ランデブー
それは佳宵の夜のことだった。この夜のことは誰にも話していない。その記憶を胸の中だけにしまっておこうと決めている。
涼やかな風が頬を撫でる中、私は懐かしい公園を歩いていた。時計を確認するともう30分ほどで日付が変わりそうだった。
周囲に人気はなく、鈴虫の鳴き声が静寂を縫うように響く。網戸越しに漏れ出るテレビの音とぼんやりと灯る街灯の光が交差し、住宅街の静謐さを生み出している。
「厳重注意」と書かれた注意書きの看板の前で足を止める。所々錆びた看板は、どこか自分自身を彷彿とさせるような雰囲気を醸し出しており、言い表せない居心地の悪さを覚えた。
鮮やかな配色で塗られたベンチとジャングルジム。座るには少し憚られるほど明るい黄色のベンチが、街灯の仄かな光を受けて、スポットライトを浴びているような存在感を放っていた。
雨上がりで湿った砂場の隣には、カラフルに塗られた滑り台がある。昔は山のように大きく感じていた遊具が今となっては窮屈に感じ、一抹の寂しさが胸をよぎる。
私はここに来るはずの誰かを待っている。今年、実家を離れて一人暮らしを始めた。その帰省に際して約束したお土産を片手に、公園の中心で立ち尽くしている。
ふと空を仰ぐと、無数の星々が天蓋を埋め尽くすように輝いている。その中でも一際目立つ一等星が視線を引きつけた。
公園内を一周した頃、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動する。ポケットから取り出し、明るくなった画面に目を細める。
「ぼちぼち」
と最小限の言葉で構成されたメッセージが届いていた。私は思わず苦笑する。条件反射でツッコミを入れたくなる。
今どき「ぼちぼち」なんて言葉を使うのは君くらいだ。少しだけ愛嬌を感じさせるそのメッセージに、思わず口元が緩むのを感じた。
それを隠すように、即席の返事を用意し、先ほど見た一等星の写真を添付して送る。一眼カメラで撮ったわけではないので、ちゃんと伝わるかどうかわからない。
そもそもどこか伝わらなくとも良いという諦念がどこかにあった。
それでも何も言わずに意地を張って写真を送ってしまうのは、昔から何も変わっていない自分の癖だ。
返信を終えたスマホは用済みで、再度歩きたい気分になった。この住宅街の外れにある公園には、定期的に足を運んでいた。
入り口付近に青とピンクの強烈なコントラストを放っている2つのベンチが、微妙な距離感を空けて並んでいる。手に持ったままのスマホが震える。
「ちょっと急ぐ」
再び送られてきたメッセージに対して返信する。
「ゆっくりでいいでふよ」
向こうも画面を開いたままにしているのか、送った文章の横には「既読」の文字が表示されている。
「ふよ」
要領を得ない返事だと思ったが、その真意はすぐに判明した。急いでフリック入力をしたせいで誤字をしていたことに気づき、思わず「しまった」と口に出る。
普段なら誤字をしてもそこまで食いついてくることはないのだが、今日は珍しく反応を見せた。
画面の向こうの相手も高揚しているのだろうか、と勝手に想像してみては嬉々としている自分がいた。
「ですよ」
と訂正文を添えて送信した。
数分ほどして、遠くから歩いてくる人影が見えた。
等間隔で整列している街路樹の影を縫うように、隠れながらこちらの様子を伺っているのがわかった。どこかいたずら心を含んだ様子に、彼女の性格が滲み出ている。
その影は、猫のような軽い足取りで現れ、ワルツを踊るバレリーナのようであった。
「久しぶりー!元気してた?」
軽くスキップをしながら公園の入り口から現れた少女と会うのは、実に5ヶ月ぶりだった。
5ヶ月という月日が過ぎているにも関わらず、それほどの時間が経過したという実感はない。むしろ、昨日まで普通に会っていたような錯覚を覚える。
しかし、変わったことも当然ある。例えば、少しだけ明るくなった髪色や、昔よりも妖艶さを纏った笑顔。それでも目の前にいるのは紛れもない彼女自身だった。
天真爛漫な笑顔を湛えている目の前の女の子を、街灯が薄く照らしている。さながら映画のワンシーンのように美しく、儚く感じられた。
彼女の明るくなった髪色とは対照的に、暗い影法師が長く伸びている。
「はいこれ、お土産」
「わー!ありがとー!」
手渡したお土産を見て、子どものように目を輝かせている。その無邪気な反応は何も変わっていなくて安心した。
いつ見ても彼女の反応には愛くるしさがある。大人になりきることのできていない童心が見え隠れしている。
昔から他と違って華やいで見えるのは、屈託のないこの笑顔と嫌味を感じさせない針のような声のせいだろう。
自分の中で、他人に対してここまでの評価をしていることに驚嘆する。
「本当、久しぶりだねー。さっきまで何話すか覚えてたんだけど、今ので忘れちゃった」
彼女は嬉しそうにお土産を眺めている。
「なんでだよ」
懐かしい感覚に、言葉で言い表せないむず痒さを覚え、それを誤魔化すように言葉を紡いだ。
「ほら、夜も遅いし、お土産も渡せたし、帰ろうか」
「えー!もうちょっと話そうよ。明日帰っちゃうんだし、それにほら」
彼女は手に持ったビニール袋を差し出してきた。中には、小さなペットボトルの飲料と、コンビニで売っているような焼き菓子が綺麗に袋に入っている。
「え、何これ」
戸惑いつつも袋を受け取り、再度袋の中身を確認しながら尋ねると、彼女は首を傾げながら笑った。
「だってお腹空かせてないかなーって思ってさ」
曖昧な自信に満ちた返しに、思わず笑ってしまう。
「それ偏見じゃない?」
「ん?偏見じゃなくて経験則だよー」
こう見えて、昔から彼女は洞察力に長けている。何かと人のことを見て、先回りをして準備をしてくれることが多かった。
せっかくなので、ベンチに腰を下ろし、彼女も袋一つ分の間隔を開けて隣に座った。
彼女の細い指が袋を優しく開け、クッキーの甘い香りがふわりと広がる。
「はいどうぞ」
「ありがとう」
感謝を述べて、クッキーを受け取り、口に放り込む。バターの香りが口いっぱいに広がる。
「これ、美味しいな。どこのやつ?」
「でしょー。これはね、さあ、どこのやつだっけな」
彼女は少し得意げに笑う。その横顔を見ていると、どこか懐かしい気持ちが胸を満たしていく。
「そういえばさ、最近どう?」
「最近?」
曖昧な問いかけに少し戸惑ったが、彼女は特に補足することなく、袋に入っているミルクティーを取り出してペットボトルのキャップを開けた。
「まあ、ぼちぼちかな」
曖昧な問いかけに対して曖昧な返答をしてしまった。
「なに、ぼちぼちって。今どきそんな言葉使ってる人なんてそうそういないよー?」
こっちのセリフだと思ったが、彼女の笑顔を見るとそんなことはどうでもいいことのように感じられた。
「まあ、なにも変わりないならいいんだけどね」
どこか安堵したように笑う。その笑顔には、普段の天真爛漫な笑顔とは違う、大人の品のようなものが含蓄されていたように思う。
金色の月が雲間から顔を覗かせ、淡い光が公園全体を照らし出す。
「大学はどう?」
片手ほど歳の離れたこの少女は、昨年度高校を卒業し、今は大学に通っている。
「楽しい…かな。結構忙しいけど、友だちもできたし」
「あれだけ不安がっていたにしては良かったじゃないか」
「まあね。でもやっぱり昔からの友だちの方が気楽かなー」
空を見上げながら呟く彼女の横顔は昔のままの少女な気がした。
「今日、満月だな」
月暈のかかった月を見て、思わず月が綺麗だと言いかけた。
「あ、満月の日ってね、あんまり良くないことが起こるらしいよ。あと新月の日も」
「縁起でもないな、明日帰るのにそんなこと言うなよ」
「だってそういう話があるんだもん」
出典不明の情報に狼狽うろたえる私を見て、目の前の少女はケタケタと笑っている。
「あ、そういえばさ、さっきの写真の星ってどこ?」
「あーあそこだよ」
そう言って北の方角を指差すと、彼女の視線が私の指先から空へと移っていく。
「あー、あれはね、おおいぬ座だね。あの星わかる?あそことあそことあそことー、あとそこら辺を適当に」
次々と指差す方向を微妙にずらしては指でなぞっていく。途中顎に手を当てて名探偵のように考える仕草をしていたせいで、真剣なのか冗談なのか分かりにくかった。
「おおいぬ座って言ったらシリウスみたいなのなかったっけ」
「そうそう!知ってるじゃん!」
「名前だけな。ていうかよく星座覚えてるな」
素直に感心した。彼女がそこまで星座に明るいことなど思ってもみなかった。
「こう見えても、星座は小さい頃から好きなんだー。小学生の時に学校でもらった星座早見盤、まだ持ってるんだよ」
そう言いながら、別の星座を探して空中を見回している。
「だからこんなふうに、夜中にお父さんと散歩がてら、星を見に行ってたの。懐かしいなー」
鼻歌まじりに指先をくるくるとしている姿は魔法使いにも見えた。
「そんなに好きなんだな。知らなかったよ」
「面白いよ?ハエ座とかコップ座とか変なのもいっぱいあるし」
「なんだそれ…」
「でも素敵だと思わない?私たちが一生かけても辿り着くことのできない場所から光が届いて、それが今こうやって私たちの頭上に降り注いでる」
彼女の瞳が星の光を反射してまばらに輝いているのがわかる。
「想像することすらできないくらい広大な宇宙のことを考えてたら、私たちがすること成すことってこんなにちっぽけなんだなって、面白おかしくなっちゃう」
そう呟いて鼻元に手を当てて笑っている。下を向いて笑った彼女の綺麗なうなじが月明かりに照らされて、白く輝いている。
「だから私は小さなことで悩むよりも、もっと大きなことを考えたい。もちろん世界平和とかも大きなことだけど…それよりももっと大きなこと」
もう一度空を見上げた彼女の綺麗な二重の瞳は、輝く星々を物憂げに見つめている。
「私は星座になりたいとは思わないけど、ふとした瞬間、誰かに思い出してもらえるくらいには素敵な人生を送りたいな」
もう十分君はそうなれてるよ。そう喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「ほんと、懐かしいね」
そう寂しそうに呟いた彼女がこちらに視線を遣ったことに気づいた。
「あ、そうだ。花言葉があるように星にもね、星言葉ってのがあるんだよ。シリウスは確かー、なんだっけな」
記憶を探るように彼女は眉を顰ひそめる。
そんな彼女を見かねた私はスマホで調べようと、ポケットに手を伸ばす。
「あーダメダメ!星座の本持ってるからさ、スマホで調べるよりもそれで調べてみてよ!あとで貸してあげるからさ」
半ば強引な形で掴んでいたスマホを引き剥がされる。
「でもスマホで調べた方が早くない?」
「まあ、確かにそれはそうなんだけど、それは一人の時に!」
無理やり説き伏せられてしまったように感じるが、納得しないことには進まないので首を縦に振った。
「あ!あと誕生日星っていうのもあるの!私の誕生日星はー…あとで貸す本に載ってるから調べてみてね」
好きなことを話す時の彼女はマシンガンのように止まらない。普段から笑顔の絶えない子であるが、より一層輝いて見える。あの一等星”シリウス”のように。
その日話したことはそのこと以外よく覚えていない。ただ確実なことは、あの日から一つの星が頭の中で煌々と輝きを放っていることだ。
机の上には一冊の本が置かれ、青色の付箋がページの隙間から顔を覗かせている。
その付箋の先には星言葉『幸せを分かち合う』、そう記されていた。けだし至言だと感じた。
「このページ、シリウスじゃなくて君の誕生日星じゃないか」
相変わらず可愛らしいことをする。いたずらっ子な少女からは随分と幸福感を与えられた。胸が熱くなるのを感じる。
その日のことをどうせなら記録として残しておきたかったが、時間が経ってしまった今では、鮮明とはいえないものになるだろう。
時計を確認すると、時刻は日付を変えようとしていた。天気予報を確認すると今宵は快晴らしい。
あの日見た”シリウス”がまた輝いていることを願って、私は玄関の鍵を静かに閉めた。