Eの物語 後編
「姉様の黒く染まった髪を見て……あたしがいつまでも黙っていられると思ったの?」
わたしはルクレチアの言葉に答えることは出来なかった。黙ったまま、視線を逸らす。
「こんなに真っ黒になってしまって……。あいつらを癒して癒して癒しつくして……聖女の力なんて、嘘よ。姉様の力は……相手の瘴気や病を吸い取って、その身に引き受けているだけじゃない。あんな男の目を癒したから、姉様の目は……。今、目の前に座っているあたしのことだって、ぼんやりと見えてるだけでしょう?はっきりなんて、見えてないものね。あんな馬鹿騎士の右腕を生やしたから、姉様の右腕は動かなくなった。病弱な阿呆のせいで、立って歩くことさえも辛くなった。姉様の体に回った瘴気は……姉様のはちみつ色の髪を黒く変えた。もうこれ以上あの国で『聖女』なんてやっていたら……姉様の体がもたないわ。姉様は死にたいの?」
「だけど……」
「だけど何?聖女なんだから、その身を犠牲にするのは仕方がない?そんなこと言うの?」
「だって、皆様……国を支える重鎮になられる方ばかりなのよ?」
「姉様を犠牲にして成り立つ国なんて、滅びればいいのよっ!」
吐き出すようなルクレチアの言葉にわたしは目を伏せる。
そう……確かに、わたしの力は「聖女」などというものとは違うのだろう。だから対価もなしに、誰かを癒すことは出来ない。わたしは自分の身を犠牲にして、相手を癒す。
まあ、腐り落ちた右腕を生やすのに対する対価は、単にわたしの右腕が動かなくなる程度なので……1対1の対価ではないのだけれど。足りない代わりなのか、誰かを癒すたびに髪がどんどん黒く変わった。
そうして、今。国境を越えようと、王都から遠ざかるほどに……わたしの髪は黒から元のはちみつ色に戻っていった。ぼんやりしていたはずのルクレチアの姿が、次第にはっきりとしてくる。怒りを抑えるように、握った手が震えるのさえ、見えた。
……今頃、王都では、きっと。
わたしははらはらと涙を流す。
「姉様が泣く必要なんてない。あいつらの元へあいつらのモノが戻っただけだもの」
カイル王子の目は、再び見えなくなっていることでしょう。
ヴァレオ様の右腕は、腐り落ちているでしょう。
モンドリアン様は、もうベッドから起き上がることも出来ない。
ブライジル様やヴィヴィオス様、レスタント様……、それだけではなく、きっとわたしたちのお父様とお母さまも。
「聖女なんてお父様がついた嘘じゃない。いくらでもどんな怪我でも病気でも治せますなんて。それでお金をたくさんもらって贅沢して。あんな人たちが遊んで暮らすために姉様が苦しむの?あたし、ふざけんなって、ずっとずっと言いたかったわっ!今頃お父様もお母様も苦しんで、床でも這いずりまわっているかしらねざまあみろっ!」
「ルクレチア……」
そう、最初は。父と母の病を癒したことが最初だった。父と母はわたしに感謝することなく、次々と、たくさんの人をわたしに癒させた。そして、高価な対価を欲した。カイル王子との婚約も、そうして決まったもののうちの一つでしかない。
それでもわたしは。
あの晴れた空のような青い瞳が……好きだった。あの瞳で見つめられ、ありがとうと、たくさんの人を癒せるなんてエリザは本当に奇跡を起こせる聖女なんだねと、カイル王子に微笑まれるのならば……と、この身を犠牲にすることすら厭わなかった。
なのに……。
「あんな恩知らずたちはもう忘れましょう姉様。こんな国を捨てて、どこか遠くへ。きっとあたしが絶対に……姉様を幸せに暮らせる国を、姉様のことを本当に愛してくれる人を探すから」
「ルクレチア……」
ぼろぼろと、大粒の涙を流すルクレチア。……本当は、わたしが身に受けた怪我や病を、相手に返すことなく、わたしの躰から消し去る術を探してくれていたんでしょうね。ルクレチアは優しいから。だけど、見つからなかった。ルクレチアの強大な魔力を駆使しても、そんな方法はなかったのね。
きっと、わたしを助けて、他の全員を見捨てるか、それとも、わたしを犠牲にあのまま、皆を生かすかで迷ったでしょう。悩んだのでしょう。
それでもルクレチアはわたしを選んだ。わたしを生かして全てを捨て去る道を。
わたしが罪悪感など抱かないように、カイル王子を誘惑でもしたのでしょうね。それとも魅了の力でも使ったのかしら。記憶操作なんてことさえしたのかもしれないわね。……あれほど使いたくないなんて言っていたルクレチアの力を。
カイル王子がわたしを裏切れば、わたしのカイル王子への思慕など消えると信じて。
きっとわたしのために。わたしを死なせないために。
「ごめんねルクレチア」
謝る私にルクレチアは「姉様が謝ることなんて何一つない」ときっぱりと言い切った。
カタンと音がして、馬車が止まった。国境に着いたのだろう。
「さあ、悪女エリザ。ここで降りろ。後は何処へなりとも行ってしまえっ!」
御者の男が、吐き出すようにして、告げる。
そう、ね。悪女なら……、もう、カイル様達のことに胸を痛めなくてもいいのかしら。
久しぶりに、痛みもだるさも感じない自分の躰。
それを喜んでいいのかしら。
馬車の扉を開け、自分の足で、馬車を降りる。体がまるで新しく生まれ変わったように、軽い。吸う息が、苦しくない。
一人しか乗っていないはずの馬車から、二人降りて来たことで、御者が驚いた顔をしていたけど、わたしは構うことなく、ルクレチアの手を握る。
「さあ、行きましょう」
「ええ姉様」
何が正しくて、何が悪いのか。そんなことは本当には分からない。だけど。
見上げる空は既に暗く、夕暮れのオレンジと夜の黒が入り混じっている。青の色はもうそこにはない。その薄暗い空の先に幸いなどあるはずはないとは思うけれど。……だけど、わたしと手をつなぎ、共に歩いてくれるルクレチアがいる。
夕闇に溶けるように、わたしたちは歩く。……いつか朝日が昇るまで。