! 呼ばれたから来てやったけど、部屋も準備してないってどーいうことよ!? まさか、こっちが片付けるんじゃないでしょうね!」


ツカツカと入ってきたのはもう一人の側室、“ツンデレ戦車”こと彼女である。声はキツいが、目元だけちょっと潤んでるあたりが、ツンデレの真骨頂。


「ええい! お前たち、久しぶりに会ったと思えば……なぜ家を壊すんだ!?」


「え〜ん、だってぇ、さみしかったんだもん……継光さまぁ……」


「べ、別に寂しくなんかないけど!? 呼ばれたから仕方なく来たんだからっ!」


──戚継光、額に青筋。


「そもそも、お前たちはワシが追放した身ではないか! 北方で戦に明け暮れる日々、お前たちを守る自信がなくて、泣く泣く……」


「え、なにそれ、聞いてない! あたし達、単に嫌われたと思って大泣きしたのに!」


「わたしなんて、しょんぼりして団子しか食べられなかったでしゅ……十本くらい」


──そこへ、ひょこっと顔を出すのは、戚継光の息子たち。


「父上、あの二人、ずっと庭で騒いでますけど……誰なんです?」


「お母様……では、ないですよね?」


「う、うむ……あれは……」


将軍・戚継光、ぐっ、と拳を握る。


「お前たちの……継母(けいぼ)になるかもしれぬ者たちだ……!」


「「ええぇぇぇええ!?」」


──その日の夜。


「継光さまぁ♡ 寒いでしゅ〜、一緒に寝ていいでしゅかぁ?」


「バカじゃないの!? 布団一枚じゃ狭いし、わたしが先に入るし!」


「ええい! 家の中で戦(いくさ)をするなぁぁああ!」


戚継光は夜空に向かって叫んだ。


北方の戦よりも、倭寇(わこう)よりも、千倍のプレッシャーを抱えながら。


けれど、その夜。囲炉裏(いろり)にあたる彼の顔は、少しだけ、笑っていた。


──(万暦三年、将軍の家、冬にぎやか)



〇『筆と馬と、ちょっと官僚(かんりょう)──将軍、書く!の巻』


万暦(ばんれき)四年──


北の寒風(かんぷう)が吹きすさぶ日、戚継光(せき・けいこう)48歳。将軍の朝は、筆から始まった。


「……というわけで、騎馬民族(きばみんぞく)には、まず弓兵(きゅうへい)で牽制(けんせい)しつつ、機動力のある軽騎兵(けいきへい)で包囲(ほうい)する。これでよし!」


カッ、カッ、と筆の音。机の上には『練兵実紀(れんぺいじっき)』と書かれた巻物(まきもの)。


部下の童元鎮(どう・げんちん)がすっ飛んでくる。


「将軍! また書いておられましたか! もう三日三晩(みっかみばん)寝ておられませんよ! ご飯も食べずに!」


「ふむ、戦とは筆でもできるのだ。いいか、童よ、真の勝利とは準備(じゅんび)にあり!」


「……それ、昨日も言ってました」


続いて、どたどたと入ってくる劉顯(りゅう・けん)。


「将軍、報告であります! 北の砦(とりで)に、馬が六頭、突然逃げ出しまして!」


「……お前、馬の柵(さく)閉め忘れただろう」


「い、いえ、たぶん風で! 風のせいです、きっと!」


「風が馬のロック外すか!!」と童が華麗にツッコミ。


その隣で、すでに笑い転げてるのが、薛綱(せつ・こう)。


「ぶはははは! 風で馬が脱走! やっぱり劉顯は天下一のポカ将軍だな! はっはっは!」


「やかましい!」


そんな騒がしい朝の中、継光は静かに巻物を締めくくった。


「……よし。これで、後の世に伝える兵法ができた。『練兵実紀』、完成だ」


「すごいですね将軍……これ、官府(かんふ)に提出するんですか?」


「うむ。だがな……問題はここからだ」


──後日、都より届いた書状。


『戚継光将軍の進上(しんじょう)せし書物、軍律(ぐんりつ)厳格すぎる。もっと温和な表現に改めよ』


「温和……?」


将軍、震える。


「ワシの兵法は“戦うため”にある! 温和とは何だ!? 弓を“優しく引く”のか!? 馬に“ごめんね”と言って突撃(とつげき)するのか!?」


童元鎮、深いため息。


「また中央の役人たちですね……あの人たち、馬も乗ったことないのに意見するんですよ……」


「わかってない、ほんとにわかってない……」と、劉顯も馬を思い出してしょんぼり。


「ぶはっはっは! 温和な戦! 敵に“ちょっとご挨拶(あいさつ)”してから突っ込むのかよ!」


「笑ってる場合かー!」


戚継光、立ち上がる。


「よろしい。ならばワシは、もっと書いてやろう! あの役人どもが震え上がるほどに、戦とは何かを筆で叩き込んでやるわ!」


──その後。


『練兵実紀』は、さらに加筆され、全二十四巻にもおよぶ大作に。


そして官僚たちは、その重みに物理的にも精神的にも押しつぶされることになるのであった。


「……なんか、将軍、ちょっと怖い顔になってきましたね」


「うむ……書きすぎで“執筆将軍(しっぴつしょうぐん)”って呼ばれてるぞ」


「でも、あれっすよね。敵より怖いの、字書いてる将軍って、なんか不思議っすね」


「ぶはっはっは! 筆と馬、どっちも乗りこなす、我らが継光さまぁ〜!」


──将軍の戦いは、まだまだ続く。


けれどそれは、刀よりも鋭い“筆の戦”であった。



〇【海の武勇伝、空を飛ぶ】


 北の風が強くなってきた晩秋の薊州(けいしゅう)にて、戚継光(せき・けいこう)はくしゃみを三つほど連続でかました。


「……ふぇっ、へっ……はっくしょん!」


「将軍、風邪ですか?」

 と、童元鎮(どう・げんちん)が湯飲みを差し出してきた。いつものように真面目で、顔がかたすぎる。


「違う、誰かが俺の噂してるだけだ。たぶん、俞大猷(ゆ・たいゆう)だな……アイツ絶対、また何かやったぞ」


 案の定だった。

 その日、戚継光のもとに一通のやたら豪華な封筒が届いた。金の縁取り、赤い糸、やたらとキラキラした文様つきである。差出人はもちろん、あの男だった。


「はっはっはっ。これはまた……」


 封を切るや否や、鼻につくような自慢が飛び出した。


________________________________


戚兄へ。

いやぁ、福建と浙江、ちょちょいのちょいでしたぞ。あれです、倭寇(わこう)とかいう奴ら?もう、私がちょっと刀を振っただけで、逃げ惑う逃げ惑う!

海戦三つ、陸戦四つ、すべて勝利。おまけに村人からは「俞大将軍!」と拍手喝采!いやぁ、英雄はつらいですなあ。

──俞大猷 拝。


________________________________


 読み終えた瞬間、戚継光は机に額を打ちつけた。


「……うぜぇ……っ!」


 童元鎮が、湯飲みをテーブルに置いて静かに言う。


「将軍、深呼吸です。去年もありましたよね、この“自慢の手紙”」


「去年は絵葉書だったけどな。『漁村の美人に囲まれてます』って。あれも大概だったが!」


 童元鎮が咳払いひとつ。


「ですが、俞大猷どのの報告、軍略としては貴重です。敵の動向や地形の情報も……えーと、ほら、“おまけ”の下に小さく……」


 戚継光は手紙をひっくり返し、裏に書かれた小さな字を読む。


「……“追伸:倭寇の一部は南下中。武夷山(ぶいざん)あたりでまだ暴れてるかも。たぶん”……だとさ。たぶんってなんだよ、たぶんって!」


 拳で机をドンッと叩く。


 すると、廊下からひょっこりと劉顯(りゅう・けん)が顔を出す。


「将軍〜。海の方から“俞大猷将軍、舞い戻る”って伝令が来ましたけど?」


「舞い戻る、だと……?」


 戚継光の眉がぴくりと跳ねた。


「どうせあれだ、手柄を自慢しに北京まで出てきて、『ついでにお茶しませんか?』とか言うんだろ!」


「その通りでした。あと“おみやげ話、五百話ほどあります”って」


「うわーッ! それが一番つらいやつー!」


 劉顯がヘラヘラと笑いながら入ってくると、後ろから薛綱(せつ・こう)もついてきて、なぜかもう酒を持っていた。


「将軍! こうなったら、あっちが海戦なら、こっちは軍制改革でカウンターしましょうよ! 武芸十八般の見せ場です!」


「バカか! 改革にカウンターってなんだよ!」


「いや〜でも、戚将軍の“練兵実紀(れんぺいじっき)”、こっちじゃ地味に評判ですってよ。中央官僚は相変わらず読んでませんけど!」


「わかってるよ、読んでないどころか積んでるだけだよ!」


 ワハハと笑う薛綱の背中に、おもむろに茶杯を投げつけると、ちゃんとキャッチされて、さらに投げ返された。


 ──カラン。


「よし、今から俞のじじいが来ても、俺は知らんふりを貫く。留守って言え、童」


「無理です。すでに『戚継光殿に正座で語りたい』とお伝えしたそうです」


「正座で五百話か……拷問じゃねーかッ!!」


 秋の風が冷たく、遠く海のほうでまた倭寇の残党が騒ぎ始めていた。

 だが、それよりも手強いのは、自慢話に命をかける男かもしれなかった──。

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